空の続きはアフリカ
30年も前にナイジェリアの一人の女性のしたこと

【2013.03.15 Friday 23:20
 皆様、2013年も3 月になってしまいました。

2012年の年末は日本に一時帰国し、久しぶりの寒い冬を楽しみました。ダーバンの冬はどんなに寒くても朝方4度くらいになるくらいですので、久しぶりに見る雪に感動しました。

さて、寒い日本から一日ちょっとかけてダーバンに戻ったら、あっという間に仕事の波に巻き込まれ、「今年こそは絶対に月二回は空色庵を更新しよう!」という年頭の誓いもどこかに吹っ飛んでしまいました。

そんな私に届いたのが、昨年まで毎週更新していたカフェグローブのコラムの読者さんからのメールでした。

「吉村峰子さま、毎週、峰子さんの記事が更新されるのを本当に心から楽しみにしていました。どんなことでも、読んでいるうちに元気をもらって、そうだ、私もぐずぐずしていないでがんばろう!と思えたんですよ。なので、終了してしまったとき、それでも、こちらの空色庵で毎週峰子さんの文章を読めるとわかって安心しました。でも、お忙しいんですよね。無理は言いませんが、不定期でも書いていただけると嬉しいです」

自分を絞め殺したくなってしまいました。ほんとに。

ごめんなさい。心を入れ替えます。書き手にとって、自分の文章を心待ちにしていてくれる人がいる、ということがわかるのは、本当に嬉しいことです。

でも、出来そうもないことを約束しても仕方がないので、心を入れ替えたことだけ、ここで表明して、自分を律することとします。

さて、英国のロンドンから来ている大切なお客様をダーバンから3時間ほど離れた野生動物保護区にお連れしました。

南アフリカの野生動物保護区は、公立のものと私立のものがあり、今回は、私立の Rhino River Lodge というところを選びました。



いま、南アで密漁される野生動物として一番脚光を浴びているのが、このRhinoたち、サイなのです。なんと今年に入ってから、わずか二ヶ月で、南ア全体で80頭を上回るサイたちが、密漁者によって殺されています。

密漁はほとんどが、スタッフの数が限られている公立の保護区で起こります。また、非常に金銭的に困窮した人に賄賂を渡して、密漁を実行するので、なかなかそのルートを根絶することが難しいのです。

貧困を撲滅することがどれだけ難しいかをここで繰り返しはしませんが、明日の食べ物さえ満足に確保できない状態の人に、野生動物の保護を訴えても、いかに説得力がないか、想像していただけると思います。

私は密漁を絶対に支持しませんが、動物を密漁するしかない経済状態に陥っている人々と、その人たちを操って、巨額の富を得ている密漁者の元締めたちは区別しておきたいとも思います。

ただ、残念なことにサイの密漁は、その角をアジアの国々に漢方薬の材料とされることが多いのです。しかも科学的には何の根拠もない、“強壮剤”として価値があるらしいのです。
今回、このロッジを選んだのは、このロッジも参加しているというサイの密漁ストップのキャンペーンのことを知りたかったこともあったので、ロッジの名前に“サイ”がつくことなども、なんとなく、親しみ易い気がしたからです。

このRhino River Lodge の在り方もとってもユニークです。ここは、隣接する他の同程度のロッジ16軒と、23000ヘクタールの保護区を共有することにより、一泊1万4千円程度の費用で、全食事、サファリ2回のサービスを提供しているのです。

実は、南アの野生動物保護区の中には、一泊の値段が、公立学校の先生の一か月分くらいの値段を取るところもあるのです。日本でだって、バブル時代には、一泊10万円もする割烹旅館などもあったかもしれませんが、これだけ貧富の差がある南アで、10万円もかけてサファリを楽しむことは私には居心地が悪いのです。

このRhino River Lodge には、南ア人観光客が多いことも、その料金のお手軽感をよく表しているのかもしれません。

もちろん、この金額だって、通常の南ア人にはとっても高い金額です。でも、例えば、子どもたちがお金を出し合って、両親に金婚式のプレゼントに、といったようなことも不可能ではないのです。





さて、今回の私のお客様は、本名を、Winifred Lawansonと言います。

彼女は、私のひとつの仕事上のパートナー、Mike Dokunmu氏のお母様です。彼は、南アに10人もいない正式なFIFAのエージェントですが、もともとの出身はナイジェリアで、今こそ南アに帰化していますが、17歳で英国に渡り、教育の最後は英国で受け、その後、南アに移住してきました。

Winiさん、私たち家族の中では、Aunty Wini、つまり、WiNiおばさん、と呼ばれています。

ナイジェリアで彼女は子ども5人を抱えて離婚。その後、一人で自分の子どもだけでなく、親戚関係にもない子どもたちを6名ほど育て上げました。

何と、彼女と結婚したい、という人が現れたこともあったようですが、その彼に、

「あなたとあなたの子どもたちの面倒は見たいと思います。でも、結婚したら、このエキストラの子どもたちは家から出て行って欲しい」

と言われ、彼女はこう応えたそうです。

「それでは、私の人生から出て行くのはあなたのほうですね」

そのときのことを聞くと、彼女の答えは明快です。

「自分の子どもだろうが、他人の子どもだろうが、一旦私の家族になった子どもたちは、ずっと私の子どもに決まっているでしょう?それが分からない人間と人生を共にする気持ちなんかないわね」

なんと胸のすく、カッコよさではありませんか。

いまは仕事をすべて引退して、悠々自適のWiniさん。以前から旅行が好きだった彼女は、今回ダーバンに来るのをとても楽しみにしていたのです。

私は自分の母を4年前に亡くしています。母が生きていたら、母をここにも、あそこにも連れて行ってあげたかったなぁ、と思うことが多々あります。

だから、ヨハネスから彼女を招待して、またサファリへも出掛けて、というのは、まるで母と旅行をしているようで、何とも心楽しいことでした。

何十年前のナイジェリアで、こんな懐の深い女性が、彼女が引き取らなかったら、ストリートチュードレンになる可能性があった子どもたちを、自分の家に家族のように向かい入れ、たっぷりの愛情を注いでいたのですよね。

私は、彼女にその時の「ありがとう」をこんな形でちょっと、ほんのちょっとお返ししたかったのです。

彼女のしたことは、この6名の子どもたちの人生を根本から変えました。いま、成人した彼らはそれぞれが立派な社会人となり、いろいろな国、地域で活躍しているそうです。

私はこういう心の歴史を持った女性と知り合いになったこと事態に頭が垂れるのです。

ああ、いいなぁ、人生、捨てたモンじゃないよね、と思います。
Winiさんにはもっともっと長生きして、皆を励まし続けて欲しいと思います。






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「世界なぜそこに?日本人」に出演します

【2012.12.11 Tuesday 23:10
 皆様、

更新がとっても、とっても遅れています。ごめんなさい。
今週、日本へ向けて出発する前に、何とかひとつ、と思っています。

さて、今日はお知らせです。
以下のテレビ局の番組でテレビに出ます。もしもご自宅にいらっしゃったら、ご覧くださいね。せめて、もう少しほっそりしてから出演したかったのですが…。

取材チームがダーバン入りしてから、ずっと雨が続いています。もっともっときれいなダーバンを撮影していただきたかったのですが、仕方がないですね。

私のもろもろの仕事やNGOでのこと、また、偶然なのですが、夫が生前していた車の輸出の仕事もものすごい偶然で問い合わせがあり、ちょっと下見に行ってきました。

これは、私たちが移住して、最初に夫がしていた、ダーバンに集まる日本の中古車を南部アフリカにいる、米国や欧州の大使館、国連、国際NGOのスタッフにいいものを選んで輸出する、というもの。

何と、2004年の最初のお客さんが、9年ぶりに連絡をくれたのです。稔のメールアドレスにその依頼が来たときは、ちょっと涙がでました。よく連絡先を覚えてくれましたね、という私のメールにこんな返事をいただきました。

「過去35年、米国の外交官として働いてきて、私は信頼できる人間の連絡先を無くすことはないのです。稔が選んでくれた車は、その後ナミビアで3年間、ただの一回も故障することなく走り、私たちがナミビアを去るとき、買ったときと同じ値段で転売できました。どれだけ、僕たちがHappyだったか想像できるでしょう?」

私は車のことはメカニック的に何も分からないけれど、この来年の7月にアフリカに戻ってくるという彼には、私の人脈を総動員してまた車を探そう!と思ったのでした。

皆さん、この番組を見る際は、実際に映る姿から体重を10キロほど差し引いて見てくださいね。

吉村峰子

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「世界なぜそこに?日本人」テレビ東京系列

・同時ネット 2012年12月14日(金)19:54〜20:54
   テレビ東京
   テレビ北海道
   テレビ愛知
   テレビ大阪
   奈良テレビ放送
   岐阜放送
   びわ湖放送
   テレビせとうち
   TVQ九州放送

・以下のテレビ局でも放送の可能性があります
 ただし、放送日未確定
   秋田放送
   富山テレビ放送
   新潟放送
   山陰放送
   福島中央テレビ
   熊本朝日放送
   山口放送
   テレビ長崎
   岩手めんこいテレビ
   宮城テレビ放送
   琉球テレビ放送
   高知放送
   静岡第一テレビ
   テレビユー山形
author : y-mineko
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ホンモノ、美味しいモノ、って?

