この人のこと、あの人のこと | 空の続きはアフリカ
意見を言う、行動する、スカっとする!

【2012.08.31 Friday 05:29
 「人生たかだか50年……」と言われていた時代があったことをご存知の世代は、きっと私と同年代、またはその上のはずですね。

げげげ、私、その50年からもう何年もさらに年を取ってしまいました。

でも、自分がそんな年代になっても、私はいまだに、
「ふううううん、そうだよなぁ……」

と、つくづく思わせてくれる友人に恵まれています。

Joann Geddes氏。米国人なのに、彼女は昔の日本人のような振る舞いをします。控えめで、自分の損得勘定は後回しで、人のことばかり気にしています。

多くの外国人留学生と一緒に大学で時間を過ごすようになったことから、異文化に対する心からの尊敬が彼女をそういった人格にしたのだなぁ、と思います。

でも、彼女の家族の話を聞くと、兄弟たちも彼女によく似ているので、家族の中に育まれている謙虚さとか、異文化に対する許容量の大きさとかがあるのだな、とも想像します。

彼女は私が卒業した、米国のオレゴン州ポートランドにある、私立の大学Lewis and Clark Collegeの外国人が英語を学ぶ機関のDirector をもう何十年も勤めています。

私は、日本の高校を終えてから、そこで英語を学び、大学に入学し、そしてさらにその機関に舞い戻り、教育実習をさせてもらった人間なのです。

Joannには、直接英語を教えてもらうことはなかったのですが、私はこの古巣の事務所が大好きで、よく遊びに行っていたので、彼女とも親しくなっていったのでした。

実は、Joann、私の友人の中で、私の米国の家、東京の家、そしてこのダーバンの家、合計3軒の我が家を訪れてくれた数少ない人でもあります。

一時期、私と夫は、オレゴン州に家を持っていた時期があって、自分たちがその家を使わないときは、スキー客などに家を貸していました。Joannはある年、東海岸に住む自分の親兄弟たちと一緒にこの家を借りてくれたこともあったのです。

東京の我が家には、大学のリクルートの関係で来日していたとき、たまたま日本にいた私を訪ねてきてくれたのです。

彼女は、独り身なので、フットワークが軽いのです。

今回、彼女は彼女の姪Caseyを伴って、アフリカへ来てくれました。



結婚暦はあるとはいえ、子どものいない彼女、甥姪たちに、こんなことを宣言しているのです。

「あなたたちが行きたいところ、世界のどこにでも一回連れて行ってあげる」

今回アフリカに来てくれたCaseyの兄たちは、なんと、一人は中近東のアラブ首長国連邦へ、一人はペルーへと、それぞれの“夢の外国”に連れて行ってもらっているのです。

こんな叔母さん、いいですよねぇ。

Joannはつくづく自分の利益よりも、自分の身の回りの人間の幸福を考えている人なのです。彼女にとって、自分の姪や甥が広い世界を見ること、いろいろな文化を実際に学ぶことは、たとえそこにかなりな額の費用がかかったとしても、ものすごく価値のあることなのです。

さて、今回の“アフリカ旅行”はCaseyのたっての希望により実現しました。Caseyがどうしてアフリカに興味を持っていたか、というとこれはまぎれもなく、Joannの影響です。

アフリカの中でも、今回二人が訪問したのは、ルワンダと南アフリカです。ルワンダについては、ちょっと説明が必要ですね。

実は、彼女が教えている私の母校のLewis and Clark Collegeは、2004年より、ルワンダから英語を勉強したい学生を1年に一人受け入れて教育しているのです。この奨学金の設立、維持、運営に大学側の人間として最初から関わったのがJoannなのです。

皆さんはルワンダで行われた大虐殺事件を覚えていますか?