【2012.11.05 Monday 23:24

美味しいものって何だろう、と考え込んでしまいました。


私、過去40年間の自分の体重が物語るように、作ること、食べること、食べさせることが大好きです。


いつだったか見たジュリア•ロバーツ主演の映画で、映画女優を演じる彼女が、


 「年がら年中ダイエット中、だからいつでもお腹がすいているの」


 という台詞を言ったとき、心の底から、


 「ああ、そうなんだ」


と思ったし、日本の雑誌で、松田聖子さんが、とんかつが大好きだけど、年に2回くらいしか食べない、というインタビュー記事を読んだときも、


「わあ、すごい意思だなあ」


とうなだれた思いがあります。


つまり、美しく痩せている人たちは、みなさん人並み以上の努力をされている、ということなのですよね。


こういうことを知ると、よし、私も体重を落とそう!とは思うのですが、いつも24時間もたたないうちに、


「まあ、ちょっとだけいいか,今日もよく働いたし……」


となってしまうのです。


こんなことではいけない!と思いつつも、アフリカにいると周りがすごいので、ついつい甘えてしまうのです。


いいことなのか,悪いことなのか分からないのですが,日本では百貫デブと言われても仕方のない私が,アフリカではまったく普通サイズなのです。


私が体重を落とさねば、とつぶやくと、


「どこを?」


なあんて、かわいらしいことを多くの人が言ってくれるわけです。


でも、日本の小柄な女性の中に入ると、ああ、なんて巨大な私、と反省するのです。


私がアフリカを永住の地に選んだのも、結構、こういったことが頭の奥になかったのか,と言われると、ううん、一挙に否定はできないような……。


さて、情けない体重の話はさておき、今日の本題の美味しいもののことに話を戻しましょう。


こんなことを思ったのも、実はさきほどちょっとのぞいた Facebook で、ある人が、お母様の作ったドーナツがどんなお店のドーナツよりもおいしい、と書かれていたのです。


私たちがエチオピアに住んでいた時、日本人家族の中にちょうど年齢の近い子どもたちが何人かいました。


その子どもたちを可愛がってくださる人たちの中に、結婚したばかりのカップルがいました。


そのお二人がバンコックだったか、シンガポールだったか,出張に出られた際、そのお土産に、先進国のドーナツチェーン店からのドーナツを買ってきてくださったのです。


そのとき、彼らが、満面の笑顔でこう言ったのです。


「みんな!ほんもののドーナツだよ!」


そのとき、私はとっても複雑な気持ちになりました。


「えっ?じゃあ、このいつも食べているエチオピアのドーナッツはほんものじゃないってこと?うううう〜ん?」


この若い二人に何の悪意も他意もないことが明白だっただけに言葉を無くしました。

 

実は、小麦粉を卵とお砂糖で練って、油で揚げる、という形のおやつは、エチオピアでも、マラウィでも、そしてこの南アフリカでもよく見かける定番のおやつであり軽食です。


話はそれますが、南ア•ダーバンのこの辺りでは、その揚げたての甘くないドーナツにポロニーという魚肉ソーセージのようなハムを一枚挟んで、昼食にします。なんとこれ名前までついていて、“ズルー(南アの最大黒人部族の名前)バーガーといいます。これは結構ボリューム満点で、一個食べれば結構な栄養補給となるのでしょう。お値段はサイズにもよりますが,ポロニー付きで約25円くらいです。


さて、エチオピアのドーナッツに話を戻しましょう。エチオピアではこのドーナッツの多くは道ばたのドーナツ屋さんで揚げたてのものが買えました。我が家の子どもたちは、このエチオピアドーナツが大好きで、友達の家に遊びに行くときによくこれをねだりました。


アディスアババの町中で、生ものの買い食いはちょっと衛生面が心配でしたが、高温で揚げたてのドーナツは美味しくて、子どもたちとその素朴な味を楽しみました、


なので、彼らの“本物のドーナッツ”定義に納得することができなかったのです。


美味しいものって、本当に個人的な思いが強いのですよね。


さて、こんなことを書いてきたら、いま、南アで日本のどんな味が恋しいかな、と考えてしまいました。


食い意地の張っている性格ゆえ、アフリカのどんな土地でも、圧力鍋で美味しい日本のお米を炊き、お醤油とお味噌をなんとか調達して、日本の家庭料理を作ってきました。 


ここダーバンでは、種類さえ少ないものの、かなり程度のよいお刺身も入手できるので、食生活に関してはそう不自由はしていません。もちろん,日本のラーメンや美味しい薄切りのお肉などは恋しいのですが……。


でも、ありました!幻の恋しい食べ物が!それも、高校生のときに、つくづく「美味しい」と思っていて、いまではもう食べられないであろう食べ物が。


大昔、私が卒業した高校は東京の西、立川にありました。立川駅に出るためには繁華街を毎日通っていたわけです。そんなにお小遣いがあったわけではないので、そんなに高いものでもないのです。


それは、今は影も形も変わってしまった、以前の高島屋デパートの地下一階にあった、焼きそば屋さんのもやしやきそばです。


そのお店は立ち食い!のお店で、職人さんとしかよべない何人かのおじさんたちが、毎日、毎日、このもやし焼きそばを作っていたのです。


細切れのお肉なんか、ほんの少ししか入っていなかったと思います。でも、たっぷりのもやしと麺、その上にかかっていた茶色の特別なソース。


いまでもあの味が舌に甦ります。世界の美味しいものをいろいろ食べてきましたが、あの焼きそばの味は、かなりのものだった、と自信を持っています。


ああ!食べたい!


でもね、あの場所にあった高島屋さんはもっと奥の方に移転してしまったし、しかも、これ、私の高校時代の話なので、な、なんと、1970年代のお話です!げげげ、ということは、40年近く前のこと?そんな馬鹿な!いつの間に私たちこんな年齢になってしまったんだか……。


今年の暮れ、日本に一時帰国しますが、あの味には巡り会えないでしょうね。


でも、こんな味を思い出したのも,今年に入ってからFacebookでつながった昔の同級生たちのおかげかもしれないですね。みんなありがとう!今年はその何人かに会えると嬉しいな、と思っています。

 

 

author : y-mineko
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ショウコ、おめでとう

【2012.10.19 Friday 16:27

2012年10月、我が家の弾丸娘、ショウコが高校を卒業しました。



10月の始め頃から、もう学校は卒業週間?とでもいうような行事が目白押しでした。でも、本人たち、実は、Speech Nightと呼ばれる卒業式のような行事を最後に、通常の学校の授業からは開放されるものの、南アフリカ全国一斉に行われる高校卒業試験が控えているのです。この試験は10月の終わりから1ヶ月半ほどかけて順々に行われるので、日本のように、「ああ、終わった」と心から思えるのはこの卒業試験が終了してからでしょう。

南アの高校は5年制です。つまり、日本の中学2年生が新入生となり、5年間同じ校舎で学ぶことになるのです。

ショウコの学校は寄宿生の女子校でしたので、それはそれは長い時間を友人たちと過ごしたことにになります。


2009年の彼女たち。下の写真と合わせてご覧ください。ショウコさん、かなり大人になりました。この上の写真の記事はここから




ショウコは今年に入ってから、頻繁に学校や友達への不満を口にするようになり、傍らで見ている私にも彼女がもう人生の次のステージに移る時期が来ていることが分かりました。

彼女の抱えている違和感は、私も自分の若い頃がそうだったからよく理解できました。

彼女が現在の自分の居場所に違和感を抱えてあっちこっちにぶつかり、痛い思いをし、時には涙を流しているのを傍で見ているのは、自分がそういうものを乗り越えるよりも厳しいものがありました。

でも、彼女の場合、これが4月に入るころになると、自宅以外での食事はなかりの確立で吐いてしまう、という症状も出始めました。

いろいろなお医者さんに行きましたが、吐き気止めを処方されるだけで根本的には何の解決にもなりませんでした。

また、この頃ちょうど、彼女の矯正歯科治療の最終段階で、元々欠損していた前歯2本のインプラント手術をしたことで、なんと、ショウコさん、18歳にして生まれて初めて抗生剤のお世話になったのです。

母のくせに、私の記憶はかなりいい加減なので、“私が覚えている限り、初めての抗生剤”と断ったほうがいいかも知れません。でも、こういうことにかけては記憶力抜群のショウコ本人も、覚えていない、と断言していますので、多分、正しい情報です。

この抗生剤の服用も、この時の彼女の体調の悪さに拍車をかけました。医療関係者の友人にも、「18歳まで抗生剤を服用していなかったら、そりゃあ、体のショックは相当なものかもしれない」とも言われてしまい、とにかく食べ物がなかなか身体に留まっていてくれない状態になってしまったのです。

結果として、彼女、4月頃から6月までに、なんと10数キロも痩せてしまいました。いくら身長が173センチもあるとはいえ、こんなに短期間にこれだけ体重が落ちると、彼女を知る人全員が、顔色を変えて、「ショウコ、どうしたの??」と心配するくらいでした。

何人かのお医者さまにも見てもらったのですが、大方は「高校3年生がストレスです」という診断で、特に積極的にこれ、という治療方法は示してもらえませんでした。

ショウコさん、6月の学校の最後の2,3週間は、授業にも出られないような状態になってしまいました。この間、成績もかなり落ち込みました。

6月末から7月にかけての3週間、彼女が、高校生活の中でも、本当に気合を入れて精進していた地域選抜の合唱団の英国ツアーがあったので、この旅行期間中、どうやってしっかりと栄養を確保するのか、というのが大問題になりました。

結果から言うと、かなりの部分はスーパーマーケットで購入したヨーグルト、バナナなどで凌ぎ、ツアーの他のメンバーがファーストフードで食事を取っていたのと対照的な“健康的”食生活を送ったようです。お小遣いの大部分は食費に消えていったようですが……。

さて、このツアーは空色庵の記事「英国での合唱コンクール」でも書きましたが、英国Walesでの国際コンペに出場することが第一の目的で、彼女はメゾソプラノのリーダーでしたので、どれだけ彼女がプレッシャーを感じていたかは想像に難くありませんでした。

しかし、このコンディションにも関わらず、結果、合唱団として堂々の2位獲得、ショウコが振り付けを担当した、Show Choirという踊りを交えたコンペでも、3位入賞という立派なものでした。

ところが、英国から帰国して、3学期が始まっても、ショウコの症状は改善しませんでした。吐き気も自宅以外の食事がどんどん取れなくなっていきました。

週の月曜から木曜までは学校の食事を取らなくてはいけないショウコのために、学校のキッチンでも、彼女のために鶏肉のササミや野菜をゆでてくれたり、といろいろ配慮してくれました。

ただ、この状態ではこれからの卒業試験を乗り切ることはほぼ不可能でした。

そこで、学校の近くのクリニックに高校生の患者を多く扱う医師がいる、ということを聞いて、この先生の診断を仰ぐことにしたのです。

この先生Dr. Smit は、最初の診察の場に仕事の関係で行くことができなかった私のために、わざわざ電話をかけてきてくれて、20分も詳しい説明をしてくれました。

Dr. Smitは、ずばり、

「ショウコには短期間でいいので、習慣性のない、効ウツ剤を処方したいと思います。彼女は2年前の父親の死とか、現在の最終試験のプレッシャーとかでもう崩れる直前です。あなたは効ウツ剤を服用させることに異議がありますか」

これを聞いて、正直驚きました。

ショウコは幼い頃から、とにかくわが道を行く弾丸娘で、人と違うことに対しての恐怖感があまりありません。理解してくれる友人には恵まれるものの、中には彼女をライバル視して、距離を置く同級生もいます。でも、日本人ならではの礼儀正しさや面倒見のよさから、先生や上級生、下級生からの人気は絶大ですし、問題があっても正面から挑み、傷ついても、泣いても、落ち込んでからの回復の早さが彼女の長所なのでした。

ただ、私は心の病に関して、身体の病と同じ、という考えがあります。怪我をしたら、手当てをするのと同じように、もしも彼女が稔の死やいま抱えている将来への不安などで心がちょと弱くなっているとしたら、それを一時的に緩和する薬を服用するのは、とっても自然なことだと思いました。

Dr. Smitの提案で服用した薬の効果は劇的でした。

ショウコはこういった薬の効果は少なくても数週間は様子を見なくてはいけない、と言われたにも関わらず、3日目にはこんな電話をかけてきました。

「お母さん、今日、何も吐かなかった!そして、身体が軽い!もやもやしていた気持ちがすっきりした!!うわ〜、もっと早く薬を飲めばよかった!!!」

これを聞いて、苦笑するしかありませんでした。

今まで、ほとんど薬を服用することなくこれまで生きてきたショウコだから、こんなにポジティブに効ウツ剤に反応しているのか、あるいは、ドラマクイーンの異名をとる彼女の性格が、薬に相乗効果をもたらしているのか……。

ショウコは父親の死に際し、その死を受け入れるためのカウンセリングを受けることはありませんでした。これは、カンジも私も同じでした。

傲慢かもしれませんが、日本の文化や日本人のことはまったく知らない西欧のカウンセリング手法を用いる南ア人のカウンセラーでは、日本人の私たちの感じている最も身近だった父親への夫への思いを汲んでくれないかもしれない、という思いがあったのです。

でもそれよりも、何よりも、深いところでの文化のギャップを父親や夫の死を題材に、まったくの他人に語る余裕がそのときの私たちになかったというのが現実でしょう。

これは私たちがもっと元気が出てきたら超えていかなくてはいけない問題だと思っています。

さて、ショウコさん、高校生活を終わるに際し、学校からいくつもの表彰を受けました。その数、7つ!ダンスや歌、演劇で賞を総なめした、という感じでした。

また、卒業式に伝統的に歌われる、合唱団をバックにして、ソリスが歌う、God Bless Africaのこの栄えあるソリストにも選ばれました。これは、彼女が音楽の先生にオーディションをして欲しい、と頼み込んで実現した晴れ舞台でした。

ショウコいわく、毎年歌われるこの歌を必ずソリストとして歌いたい、と長年!強く希望していたのだそうです。

彼女はメゾソプラノで、よく響く、そして柔らかく深みのある声で大勢が集まった卒業式の会場を魅了していました。

ショウコ、高校卒業おめでとう!

これからも、そのまっすぐで逞しい、背筋の通った歩き方を貫いて欲しいと思います。でも、ちょっと困ったり、疲れたりしたら、迷うことなく寄り道をしてもいいし、休憩してもいいんだよ。

私はあなたのお母さんでいることが、とっても嬉しいし、これからもあなたの一番の応援団長でいたいと思っています。

行け行け〜、ショウコ!



author : y-mineko
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チャンスは何回でも!

【2012.09.28 Friday 05:52
 「みいちゃん、“袖振り合うも多少の縁”って言ってね、知りあった人は大切にするんだよ」

と教えてくれたのは、母方の祖母、あきでした。

辞書を引くと、これは、「袖振り合うも多生の縁」とあり、祖母のものはちょっと変化球です。でも、いいですよね!

祖母は千葉の九十九里に生まれ、幼い頃奉公に出され、縁があって嫁いだ頑固者の祖父との間に14人の子どもに恵まれました。私の母は一番上の娘でした。

その祖母の教えは私の中でとっても強く生きていて、アフリカに住むようになっても、私はあっちこっちで知り合った人にいろいろな関わりをさせていただきながら生活しているのです。

その“関わり”とは、仕事面でのつながりであったり、個人的なものであったりと様々です。

そして、時にはその関わりの中で、痛い、つらい思いをすることもあります。

事の始まりは、今年の3月に知り合ったある外国籍で南アフリカに住む一人の男性です。

この男性、いまから約10年前、自分の妻、娘(八ヶ月)、義理の父の殺人を依頼し実行させた、という疑いで南アの警察に逮捕、拘留されました。

ところが、2年間の拘留の末、裁判所は彼の罪を証明することができず、彼は裁判で無罪を勝ち取りました。

彼は最初からまったくの無罪を主張していました。

では、真犯人は?