これは、ツチ族とフツ族がお互いを殺しあった凄まじい事件でした。この狂気の数年間、虐殺されたルワンダ人は100万人にも上ると言われています。

昨日まで親戚だった、同僚だった、クラスメートだった人間が、ただただ出身部族が違うから、という理由で虐殺する、される、という状況はどう誰が説明しても、納得できることではありません。

が、これも、アウシュビッツで起きたこと、広島、長崎で起きたことと同じように、私たちが孫子の世代に伝えていかなくてはいけない世界の歴史であり、事実なのです。

そうして、さらに、その被害者たちをどう救済していくか、ということが大切ですよね。そして、これをどうやって風化させないか、ということも。

Joannにこの奨学金の設立を促したのは、そのときLewis and Clark Collegeの学生だったMichael Grahamでした。彼は、学生たちがルワンダで起こったことをあまりにも無知だったことに驚愕し、この大虐殺のとき、カナダ人の平和維持軍(国連ルワンダ支援団)の司令官だった、Romeo Dallair 氏(現・カナダ上院議員)をLewis and Clark Collegeのキャンパスに呼び、学生、教授陣、スタッフ、すべての人間にこの悲劇を彼の実際の経験から教えてもらおうと彼 をキャンパスに招聘することを企画したのです。

この学生、Michaelの行動力もすごいのですが、このRomeo Dallair 氏をキャンパスに呼ぼうとしたことがきっかけになり、Joannを始めとしたLewis and Clark Collegeの教授陣、経営陣が一丸となって、この奨学金を立ち上げることに成功したのです。

今では、Lewis and Clark Collegeが毎年ルワンダから学生を一人をに招聘しているだけでなく、この動きが別の大学にも広がりつつあるのです。

Lewis and Clark Collegeは、このルワンダからの奨学生のため、学費と寮費を免除しています。また、大学の寮生のための食堂を経営している会社も、この奨学生のために年間を通して食費も免除しているのです。もちろん、奨学生が米国に来るまでの旅費、大学についてからの個人的なお金も、大学で必要とするテキスト代も、すべてこの奨学金委員会が負担しています。

大学をあげて支援しているこの奨学金が示していることとは何でしょう。それは、例え数は少なくても、“教育”によって起こる社会の変化への応援です。

教育が持つ力とは人を育てることだと私は信じています。

社会が変化していこう、とするときに必要なのは、後ろを振り向かず、頭を垂れず、前進していく人間です。

その人間を自国のみで育てるのが難しいのであれば、それができる人が、組織が、社会が援助していけばいいだけのこと。

いま、ルワンダで、英語を自由に操れる、というのはものすごい戦力となるのだそうです。

私もエチオピアにいたときに、政変により、経済的に有利な“外国語”がひとつの言語から別のものへと移行するのを目のあたりにしたことがあります。

この大虐殺が起こる前、ルワンダはフランス語圏でした。もちろん、現地の言葉、スワヒリ語なども話されていたのですが、学校や公の場所ではフランス語が公用語として強かったのです。

が、大虐殺が終わり、国際機関、国際NGOが多くルワンダに入ってくるようになると、この“有効な外国”は、フランス語から英語に劇的な速さで移行していったのです。

Lewis and Clark Collegeのこれまでのルワンダ人奨学生は、7名にもなり、それぞれが素晴らしい活躍をしているそうです。一年間のLewis and Clark Collegeでの留学を終え、ルワンダに帰国した奨学生の中には、ルワンダの健康保険制度を作成したり、大統領の補佐官を勤めたりしている人もいるそうです。

本当に素晴らしいことだと思います。

だから、Caseyがアフリカ、ルワンダに来たい、と叔母のJoannに言ったとき、彼女はとっても嬉しかったそうです。

そして、ルワンダの次は南アフリカ。これはどうやら、Joannは若いCaseyを私に会わせたかったようで、いま、私が関わっているサッカーで進めるHIV・Aids予防で何日かボランティアをしたい、という希望を持って、私の住むダーバンを訪問してくれたのです。



この二人の滞在中、私もできるだけ仕事を整理して、ダーバン近郊を案内して、楽しい時間を過ごしました。



その旅行中、Joannの静かな語り口でいろいろなことを聴いたのですが、私が膝を打って、「そうだよなぁ」とつくづく関心したのはこんなことでした。

「私は美容室もそんなにこだわる方ではないから、気の向いたときに、予約もいらないような安いお店に行くの。ある日、新しく行ったお店で髪をカットしてもらっていたの。でもね、その白人の美容師がポートランドに来たばかりの人で、その人が、“私のいま住んでいる地域には黒人が多くて辟易よ。黒人の間に住むためにポートランドに来たわけじゃないのに”って言うのね。私は最初はガマンしていたんだけれど、ガマンの限界が来て、席を立ったの」

私は、ほおおおおおおお、と関心しながら、こう聞きました。

「へええ、でも、その時、髪の毛のカットは終わっていたの?」

Joannはいたずらそうな眼をして、首をふり、

「とんでもない!頭の半分はまだ長いまま、髪の毛も半分濡れていてね!」

Joannは、その差別発言をしていた美容師にこう言ったそうです。

「あなたのような人種差別主義の人に私の髪の毛を切って欲しくない。お金も払いません」

そして、雄雄しく!美容院を出てしまったそうです。

はあ、Joann、なんて格好いいんでしょう!