という疑問はもっとものことです。

ただ、私がこの原稿で書きたいこととは、真犯人探しのことではありません。

私はここダーバンで、いくつかのNGOに関わっていて、常に彼らの資金探しのお手伝いをしています。

ご存知のように、NGOはどこも台所事情が厳しく、活動費をどう捻出するか、というのは世界各国に広がるNGOの共通の課題です。

いま、いろいろな政府系の団体がNGOに資金提供をしてくれるようになりましたが、中にはその資金の使い道をプロジェクトのみに使用してよい、とか、人件費に使うのはいけない、とかいろいろ規制があります。

また、リーマンショック以来、一般企業からの寄付がかなり厳しくなっているのも現実です。ただ、南アの企業はその規模にもよりますが、法律によって、社会貢献することが義務付けられているので、NGOとしてはまったくチャンスがないわけでもありません。

ただ、正直言って、いくら応募書類を書いてもその成功率はとっても低く、私もどれくらいの応募書類をいままで作成しているか、忘れてしまうくらい挑戦し続けています。

そんなわけで、いけない、いけないとは思いつつ、つい自分のお財布に手を伸ばしてしまうことが多くなります。

友人知人にお願いできることはお願いしていますし、私の友人たちは、かつて私がHIVの患者さんたちと作っていたビーズのブレスレットをまだ販売してくれているのです。本当にありがたいことです。

でも、焼け石に水の例えのように、お金って、定期的に入ってくるものがないと、本当にすぐなくなってしまうのです。

そんな時、犯罪を疑われてその後無罪を勝ち取ったこの男性が、私が関わるあるNGOの資金提供を申し入れてくれたのです。

私は喜んでその申し出を受けました。後でこれが大問題になるとは夢にも思わず……。

だって、私にとって、この男性は過去にそういった疑いをかけられたと言っても、もう裁判で“無罪”を勝ち取っているのです。

ということは、私にとって彼はそこにいる普通の人。私となんら違うことのない、一般市民なのです。

ところが、世間というのはこういう考え方をする人間が多くはない、ということを思い知らされました。

この資金繰りに苦しむNGOの代表と組織の関係者たちが、こう言って彼からの資金援助を断りました。

「火の無いところに煙は立たない」
「OJシンプソンだって、あんなに疑惑は深いのに、無罪になったじゃないか」
「彼の名前をグーグルしたら、ものすごい記事がたくさん出てきた。彼は信用できない」
「NGOとして、自分たちの名前を傷つけることはできない」

私はこの議論を聞いていて、とっても悲しくなりました。

NGOとは、名が示すとおり、非政府系の組織です。私は、非政府系の組織は、政府系の組織に比べて、もっともっと自由に、そして細かく活動ができるメリットがあって好きなのです。

政府系の組織として、亡き夫・稔が所属していたJICAの窮屈さは、私も一時期勤務していた時期もあったので、骨身にしみて知っています。

いわゆる、“お役所の掟”とか、“役所の常識”という見えない壁、ガードに縛られて、なかなか前例のないことができない不自由さは、すべての役所に共通で、その組織内外にいる誰もが体験していることではないでしょうか。

だからこそ、ここで私が応援しているNGOからのこの反応に私はかなりの衝撃を受けました。

私は今までいろいろな組織のトップだったこともありますし、いま二つの会社の経営者もしています。ですから、常にトップとして組織を守らなければいけない立場にいるわけです。従業員とその家族のために責任を取ることの大変さ、というのは極小組織ながらも痛感するところです。

ただ、私はティームプレイの大切さ、連携することの素晴らしさもこれまた骨身にしみて知っているのです。

なので、自分がいかに彼らの判断に反対したとしても、グループの中の圧倒的な反対にあった場合、自分の意見を引っ込める必要があることも知っています。

でも、そういったとき、自分の意見はきっちり伝えておく大切さも。

私は彼らに、こう言いました。

「そんなに彼からの資金援助を断りたいのであれば、それはそれで仕方がないでしょう。でも、私はその判断に賛成しないし、残念だと思う」

そうすると、そのNGOの代表がこう聞いてきました。

「だって、彼の意図がなんであるか分からないじゃないか。もしも彼が私たちを利用したいとしたらどうするんだ?」

私はこの段階で、議論がもう平行線であることを悟りました。

でも、ここが私のがんばり時であることも。だって、こういう時にきちんと自分の考え方を伝えないと、私が何でアフリカにいるのか、ということさえ怪しくなってしまいます。

私は腹をくくって、このまま彼らと決裂することがあっても、自分の考えはきちんと伝えておくべきだと思いました。

「私は例え罪を犯した人でも、もしその人が刑期を終えて社会に戻ったら、もう一回チャンスを与えられる社会がいいと思う。それに、彼は無罪判決を受けているのよ。でも、あなたが心配している彼の本当の思惑。正直言って、そういうことを私はいま心配しない。もしも、彼が何か悪い意図があって資金援助をしたいのであれば、それをさせなければいいだけじゃないの?彼が何をできるのかなぁ。あなたたちの心配しているメディアだって、よく読んでみれば裏づけのないゴシップ記事ということがすぐわかる。噂は消えるし、人はそんなに長いこと、メディアに流れた情報を覚えていない。それに、私たちにしっかりとしたプログラムがあって、それを全うしていれば、何も心配することはないと思う。でも、あなたが資金援助を受けたくない、というのは理解したので、それを変更しろ、とは言っていないのよ。でも、私はその路線は支持しないけれど」

この議論は、場所を変え、方法を変え、延々と続きました。

もしかしたら、彼らの心配するのは当然のことなのかもしれません。この資金援助は実はかなり怪しい動機があるのかもしれません。

でもね、もしも、もしも、その心配が現実に起きてしまったら、それはそのときにまた対処すればいいだけのこと。

起きるかも知れない出来事を心配して人を排除する、人の申し出を拒否するという選択は私にはできません。

もちろん、私だって、もしかしたら私の主張していることが間違っているのかもしれない、という密やかな不安はあります。

でも、いくらそういう不安があったとしても、私は彼らに同調はできませんでした。

だって、何回失敗したとしても、チャンスが与えられる社会のほうが絶対に住みやすいです。またそういう社会を作っていきたいし、そういった新しい覚悟を持つ社会の一員でいたいと思うからです。

誰だって間違いをおかします。だからこそ、間違っても修復することができる、というセーフティネットは大人がみんなで、お互い様で守っていくべきことだと思うのです。

そして、あきおばあちゃんのこの教えがあります。

「袖振り合うのも多少の縁」

せっかくの出会い、せっかくの人生、私はどんなに“単純”と言われようと、心配されようと、その主張によって仲間外れにされようと、前を向いて歩こうとしている人には、何回でもチャンスを与える人でいたいと思うのです。



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カンジ、お母さんが殴りこみに行く!

【2012.09.14 Friday 04:42
私は自分の役割をいくつも持っています。

夫が急に死んでしまったので、“妻”の役割はおしまいになりました。

でも、その他をざっと数えると、

英語や日本語の先生、
いろいろなクライアントさんたちにとっての通訳、
二つの会社の社長、
いくつかのNGOのお目付け役、
アフリカのサッカー少年たちのお財布係、
我が家の犬猫たちにとってはお給仕係り、
私の文章を楽しみにしていてくれる読者さんたちにとってのライター、
二人の妹たち、また世界に散らばる妹分たちのお姉さん、
幾人かの分身のような友人たちにとっての絶対的な彼女たちの応援団、
姪や甥たちにとっての叔母さん、
妹に面倒を見てもらっている父にとっては一番上の娘、
などなど……。

普通に考えると眩暈がしそうですが、すべてが私が私であるがために自然発生してきたような“役割”です。

でも、こういった役割の中でも、私が一番時間も使い、頭を使い、心を砕くのは、やはりカンジ、ショウコの“お母さん”としての私でしょう。

夫が生前、と言ってもかなり昔、カンジが小学生、ショウコが保育園生だったころ、私たちの親しい友人夫妻にこんなことを言ったそうです。

「峰子は子どもたちに手をださない」

これは、私が彼らに体罰を与えない、という意味ではなくて、私が彼らの行動に極端なほど手を貸さない、という意味です。

それを聞いた友人が、

「峰子さんほど、干渉していないのに、あれだけ見守っている人はいないね」

と、答えたらしいです。

口出しこそしないくせに、気が短い稔は、子どもたちの世話を本当によくしてくれる父親でした。

その頃、民間の英語教育団体を主宰していた私は毎日が忙しく、週末にはいろいろな場所に出掛けていって講演やセミナーを行っていました。

JICAの職員だった夫にウィークデイに子育てをお願いするのはまったく無理な話でした。なので、週の途中は私が子育ての中心人物、週末は稔がその役割を担いました。

でも、私たち夫婦にとって、子どもを育てる、ということは、時間的には厳しかったものの、これほど楽しいことはありませんでした。

カンジがこんなことをした、言った、ショウコがこんなことを怒ってた、と夜遅く二人でよく笑っていました。子どもの成長ぶり、その都度引き起こしてくれる出来事を話し、どれだけ親としてのシアワセを味わったか、計り知れません。