そうなんですよね、この年まで生きてきて、こういう時にこのぐらいの台詞が言えなかったら、オンナが、いや人間がすたる、というものです。

私は本当に素晴らしい友人に恵まれています。





author : y-mineko
| この人のこと、あの人のこと | comments(4) |

鼻の穴、発見!

【2010.09.26 Sunday 05:25
あっという間に一人暮らしの時間が多くなってしまった。

去年母が亡くなり、父が日本へ帰り、今年稔が亡くなった。それだけで、大人マイナス3。

カンジは建築学部の学生で、大学のある時は、ほとんど大学のスタジオに泊まりこみで勉強中。週のうち、自宅のベッドで眠れるのは1日あるか2日あるか、というところ。

ショウコは月曜の朝から金曜、もしくは土曜の午後まで自宅から60キロほど離れた寄宿制の高校生。だから週の途中は家にはいない。

ほんの1年半前までは6人家族だったのに。私は、あれよあれよという間に、この大屋根のあるアフリカの茅葺の家で一人暮らしをすることになってしまったのだ。

ところが、今年の8月の後半から1カ月ほど、突然、若い夫婦と10カ月の赤ちゃんのお世話をすることになった。

幼い子どものいる暮らし、というものがこんなものだったのか、ということに改めて驚嘆。

毎日、毎日が彼女にとっては新たらしい発見の連続なのだ。それを見させてもらっている大人たち。ものすごく新鮮で感動してしまう。

しかも、この赤ちゃん、“メイちゃん”といいますが、笑いながら眠りから覚めるような、極めてご機嫌のよい赤ちゃんなのだ。

私は多くの子どもの周りで生きてきたから、子どもの顔をちょっとの時間見せてもらうだけで、不思議なくらい、その子の置かれている環境が想像できてしまう時がある。

寂しそうな子、欲求不満を抱えている子、大人の顔色をうかがっている子、極端に人見知りする子……。でも、そう、それぞれ、みんな理由があるのよね。赤ちゃんだって、幼い子だって、そう皆がいつも笑っていられない場合があるのよね。

もちろん、はずれることもあるけれど、一見しただけでは分からないこともあるけれど、でも、ココロが安定している子どもには、ココロが安定している親がついている場合が多いと思う。

そして、ココロが安定している、というのって、何も難しいことではなくて、きちんと赤ちゃんのルーティーンを尊重してあげて、その赤ちゃん時間をのんびりと一緒に過ごしている、といった単純なことでいいのかもしれない。

はい、このメイちゃん。



どんなときでもご機嫌で、ぐずる時は眠たいとき、お腹がすいたとき、くらいだ。メイちゃんのお母さん、リエさんは、明るくて、赤ちゃんのいる暮らしを心から楽しんでいることが分かる。

リエさんの安定感がそのままメイちゃんの笑顔につながっている。そして、リエさんの隣には、これまた赤ちゃんの暮らしを大らかに支えているノリさんというメイちゃんのお父さんがいる。



赤ちゃんが赤ちゃんらしいのって、なんて気持ちのいいことなんだろう、とメイちゃんを見ていてつくづく思う。

ダーバンのおばあちゃんとなった私はメイちゃんにメロメロ。かわいくて、かわいくて仕方がない。

このメイちゃん、もう本当に毎日の発見が楽しくて仕方がないようだ。

そして、今日の彼女の発見は、じゃじゃじゃじゃ〜ん!

“鼻の穴!”

あれれれれ?こんなところに、穴がある!!!!
指がはいっちゃうよ〜!

と、彼女が思っているのが、手に取るように分かった。

そうだよね、こんなとこころに、指を入れたって、スプーンを入れたって、底がないような穴があったなんて、知らなかったよね。

でも、不思議だよね、みんなの顔の真ん中にもあるのよね!
きゃ〜、峰子さんの鼻にも穴があるじゃありませんか!