今でもすごかったなぁ、と思うのは、彼は私と結婚してから週末に(名古屋での単身赴任生活時をのぞけば)ただの一回も自分の遊びのために私たちを置いて一人で出掛ける、ということがなかったのです。

稔と私の“親”としての力の入れ処がかなり異なっていたこともとってもよかったと思います。

毎日の食べ物を手作りしたい私は、どれだけ忙しくても、バランスの取れた食事を子どもたちに与えることに妥協はしませんでした。もちろん、簡単なものが続く時期もありましたが、肉や魚なのタンパク質のおかず一品、野菜料理二品(具沢山のお味噌汁の場合も多かった)、そして炭水化物という四品を必ず準備するよう心がけました。

カンジ、ショウコがお蔭様で医者しらず、病気しらずでこれまで大きくなったのは、幼い頃の食事に追うところが大きいと密かに自負しています。

稔は、週末になると子どもたちを連れて、野に山に出掛けていきました。カンジがまだオシメをしていた頃、ウンチをした彼のお尻を真冬の公園の水道で洗い流していたそうです。蓑虫の親子のように、冬の公園で寝袋に入ってお昼寝をしていた“武勇伝”も他のお母さんから聞かされました。

そんな彼でしたので、私の子どもたちへの接し方が自分のそれと違うことを感じていましたし、疑問を持った時期もあったようです。

「普通のお母さんは違うらしい」

というヤツですね。

確かに、私は他のお母さんのように、こまごまとした世話はやかないほうでしょう。実は、私は、子どもの行動を先取りしてお節介をやくことは、信条としてしないことにしていたのです。

これはこれで大変なこともあるのですが!

私は、子どもたちが持って生まれてきた個性を何よりも大切にしたかったし、自分たちの世界を自分で見つけていく時間を彼らに確保してあげたかったのです。

カンジもショウコも、こうして育ててきたのです。

そのカンジが日本に行って、ある建築事務所で働き始めて、職場で理不尽ないじめにあっている、ということを聞かされたとき、私は自分の体に太刀を受けたような思いでした。

カンジは、見かけは日本人、日本語もまあ不便なく話します。が、人生の大半をアフリカで過ごしているので、当然日本で生まれ育った日本人とは違います。

彼が、例えば、アフリカ人の姿をしていたら許してもらえるよなことも、彼が日本人の容貌をしているがために、人々の気持ちを逆なでしてしまうのです。

アフリカでこれでもか、これでもか、と自分の価値観を試されてきた私にとっては、表面的な類似性に懐疑的になります。ですが、日本人の容姿を持った日本人がたくさん住む日本ではこれが通じないのがよく分かりました。

彼の回りの人間が、彼の仕事の仕方や振る舞いに不満があったことも理解できます。

こと、建築に関しては完璧主義の傾向のある彼、仕事にかける時間の配分がうまくできないのです。これは、学生時代からの癖でこれも学んでいかなくてはいけない分野です。

でも、仕事を学ぶために、日本での建築事務所がどのように経営されているかを学ぶために、彼は日本に行ったのです。始めから完璧に日本の文化を理解でき、その中で仕事ができるのであれば日本でインターン、あるいは研修生をする必要もないわけです。

その職場で、毎日、

「自分は馬鹿だ。役立たずだ」

ということを鏡に向かって100回言うことを強要されていた、というのです。

これは完全な人権侵害であり、いじめです。

これを繰り返すことで、仕事ができるようになるのでしょうか。

本人は私にこのことを言いませんでした。が、これを聞いたとき、私は日本に飛んで行って、その事務所に殴りこみに行きたい、と思いました。

日本のいじめの陰湿さに心が凍る思いでした。

結果的に彼はこの職場を去ることになりました。もっと早く辞めればよかったのですが、変なところが頑固なカンジは、辞めることは逃げることだ、と頑なに思っていたようです。

彼はその後、大阪の別の事務所に採用してもらい、前の事務所であれだけ侮辱されていたのがウソのように、今度は彼のユニークさを評価してくれる建築家に出会えたのです。

新しい事務所は、お給料をそんなに出せない、ということで、夜他のアルバイトも許可してもらい、いま彼は吉野家の牛丼で週二日働いています。

カンジは、どこでアルバイトをしようか、と考えたとき、不器用な自分には、メニュー品目の少ない吉野屋が自分に向いている、と思ったそうです。

私はこれを聞いたとき、涙が止まりませんでした。

彼の一歩一歩、ゆっくりながら成長している姿がありがたかったからです。電話では、カンジに、「カッコいい!」と言ってしまいました。

いま、職場でのいじめがいろいろな職種で起きていて、若年層のホームレスが増えている、というNHKの番組も見ました。

カンジの事件を通して、これは決して大げさではない事実なんだ、と思いました。

もしも、カンジに底力が無かったら、この職場のいじめでつぶれていた可能性もあったでしょう。

何がカンジを救ったのでしょう。

それは、カンジを励ましてくれる下宿の人たちがいたこと、そして、彼には彼の芯の部分でしっかりと育っている自己尊重感があったのだ、ということを信じたいと思います。

稔は変わったオトコでした。JICAという堅い日本のお役所で、さぞかし回りも彼の奇想天外な発想や行動に戸惑ったと思うのです。本人も自分がどうして他人と違うのか、理解していたとは思えません。

お酒が入ったときの陽気さとそうでないときの仏頂面……。

豪胆なところ、繊細なところが入り乱れていて、言葉で説明することが不得意でしたので、上司、同僚には徹底的に愛されるか厭われるかのどちらかでした。

それでも稔は、生涯純粋な魂を持ち、人に責任を転嫁することなく、なおかつ人生の冒険を躊躇しない、という人生を疾走していきました。

おまけですが、稔が怖かったのは、奥さんの私だけ!ということを彼を良く知る友人たちが口を揃えて言います。

その類まれな個性が、あれだけの時間を費やしてカンジやショウコを育てたのです。

カンジが強いのは、稔の魂が寄り添っているからです。

私は、価値観をしっかり持ったいろいろな大人が成長期の子どもに真摯に向き合うことの大切さを信じて疑いません。

そんな大人たちに囲まれて育つ子どもたちは、育まれる自己尊重感の質が違います。

カンジの底力を私は信じています。

カンジ、がんばれ!全部の経験があなたを大きく頼もしい大人にしてくれると思って、精一杯仕事をしてね。

で、お母さんは、じっくり機会を見守って、そういうあなたにひどいイジメをした人たちに、しっかりと何かお返しをしてさしあげようと考えています。

大阪方面にお住まいの方、ふふふ、今年の暮は大阪から避難されることをお勧めいたします。



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意見を言う、行動する、スカっとする!

【2012.08.31 Friday 05:29
 「人生たかだか50年……」と言われていた時代があったことをご存知の世代は、きっと私と同年代、またはその上のはずですね。

げげげ、私、その50年からもう何年もさらに年を取ってしまいました。

でも、自分がそんな年代になっても、私はいまだに、
「ふううううん、そうだよなぁ……」

と、つくづく思わせてくれる友人に恵まれています。

Joann Geddes氏。米国人なのに、彼女は昔の日本人のような振る舞いをします。控えめで、自分の損得勘定は後回しで、人のことばかり気にしています。

多くの外国人留学生と一緒に大学で時間を過ごすようになったことから、異文化に対する心からの尊敬が彼女をそういった人格にしたのだなぁ、と思います。

でも、彼女の家族の話を聞くと、兄弟たちも彼女によく似ているので、家族の中に育まれている謙虚さとか、異文化に対する許容量の大きさとかがあるのだな、とも想像します。

彼女は私が卒業した、米国のオレゴン州ポートランドにある、私立の大学Lewis and Clark Collegeの外国人が英語を学ぶ機関のDirector をもう何十年も勤めています。