「ちょっと指を入れてみますから、私……」

って、メイちゃんが言ったわけじゃないのだが、ふと、横を向いた隙に、その小さな奇跡としか思えないような完全な形をした小さな指が私の鼻の穴に侵入してきた。

きゃ〜、メイちゃん、くすぐったい!

でも、おもしろいねぇ。

メイちゃんの前に広がる不思議に一緒にわくわくさせてもらって、本当に嬉しい。



author : y-mineko
| この人のこと、あの人のこと | comments(6) |

チャンスは何回でも!

【2010.02.28 Sunday 17:52
人にあげられるものがあるといい。
いつでも、どこでも、無尽蔵に、笑顔で、それがあるといい。

実は、私は、この年になっても、考えるより行動している方が速いから、これまでどれだけ失敗もしてきただろう。

「ぎゃあ〜〜〜!」と叫んで、寝込みたくなるくらい恥ずかしい失敗もしてきた。

「私、後悔はしないんです」

という生き方は爽やかだなぁ、と思う。

でも、私は、結構、

「うわ〜、またこんなことになってしまった。ああ、あんなお節介をしなければよかったかな」
「ごめん、失言でした……」
「いや、早とちりでしたなぁ」
「ほおお、そういう考え方もあったのね」
「へええ、そういう理由だったのか」

などという反省、後悔の嵐に襲われることがしばしばある。

でもね、いいんだと思う。
そういうこともあるよね、と思って前進することにしている。
根が単純だから、そう思うことで夜よく寝て、明日を迎えることができる。

ある知り合いがいた。
私は彼女と親しいと思っていたし、彼女も私に英語のことなどを頼ってくれて、仲のよい友人だと思っていた。

でも、彼女が我が家に滞在していたとき、私のある一言が彼女を怒らせてしまった。

私はただただ単純に、ある果物を買う時に、彼女が高い単価のものを選んでしまったので、
「ああ、こっちの方を買えばよかったね」と言ったのだ。同じ品質で、パッケージだけが違うものだったから。

で、ケチな私は、レジで精算をする時も、もう一回同じことを言ったのだ。

それが彼女を怒らせた。

彼女にしてみれば、「南アの事情に詳しくないんだから、分からない。二回も人の失敗を口にすることはない」ということなんだと思う。

本当にそうだな、と反省した。

でも、私は、“お母さん”だ。

子どもたちにも、無駄なお金の使い方は厳しくいさめてきた。
でも、必要なもの、どうしても欲しいものにはお金を使うことに躊躇はしない。

レストランに行って、人の分までつい、「払わなくっちゃ」と思ってしまうのは、私が三人姉妹の一番上だからなのかもしれない。

それに、学生時代やお金があまりなかった時代、どんなに多くの人が私にご飯をご馳走してくれただろう。家に招いて、食事を食べさせてくれただろう。

海を越えても、時間を超えても、私はあの人たちへのご恩を忘れたことがない。

だから、年の若い人たち、アフリカでバックパックをしている人たちを見かけるたびに、私は彼らを家に連れてきて、“日本食ごかし”のものをふるまってきた。

アフリカの旅は厳しいもの。たまには日本食を食べたくなるもの。だからね、こういうお節介おばさんの出番があるのだ。

だから、友人に対して、二回も余計な口をきいたのは、ひたすら、

「ああ、もったいなかったね」ということだったのだ。

でも、彼女はそれがどうしても許せなかったらしい。

彼女は日本に帰り、それ以来、ぴったり音沙汰を聞くことがなくなってしまった。

さみしいなぁ、と思う。彼女はちょっと特殊な感覚を持つ人で、よくよく彼女を知らない人は彼女のことを理解できないかもしれない。彼女と私が親しい、と知った別の人が、彼女のことを「変わった人なのに……」とつぶやいたことも聞いた。

でも、私は彼女のことが好きだったし、もう一人の友人と同じ時期に過ごした街の話しや昔話を顎が外れるくらい笑いながらするのが大好きだった。

これを書くのに2年もかかってしまった。
2年も私はこのことを心の隅で後悔していたのかもしれない。

私は気が長いし、人との関係を簡単にあきらめたり、清算したりしない。でも、もしかした彼女は私の違うもっと深いところに何か嫌なことがあったのかもしれない。

だからこそ、彼女にぜひ、伝えたいことがあったのだ。

「一回の失敗で見捨てないでよ」

彼女とのことをずっと二年間も長く考えてきて、私は一昨日、結論に達したのだ。

「ねえ、一回や二回の人の失敗で、その人を判断するのは残念じゃない?」

ということ。

私はこれを自分の教訓ともしたい。

私も、「う〜ん」と唸るような場面に出会う時だってある。でも、その時、その背景は何なのか、と考える。

そうすると、大体の場合は、その人のその人側の理由があるのだ。そして、ここからが難しいのだけれど、それがその人の勘違いのときだってある。

だから、私は、「チャンスは何回でも!」と思う。

どんなに、がっかりしても、「残念!」と思ったとしても、その人が、「もう一回いいですか?」と言ってくれたら、「もちろん!」という態度で応えたいと思う。

これが私の、誰にでも、いつでも、あげられるもの。



author : y-mineko
| この人のこと、あの人のこと | comments(12) |

ユミコチャン、元気にしてますか?

【2010.02.10 Wednesday 21:03
ユミコチャンは明るい、将来にいろいろ希望を持った中学生だった。部活も熱心にしていた。

それがある一瞬を境に彼女と彼女の家族の人生をドン底に突き落とした。

中学二年の二学期の体育祭の練習時のこと。彼女は生理の三日目だった。彼女の後ろから同級生の女子たちが近寄り、二回に渡って嫌がる彼女を無視し、その体操服を下着と一緒に足首まで引き下ろしたのだ。

男子生徒、女子生徒、教員が多く見ている中で。

初潮を見たばかりの少女にとってそれがどんな屈辱だったか理解するのに毛虫の想像力だって必要ないと思う。

そして、彼女と彼女の家族を襲ったのは、この直接的な「いじめ」の後にきた、周りの大人たち、子どもたち、傍観者たちのする「二次的いじめ」の波だった。

二次的いじめの加害者たちの言い分はこうだった。

「ウチの子がそんなことされたって何も思わない」
「お宅の娘さんが精神的に過敏なのでは?」
「大人の世界にはこんなことよりひどいことがたくさんある」
「いじめをした、とされている子たちは冗談のつもりだった」
「いじめをした子たち、いつもはいい子たちです」
「いじめをしたって騒いでいるけれど、そんな子たちじゃない。普段の彼らを私はしっているもの」

私は、知人のジャーナリストからこのことを知り、またこの学校の教師や管理職の対応のひどさを知り激怒した。

そして、いても立ってもいられなくなり、自分の人脈をフル活動して、この見ず知らずのユミコチャンを応援することにした。ユミコチャンに寄り添い、励まし、いじめはいけないこと、あなたは何も悪いことをしていない、ということを南アフリカから、メールで、電話で言い続けた。

世界各国に散らばる友人たちに協力してもらい、「ユミコチャン応援団」を作り、世界各国から彼女あてに絵葉書を送り続けた。「一人じゃないよ、みんなで応援しているよ」というメッセージを添えて。

自殺まで試みたユミコチャン。でも、ご両親を始めとする家族の応援で何とか最悪の状況を回避することができた。でも、ユミコチャンと家族の受けた二次、三次の「いじめ」は、これでもか、これでもか、と続いたのだ。

いじめはある。
程度の差はあるにしても、いじめはある。
残念ながらどんな社会にもある。
子どもの社会にも、大人の社会にも。

でも、いじめはいけないことだ。

人を肉体的、精神的に追い詰めたり、傷つけたりすることはしてはいけないことなのだ。

それを大人はありとあらゆる機会を使って、子どもたちに言い続けなくてはいけない。

どうしてか。
私には明確な理由がある。

これだけいろいろな国際社会で暮らしてきて、宗教も習慣も違う人たちの中で暮らしてきて、ひとつだけ実感できることがあるのだ。

人と人とがつながっていく中で、言葉や力を使って、人を傷つけるのは、絶対にしてはいけないことだ、ということ。

子どもにはこれを心の底からしっかりと理解して欲しいと思う。

そして、大人たちにも分かってもらいたいことがある。

いじめを受けた子どもは、いじめを受けたことで、心が痛み、身体が硬直し、自分自身が何をしているかも、どうしていいかも分からなくなっている。

そういう子どもに絶対に言わないで欲しいことがある。

「あなたにも悪いところがあったのかも」
「いじめた子はそんなつもりじゃなかったんだよ」
「あなたも、がんばらなくっちゃね」

という一見、いじめの被害者を励ましているような言葉の数々。

こういった加害者の立場を擁護するニュアンスを含む「叱咤激励」は、いまでは国際的に、それを口にする人たちは、そのいじめの「加害者」に加担することであると認識されている。