私は、日本の高校を終えてから、そこで英語を学び、大学に入学し、そしてさらにその機関に舞い戻り、教育実習をさせてもらった人間なのです。

Joannには、直接英語を教えてもらうことはなかったのですが、私はこの古巣の事務所が大好きで、よく遊びに行っていたので、彼女とも親しくなっていったのでした。

実は、Joann、私の友人の中で、私の米国の家、東京の家、そしてこのダーバンの家、合計3軒の我が家を訪れてくれた数少ない人でもあります。

一時期、私と夫は、オレゴン州に家を持っていた時期があって、自分たちがその家を使わないときは、スキー客などに家を貸していました。Joannはある年、東海岸に住む自分の親兄弟たちと一緒にこの家を借りてくれたこともあったのです。

東京の我が家には、大学のリクルートの関係で来日していたとき、たまたま日本にいた私を訪ねてきてくれたのです。

彼女は、独り身なので、フットワークが軽いのです。

今回、彼女は彼女の姪Caseyを伴って、アフリカへ来てくれました。



結婚暦はあるとはいえ、子どものいない彼女、甥姪たちに、こんなことを宣言しているのです。

「あなたたちが行きたいところ、世界のどこにでも一回連れて行ってあげる」

今回アフリカに来てくれたCaseyの兄たちは、なんと、一人は中近東のアラブ首長国連邦へ、一人はペルーへと、それぞれの“夢の外国”に連れて行ってもらっているのです。

こんな叔母さん、いいですよねぇ。

Joannはつくづく自分の利益よりも、自分の身の回りの人間の幸福を考えている人なのです。彼女にとって、自分の姪や甥が広い世界を見ること、いろいろな文化を実際に学ぶことは、たとえそこにかなりな額の費用がかかったとしても、ものすごく価値のあることなのです。

さて、今回の“アフリカ旅行”はCaseyのたっての希望により実現しました。Caseyがどうしてアフリカに興味を持っていたか、というとこれはまぎれもなく、Joannの影響です。

アフリカの中でも、今回二人が訪問したのは、ルワンダと南アフリカです。ルワンダについては、ちょっと説明が必要ですね。

実は、彼女が教えている私の母校のLewis and Clark Collegeは、2004年より、ルワンダから英語を勉強したい学生を1年に一人受け入れて教育しているのです。この奨学金の設立、維持、運営に大学側の人間として最初から関わったのがJoannなのです。

皆さんはルワンダで行われた大虐殺事件を覚えていますか?

これは、ツチ族とフツ族がお互いを殺しあった凄まじい事件でした。この狂気の数年間、虐殺されたルワンダ人は100万人にも上ると言われています。

昨日まで親戚だった、同僚だった、クラスメートだった人間が、ただただ出身部族が違うから、という理由で虐殺する、される、という状況はどう誰が説明しても、納得できることではありません。

が、これも、アウシュビッツで起きたこと、広島、長崎で起きたことと同じように、私たちが孫子の世代に伝えていかなくてはいけない世界の歴史であり、事実なのです。

そうして、さらに、その被害者たちをどう救済していくか、ということが大切ですよね。そして、これをどうやって風化させないか、ということも。

Joannにこの奨学金の設立を促したのは、そのときLewis and Clark Collegeの学生だったMichael Grahamでした。彼は、学生たちがルワンダで起こったことをあまりにも無知だったことに驚愕し、この大虐殺のとき、カナダ人の平和維持軍(国連ルワンダ支援団)の司令官だった、Romeo Dallair 氏(現・カナダ上院議員)をLewis and Clark Collegeのキャンパスに呼び、学生、教授陣、スタッフ、すべての人間にこの悲劇を彼の実際の経験から教えてもらおうと彼 をキャンパスに招聘することを企画したのです。

この学生、Michaelの行動力もすごいのですが、このRomeo Dallair 氏をキャンパスに呼ぼうとしたことがきっかけになり、Joannを始めとしたLewis and Clark Collegeの教授陣、経営陣が一丸となって、この奨学金を立ち上げることに成功したのです。

今では、Lewis and Clark Collegeが毎年ルワンダから学生を一人をに招聘しているだけでなく、この動きが別の大学にも広がりつつあるのです。

Lewis and Clark Collegeは、このルワンダからの奨学生のため、学費と寮費を免除しています。また、大学の寮生のための食堂を経営している会社も、この奨学生のために年間を通して食費も免除しているのです。もちろん、奨学生が米国に来るまでの旅費、大学についてからの個人的なお金も、大学で必要とするテキスト代も、すべてこの奨学金委員会が負担しています。

大学をあげて支援しているこの奨学金が示していることとは何でしょう。それは、例え数は少なくても、“教育”によって起こる社会の変化への応援です。

教育が持つ力とは人を育てることだと私は信じています。

社会が変化していこう、とするときに必要なのは、後ろを振り向かず、頭を垂れず、前進していく人間です。

その人間を自国のみで育てるのが難しいのであれば、それができる人が、組織が、社会が援助していけばいいだけのこと。

いま、ルワンダで、英語を自由に操れる、というのはものすごい戦力となるのだそうです。

私もエチオピアにいたときに、政変により、経済的に有利な“外国語”がひとつの言語から別のものへと移行するのを目のあたりにしたことがあります。

この大虐殺が起こる前、ルワンダはフランス語圏でした。もちろん、現地の言葉、スワヒリ語なども話されていたのですが、学校や公の場所ではフランス語が公用語として強かったのです。

が、大虐殺が終わり、国際機関、国際NGOが多くルワンダに入ってくるようになると、この“有効な外国”は、フランス語から英語に劇的な速さで移行していったのです。

Lewis and Clark Collegeのこれまでのルワンダ人奨学生は、7名にもなり、それぞれが素晴らしい活躍をしているそうです。一年間のLewis and Clark Collegeでの留学を終え、ルワンダに帰国した奨学生の中には、ルワンダの健康保険制度を作成したり、大統領の補佐官を勤めたりしている人もいるそうです。

本当に素晴らしいことだと思います。

だから、Caseyがアフリカ、ルワンダに来たい、と叔母のJoannに言ったとき、彼女はとっても嬉しかったそうです。

そして、ルワンダの次は南アフリカ。これはどうやら、Joannは若いCaseyを私に会わせたかったようで、いま、私が関わっているサッカーで進めるHIV・Aids予防で何日かボランティアをしたい、という希望を持って、私の住むダーバンを訪問してくれたのです。



この二人の滞在中、私もできるだけ仕事を整理して、ダーバン近郊を案内して、楽しい時間を過ごしました。



その旅行中、Joannの静かな語り口でいろいろなことを聴いたのですが、私が膝を打って、「そうだよなぁ」とつくづく関心したのはこんなことでした。

「私は美容室もそんなにこだわる方ではないから、気の向いたときに、予約もいらないような安いお店に行くの。ある日、新しく行ったお店で髪をカットしてもらっていたの。でもね、その白人の美容師がポートランドに来たばかりの人で、その人が、“私のいま住んでいる地域には黒人が多くて辟易よ。黒人の間に住むためにポートランドに来たわけじゃないのに”って言うのね。私は最初はガマンしていたんだけれど、ガマンの限界が来て、席を立ったの」

私は、ほおおおおおおお、と関心しながら、こう聞きました。

「へええ、でも、その時、髪の毛のカットは終わっていたの?」

Joannはいたずらそうな眼をして、首をふり、

「とんでもない!頭の半分はまだ長いまま、髪の毛も半分濡れていてね!」

Joannは、その差別発言をしていた美容師にこう言ったそうです。

「あなたのような人種差別主義の人に私の髪の毛を切って欲しくない。お金も払いません」

そして、雄雄しく!美容院を出てしまったそうです。

はあ、Joann、なんて格好いいんでしょう!