そして、もうひとつの大切なこと。

いじめをした子どもたちのケアも間違わないで欲しい。

その「いじめ」をした子は、それまでそんなことをしたこともなかったのかもしれない。その子も何らかの理由があって、表現方法を間違って、そんなことをしたのかもしれない。

でも、自分のした行動で他の子どもが精神的、肉体的に傷ついた、ということは、それは「いじめ」となるのだ、という厳粛な事実を受け止めさせて欲しい。

どんな理由があるにしても、「いじめ」をされて泣いている子がいたとしたら、あなたは「いじめ」をしたんだよ、と。

ここではそのいじめの「程度」は問題ではなく、ただただ単純に、いじめがあったか、なかったか、という一点に焦点を絞ることも大事なこと。

でも、子どもたちの素晴らしさはその嫌な経験から、人生の大切なレッスンを学べることなのだ。

間違ってしてしまったことでも、そういうつもりでなかったとしても、人を傷つけたら、それは自分の責任で、その責任は自分で引き受けなくてはいけない、ということ。

何をすればいいか。

心からその被害者に謝り、自分のしたことを見つめる、ということだ。

意図していなくても、自分がした、言ったことにより、一人の人間が傷ついたのはどうしてか、ということを考える。

そして、その原因をしっかり見つめて、自分はそれでは自分のその時にとった行動以外に何ができたのか、ということを考えてみるのだ。

そんなことがその子たちの大人になってからの生き方につながっていく。

だからこそ、周りの大人のサポート、ケアが必要なんだと思う。

どんなに容姿が美しくても、学校の成績が良くても、お金があっても、芸術的な才能があっても、不幸な人間は世界中にごろごろしている。

どうしてだろう。

様々な理由があることだろう。でも、私は、その中の一つに、人とのつながり方の練習不足があると思う。

結局は、人間である私たち、一人で生きて行くことはできないのだ。そうしたら、自分の得意な能力を使って、自分のためではなく、他の誰かのために、ひいては大きく社会的にどんなことができるかを考えていけば、窮屈な毎日から脱却できる。

自分のためだけに使う人生のなんと広がりのないこと。寂しいこと。そうでない人をみればすぐそれがわかる。

私はネルソン・マンデラ氏を心の底から尊敬しているから、マンデラさんが説いた人の道を、がんばって歩いていきたいと思っている。

自分が何を達成したか、ではなく、人の人生の中でどんな変化をもたらすことができたか。

残念なことだが、ユミコチャンと私は今、連絡が取れないでいる。

中学でのそれ以降の不登校を乗り越えて、高校に進学したころまで連絡があった。でも、通学の途中でそのいじめの加害者にまだ心ない言葉を投げかけられることがある、ということが私の知る彼女の状態だった。

ユミコチャンをいじめた子どもたちは、結局、彼らの周りに彼らの心を真に受けとめ、彼ら自身をいじめの加害者という状態から解放してあげられる大人がいなかったのだろう。このことも私はとても残念に思う。

ユミコチャンには、その後、メールを出しても、手紙を書いても、電話をしても、何の連絡も取れない。彼女とも、お母さんとも話しができない状態が続いている。

どうか、元気でいて欲しい、と心から願っている。

ユミコチャン、元気にしてますか?
いつでも、いつまでも応援しているからね。



author : y-mineko
| この人のこと、あの人のこと | comments(18) |

ある青年の死

【2010.01.08 Friday 14:46
クリスマスの次の日の深夜、もうぐっすり眠っていた。

私の携帯電話が耳元でなった。
時間を見ると、零時に近い。

寝ていても、子どもを持つ親、というものは反射的に何かを察するのかもしれない。その電話が息子・カンジからであるのは、答える前から分かっていたような気がする。

カンジがとっても冷静な声で、ゆっくり話し始めた。

「お母さん、よく聞いてね。あのね、いま、友達が死んだ。警察が、お母さんにここに来てもらえって言っているんだ。来てくれる?」

カンジとその友人、ミッチェルは、二人とも20歳を超えているのだが、まだ少年のようにスケート・ボードをこよなく愛している。

そんな二人が出会ったのは、オリバー。

オリバーはストリート・スケート・ボーディングという、同じスケート・ボードでも人通りの少ない、あるいは人通りがなくなった夜に一般の市街地でするスケート・ボードを好む青年だった。

事故はほんの一瞬。

急な坂のカーブを曲がり切れず、オリバーはバランスを崩し転倒、アスファルトの道路で頭を強打、そして首の骨を折った。

オリバー、ミッチェル、そしてカンジ。

この三人はどこか、共通点があるのだと思う。

カンジがこのオリバーに会ったのはこの夜が初めてだった。ミッチェルは三回目。でも、カンジにとって、このオリバーはあらゆる点で他の地元の青年とは違っていたという。

「オリバーはね、最初から僕の名前を正確に発音したんだよ」

「オリバーはね、ぼくの話に興味を持って、聞いてくれたんだよ」

これが、20歳になるカンジの感想。

幼いだろうか。こんな些細なことが、印象に残るほど、“日本人”として南アフリカの現実を生きる、ことは厳しい。

長くアフリカで暮らし、アフリカの善き所、厳しい所、すべてを冷静に見ているはずの大人の私でさえ、例えば自分の名前をきちんと呼んでもらうこと、「日本出身だから」ではなく、私の中身を理解してもらうことは嬉しい。

カンジは、南アの社会で、非白人であることで、かなりの差別、悔しい思いを経験してきている。この国はまだまだ“白人”であることが、ある一種の“パスポート”であることを否定できない。

でも、そんな中、オリバーのように、ミッチェルのように、肌の色ではなく、最初から私たちの中身で私たちのことを理解しよう、としてくれる人もいるのだ。

これがどんなに珍しいことであるか、は残念ながら、南アの社会で実際に根を下ろそうとしていない限り理解できないと思う。

でも、それは私たちが自分で選んだこと。

また、そういった差別を体験するほど、私たちのこの社会への関わりあいが深い、とも考えられる。だって、「お客さん」には、南ア社会は優しいところもあるからだ。たくさんの人が南アに訪れ、よい印象を持って帰ることもある。「親切にしてもらった」と。

そんなところをなぜ選んで住んでいるのか。

それは、この土地には、こういった狭い考えを持った人がいるとともに、それを超える上向きのエネルギーがあり、その大きな「希望」を心から願う多くの人々もいるからだ。

その希望を助ける力になることができる、という実感に何よりもの魅力がある。自分たちのこれまでの経験や能力を使って、自分の周りの変化を促す、というのはなんと生き甲斐のあることか。

夫と私は20代からアフリカに関わり、戦争も、内乱も、難民も、飢餓も、そしてHIV/Aids の現実も自分たちの目で見てきて、日本人の私たちだからできることがある、と思い移住を決意した。子どもたちの教育も、南アフリカの教育を選択した。

子どもたちが受けるであろう、差別にももちろん無知でいたわけではない。

だが、それらすべてを考慮しても、私たちにとってアフリカの生活はすべての土地の誘惑を上回る魅力があるのだ。

カンジも現在、南アの大学の建築学部の学生として、日本、欧米に勉強の幅を広げる機会があったとしても、最終的にはアフリカで、建築家として生きていきたい、と望んでいる。

オリバーの死を通して、宗教の違い、というものにもしたたか考えさせられた。

クリスチャンたちに、自分たちが「仏教徒」である、と答えながら、自分たちのそれがかなり概念的であることも認識している。

仏様を信じて、お経をあげる毎日を送っているわけではないが、カンジが事故現場から帰宅後、真っ先に向かったのは亡き祖母の遺影とお位牌。

お線香をあげながら、カンジが、静かにこうつぶやいた。

「おばあちゃん、おばあちゃんが助けてくれたんだよね。ありがとう」

これが、南アに住む、私たちの宗教。



オリバー・ブレイ、享年21歳。




author : y-mineko
| この人のこと、あの人のこと | comments(0) |


吉村 峰子
writer
English & Japanese
language instructor
interpreter
(Japanese - English)