そうなんですよね、この年まで生きてきて、こういう時にこのぐらいの台詞が言えなかったら、オンナが、いや人間がすたる、というものです。

私は本当に素晴らしい友人に恵まれています。





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7月18日は特別な日

【2012.07.23 Monday 04:13
 7月18日は南アの元大統領、ネルソン・マンデラ氏のお誕生日です。

マンデラさんは南アでは、皆から“マディーバ”と愛称で呼ばれます。今年94歳。いまはほとんどメディアの前に現れませんが、きっとまだいろいろな世界の出来事に関わっているのではないか、と想像します。

いつまでも、いつまでも、100歳のお誕生日を過ぎても、元気でいて欲しいと思います。

さて、今年のマディーバの誕生日、私は、2010年のサッカーワールドカップ南ア大会のために建築されたダーバンの美しい モーゼスマビーダ球場 にいました。



英国のプレミアリーグ、マンチェスター・ユナイテッドがプレシーズンの友好試合を南アで開催することになり、その最初の試合会場がこのダーバンにあるモーゼスマビーダ球場で行われました。

彼らの今夜の対戦相手は、南アのプレミアリーグのチーム、ダーバンが地元のAmaZulu。

実は、このチームに、私がジェネラルマネージャーを勤めているスポーツマネージメント会社に所属するリベリア人選手、デューリー・ジョンソン選手が参加することになり、この日までどたばたどたばたと準備を進めていたのでした。

ジョンソン選手は、リベリア出身ですが、奥さんがスウェーデン人で現在はスウェーデンの国籍を持っています。これまで、世界の様々なところでプロ選手活動をしてきています。

ただ、彼は、過去にある問題に巻き込まれたことがあり、今回、南アに新天地を求めて再出発することにしたのです。

私は失敗した人が立ち直りたい、と思うのであれば、何回でもチャンスを与えたいし、与えてあげて欲しいと思います。

このプロスポーツの世界に首を突っ込んで、いろいろな若い選手を見てきました。ちょっとしたころがきっかけで、せっかくの才能が生かせなくなるケースも見ました。

そういった選手の傍に、誰か一人支援する大人がいて、もう少し支えてあげれば別の展開があっただろうな、というようなケースも見ました。

ジョンソン選手も、心機一転、南アで大きな成功をして欲しいと思います。

でもですね、今回、ジョンソン選手の移動に関し、最終局面になって問題が起こりました。
彼はこのチームとの契約が整い、1週間の予定で、家族の待つスウェーデンに里帰りしていたのです。が、このマンチェスター・ユナイテッドとの試合のためにダーバンに戻ってこなくてはいけないのに、欧州全体がオリンピックやら夏の旅行シーズンにあたり、帰りの飛行機のチケットがまったく取れない、という事態になっていたのです。

そういうことであれば、その経過をこちらの事務所に連絡してくれればいいのに、それを受けていない私たち側は一瞬、不安になりました。

プロスポーツの世界は駆け引きです。

チームと継続して交渉していることもあるので、お互いが疑心暗鬼になってしまいがちです。

でも、そういう時の交渉は、責任者に直に聞いてみるのが一番の近道です。

そこで私は、このチームの関係者の名前と連絡先を睨んで、誰に連絡すればいいのか考えました。

私の目に留まったのが、最高責任者の名前でした。

そこで、彼の携帯電話に電話をして、どうしてたのかを聞いてみました。

すると、チケットの手配に手こずっている、と言う返事です。こちらとの契約などの駆け引きではなく、完全にこれは事務方の問題だということが判明しました。

そこで、私はこの最高責任者に、私もチケットを手配を始めてもいいかどうか確認を取りました。

すると、もう毎日、彼らの旅行業者とやり取りをしていて、とにかく座席が取れない、と伝えられている彼は、こういいました。

「たぶん、ダメだと思うけれど、あなたがしたいならやってみてください」

完全にあきらめて、腹を立てている状態でした。

私がこの交渉を始めたのが金曜日の夜5時です。通常の南アの旅行業者は業務をしていない時間です。

でも、私にはたとえ週末であったとしても、私の依頼ならば、気持ちよく動いてくれる旅行業者に強力な伝手があるのです。

この日の私の算段は、この最繁忙期でも、旅行前日の皆が営業を終えたタイミングであれば、キャンセルがきっと一つか二つ、出てくるのではないか、というものでした。

案の定、私が頼んだその5分後に、ビジネスクラスではあったものの、一つの座席がキャンセルになって、予約が確保できたのです。

そこで、予約を確保しつつ、先ほどの最高責任者に電話して、ビジネスクラスの座席が一つ確保できたことを伝えました。

彼は電話口で呆然として、しばし言葉がでてきません。

「値段は4倍ですが、これで手配してもいいですか」

と、私が促すと、

「も、もちろん!そのチケットを手放さないで!」

と叫びました。

後で聞いた話なのですが、私が手配し始めて、たったの15分くらいでチケットを確保したことが本当に信じられなかったそうです。

その後、チームのコーチや裏方の人たちとも話したのですが、結局、南アの多くのビジネスは、たとえ仕事が終わらなくても、終業時間が来れば帰宅してしまうので、仕事がいつでも中途半端になる確率が高いのです。

そうなると、仕事優先が骨身に叩き込まれている日本人の相手ではないのです。私が南アで超多忙に仕事に恵まれているのも、実はこんな背景があるのでしょうね。

それから、これは私が仕事をする上で大切にしていることなのですが、自分の周りに信頼できるネットワークを確保しておくこと。常にそういった相手との相互信頼の関係を保っていることがいろいろな危機的状況でどれだけ助けになるか計り知れません。

そして、あきらめない、ということ。

一回がダメでも、二回、三回、と交渉しつづけることできっと道は拓けてくるものです。

このAmaZuluの関係者一同、私のこの手配に感謝して、このマンチェスター・ユナイテッドの試合にVIP席での観戦を招待してくれました。

VIP席が嬉しいのは、それが球状のとってもいい位置にあるので、試合がよく見えること、それと美味しいお料理や飲み物が存分に用意されていて、とっても贅沢に試合が観戦できることです。

それに、モーゼスマビーダ球場のVIP席は、席が一般席の間にあるので、他の観客から隔離されているような雰囲気がないのも嬉しいのです。

そして、その当日、マンデラさんのお誕生日、試合の始まる前、5万人の観客が大きな声で、マンデラさんのお誕生日を祝いました。

♪Happy Birthday to you, Happy Birthday to you, Happy Birthday to Dear Madibak〜♪

さてこの日の試合、惜しくもAmaZuluは1:0で負けました。でも、なかなかいい試合でしたよ。得点には至らなかったものの、接戦の見ごたえのある内容でした。

そして、マンチェスターユナイテッドに新しく入団した日本人の香川選手も後半最後の5分ほど出場しました。彼がピッチに現れたとき、球場全体に割れるような拍手と歓声が響き渡りました。彼がこれほど南アでも注目されていることを目の当たりにして、とっても嬉しくなりました。


マンチェスターユナイテッドのサポーターが断然多いスタジオ。でも、地元のチームも応援して欲しいなぁ。

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英国での合唱コンクール

【2012.07.12 Thursday 04:20
 日曜の晩にダーバンに戻ってきました。

カフェグローブの連載が終わって、たくさんの人たちから、
「空色庵、必ず毎週更新してくださいね。毎週、峰子さんの書いたものを読むのが楽しみで、お休みされると、ものすごくがっかりするんです」
なんて、言っていただいて単純な私は感激しています。

で、
「そうだ!がんばろう!」
という決意をしたにもかかわらず一週間時間を明けてしまいました。ごめんなさい。

あのね、言い訳は山ほどあるんですよ〜。

でも、まあ、そんなことは置いておいて、今週はショウコたち、Midland & Pietermaritzburg Youth Choirの英国Walesでの活躍をご報告しましょうね。

このWalesのコンクールは、Llangollen International Musical Eisteddfod という名前の国際的な催しです。何と歴史も古く、1947年から毎年開催されていて、世界各国から参加者が集います。合唱がメインのコンクールなのですが、フォークダンスや楽器や歌唱やら、25種類の種目が6日間で競われます。

そもそも、ショウコたちの合唱団の指揮者Mr.Silkが、このWalesの出身なので、このコンクールに参加することになったようです。

今回のこのツアーには、英国女王の60周年の即位記念のためのコンサートに招待されてWestminster Churchでも歌ったり、16日間の期間中、彼らは本当にいろいろなところでその力強い歌声を披露しています。

私は米国への出張があったので、その帰り道をちょっと変更して、英国へ寄り道して、このコンクールを見学したのでした。

本当によかったです。ちょっとダーバンでの仕事も留守番の人たちに迷惑をかけたのですが、寄り道したかいがありました。

まず、このリンクから、彼らたちが Youth Choir 部門で堂々の2位となったステージが見られます。

http://llangollen.tv/en/clip/midlands-youth-choir/

このYouth Choir 部門の1位は、シンガポール国立大学の合唱団でした。大学生の合唱団と競って堂々の2位ですからたいしたものです。

会場の外であったシンガポール大学の彼らに思わずインタビューしてしまいました。彼らは音楽部の学生たちではないものの、なんと週3日、一回3時間も練習するそうです。
高校生のショウコたちは、週1回、4時間の練習ですからね、もしも、練習時間がもっとあったら、優勝するのも夢ではなかったのですよね。

それから、今回からの種目として、Show Choirというダンスと合唱を同時にする形式がありました。ショウコたちの演目は、オペラ座の怪人のメドレーからアフリカの音楽につなげる大胆な構成でした。そのダンスの振り付けはショウコがすべて担当したそうです。

当日、最終コンペに進めたのは3つのグループだったのですが、そこでショウコたちはこれまた2位の成績でした。

その最終コンペは、何とオペラ歌手の Alfie Boe のコンサートの前座のような形で行われたのですが、Alfie Boeがその3チームをステージに呼んでくれ、彼のバンドと一緒に競演させてもらいました。

華やかな舞台で心から楽しそうに歌って踊っているショウコは本当に輝いていました。

でも、実は私、この最終コンペの入場券を持っていなかったのです。

このコンクールのチケットは、インターネットで昼間の通しチケットを4日間買っていたのですが、彼らのこのShow Choirがまさか最終に残るとは思わず、あらかじめ購入はしなかったのです。

で、このAlfie Boe、英国では超人気のオペラ歌手で、彼のコンサートチケットはロンドンの大きな会場でも超売り切れ状態らしく、当日券などまったくありません。

でもね、せっかくの機会なので、会場から一旦はホテルに戻ったものの、万が一の可能性に賭けて、もう一回会場に出掛けていきました。

ショウコたちの合唱団の関係者の一人が、もしかしたらチケットが一枚余分にあるかもしれない、と言ってくれていたのです。

でも、携帯電話がこういうときに限ってうまく機能しなくなるのです。

何回かけても、通じません。

で、半べそ状態の私、何とかかんとか、言い訳をしながら、会場のテントまで近づくことに成功!

しかし、テントの入り口を守るボランティアの地域の人たちが、テントの中をのぞくことさえダメです、と強固なガード。

でも、私は南アから来ていて、娘がこれから歌うんです、娘たちの出番だけ聞かせてください、お願いします、と必死のお願いを繰り返しました。

で、そんなことを押し問答していると、ショウコたちの出番になってしまったのです。
そうしたら、私はいつの間にか泣いていたのです。

稔が亡くなった後、ショウコがどれだけ彼女なりにがんばっているかを誰よりも知っている私は、彼女のがんばりがとっても嬉しくて、涙があふれて止めようがなかったのです。

そんな私を見たボランティの人が、そっと私をテントの中に入れてくれました。

「ここからのほうがよく見えますよ」

私は感謝しながら、ショウコたちのステージだけを見せてもらい、その後、テントの外にあったイスに腰掛けました。

気持ちが張っていたのでしょう。ちょっと放心状態になっていたのかもしれません。

すると、また別のボランティアの人が来て、私に優しく話しかけてくれました。ショウを見ながらぼろぼろ泣いていたので心配かけてしまったのです。

私は彼女に、2年前に稔が亡くなったこと、それでも、娘がこんなにしっかりがんばっていることが嬉しいから涙が出てしまったの、と静かに話しました。

その数分後、その人がまたやってきて、私にこう言うのです。

「一つ空きの席があります。座りますか」

私はその好意が嬉しくて、はい、と頷いて、その人たちの後についてテントの中に入れてもらいました。

Alfie Boe のコンサートも素晴らしかったです。

そして、彼が合唱団たちをステージに呼んでくれて、彼らたちが本当に嬉しそうにステージ狭しとダンスしながら競演する姿を、私は、Llangollen の街の人たちの好意で見ることができたのです。







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Reunion!

【2012.06.26 Tuesday 14:28
 大学の同窓会がありました。

 

卒業してからなんと30年の月日が流れたことに思いを馳せると、とっても不思議な気持ちがします。

 

私にとって、1970年代の後半から大学生活を送ったオレゴン州ポートランドは、第二のふるさとです。

 

それにしても、30年ぶりに再会する友人たち!

 

期待と不安?でいっぱいでしたが、会ってみると、30年前とあまり変わらない仲間たちで、笑ってしまいました。

 

で、おかしかったのが、

 

「えっ、こんな記憶、私の脳のどこにしまってたの??」

 

という発見。

 

メキシコ出身のアレックスと私、そして今回の同窓会は参加しなかったのですが、マレーシア出身のチア。この3人は、大学1年生のとき、とにかくよく集っていろいろなことをしました。

 

3人とも、それぞれアメリカ人の友人もいたのですが、アメリカ人の友人たちの言動にちょっとげんなりしたとき、その不満をお互いに打ち明け慰め合っていたのです。

 

で、私、アレックスに会うや否や、思い出したことがあって、言いましたよ!

 

積年の恨み?とまではいかないものの、30年以上前にすっきり言えなかったことが、30年ぶりに出会った早々に口をついて出てきたことに、笑ってしまいました。

 

「アレックス!あのねえ、あなたね、私に車を運転させて、スキーに行ったとき,連れて行った女の子にハンバーガー買ってあげて、私には買わなかったでしょう!ちょっとひどくない??」

 

周りで聞いていた友人たち、大爆笑!

 

私も言ったあと、おかしくておかしく、涙が出るほど笑いました。

 

当のアレックス、大学時代のすらりとした容姿から、かなり変化したおなか周りに手を当てながら、

 

「ぼく、そんなひどいことをしたの?まったく覚えていない」

 

と苦笑い。

 

友人たちは、そのやり取りに大笑いですが、私は、“記憶”の不思議さに改めて感じ入っていました。

 

悲しいときや辛いとき、私は楽しかったこと、嬉しかったことを思い出して、厳しい局面を乗り切ります。

 

そして、いろいろな場面での鮮やかな“記憶”が私を職業的にも、個人的にも支えてくれるのを認識しています。

 

同窓会のもう一つの楽しみは、懐かしい教授陣に再会することでもあります。

 

私の卒業した大学は、小さな私立の大学なので、多くの教授陣がまだ現役でいることも嬉しいことでした。

 

Dr. Jane Atkinson は、今は教授職を離れて、副学長として活躍しています。

 

私が大学に在学中、彼女は新鋭の文化人類学者で、インドネシアのフィールドワークから戻ったばかりの時期でした。

 

1970年代のアメリカのリベラルアートの大学は、今考えてもかなり筋金の入ったリベラルな雰囲気がキャンパスを覆っていました。

 

私の母校のLewis and Clark College で過ごした学生時代は、今の私の人生を大きく支える柱になっています。

 

ここで出会った世界各国から集まっている学生たちとの交わりの中で、私は世界にある様々な文化を知り、そしてその違いの中にある普遍的な人間の感情、行動を学びました。

 

普遍性を実感する一番の方法とは、目の前にいる人の違いを超えて、その人の中にある人間性に触れること、これにつきます。

 

そして、その人間性に魅力を感じることができると、その普遍性が、困難にあった時の心の支えになるのです。

 

「ああ、こんなに違うバックグランドを持った人が、こんなことをする、こんなことを考えている」

 

という思いは私の心を暖めてくれるのです。

大学1年生が多く集まった文化人類学の授業でした。学生たちよりも、若干遅れて教室に入ってきたDr. Jane Atkinsonは、片手にコーヒー、片手に抱えきれないくらいの資料を持っていました。

 

70年代ですから、彼女は、素足に革のサンダル、スカートはコットンのフレアーです。ヒッピーよりもちょっとフォーマル、とでも言えばお分かりいただけるでしょう。

 

椅子は左側にちょこんと小さな机のついたアメリカ特有のものです。

 

そこに座わろうとした彼女、手に持っていた資料をざーっと、床に落としてしまったのです。

 

そのとき、彼女が口にした言葉。

 

“SHIT!”

 

私は日本から来てそんなに時間が経っていなかった頃です。私にとって、大学の教授が、こういう言葉使いをすることが愉快で仕方がありませんでした。

 

「ああ、いいなあ、自由でいいなあ」

 

と、思ったことを鮮明に記憶しています。

 

で、30年振りに再会したDr. Jane Atkinson。このエピソードを披露したところ、真っ赤になってしまいました。

 

私が、日本から来て間もない10代だった私がこれにどんなに親近感を覚えたか、という話をすると、彼女も感慨深げになりました。元は人類文化学の教授ですから当然ですよね。

 

記憶をたどるということは、もちろん、楽しい思い出ばかりではないでしょう。

 

でも、普段とは違うことをすることで、何十年も思い出しもしなかった“記憶”を引っ張りだすのは、なかなか楽しいことですね。

 

同窓会、とっても楽しみました。

 

 

 

 

 

 

author : y-mineko
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吉村 峰子
writer
English & Japanese
language instructor
interpreter
(Japanese - English)