空の続きはアフリカ
デモに参加し、そして引き下がる。失敗?いいえ!

【2015.04.08 Wednesday 20:12
2015年3月、南アの多くの大学で、学生たちの人種差別への抗議活動がかなりの広がりを見せました。

発端は、私の娘も通う、ケープタウン大学に設置されている、セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日)という、イギリスの政治家であり、その後南部アフリカで様々な事業を営み、ダイアモンドと金の採掘などにより巨額の富を得た人物の銅像を大学のキャンパスから撤去しろ、という要求からでした。

セシル・ローズは、“アフリカのナポレオン”と異名を取るほどの権力を有していました。彼の名を冠したローデシアという国もありました。現在、北ローデシアはザンビアに、南ローデシアはジンバブウェと独立し改名しています。ただ、現在も南アの著名大学の一つは、ローズ大学といい、彼の影響力の偉大さは推して知るべし、という感があります。

「神は世界地図が、より多くイギリス領に塗られる事を望んでおられる。できることなら私は、夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と自分の著書のなかで豪語したことも有名です。

国際的な知名度としては、アメリカの元大統領、ビル・クリントン氏もその奨学生であったローズ奨学金の創設者でもありました。これは、生涯独身だった彼がその莫大な遺産のほとんどを英国のオックスフォード大学に寄付し、英国領あるいは米国のように英国に関係の深い国々からの優秀な大学院生にオックスフォード大学の大学院で学ぶための奨学金を捻出し続けているのです。彼のビジネスの中には、日本人に馴染みのある、ダイアモンド会社、デビアスもその一つです。

で、その人物の銅像がなぜいまこんな嵐の中にいるのか。

それは、彼が類まれなる人種差別主義者であったため、彼の銅像を自分たちの学んでいる大学のキャンパスに置きたくない、ましてやその名前を大学の名前としているのは、彼に代表される黒人を家畜のように扱った、植民地主義をいまだに肯定している可能性を示唆するからだ、という主張です。

最初、この抗議活動を聞いた多くの南アフリカに住む大人たちは、「なんで今頃?」と思ったのです。が、活動が多くのソーシャルメディアや既存のメディアで詳細を伝えられ始まると、学生たちの抗議活動への評価は、きっぱりと二つに分かれていきました。

多くの黒人系南ア人は、

「そりゃあ、そうだよ。言の発端を考えれば学生たちの主張が正しい」

多くの非黒人系南ア人は、

「彼の銅像を引きおろすんだったら、彼の奨学金の恩恵を受けた人間はそれを全部返還するんだろうな」

娘のショウコは、ケープタウン大学の三年生で舞台芸術を専攻しています。学生の人種の割合は?などという質問には、かなり ”きっ”として、

「人種で友達のこと区分けしたことさえないよ。お母さん、それは不愉快な質問」

と言うほど、普段“人種”など意識しないで大学生活を送っている様子です。

が、前回の曾野綾子さんの記事を発端として、日本の新聞などにもインタビューされ、彼女の中にはやはり長い年月差別されてきた非白人系の友人に対する「申し訳ない」と言った気持ちが普段より強かったようなのです。

彼女からこんな電話がかかってきました。

「お母さん、私もRhodes Must Fall(ローズを引きづり落とせ)のデモに加わろうと思う。最初はあまり賛成できない、って思ったけど、やっぱり悪いことをして利益を儲けた人の銅像をそのままにしておくのは間違っている」

私は彼女にこうアドバイスしました。

「そうなんだ。でも、デモといっても暴力にだけは巻き込まれないように。学生の中の数人だとは思うけど、銅像に汚物を塗ったりしたって一般の人の賛同は勝ち得ない。自分の心が何を思うか、よおおおおく耳を澄ませながらデモに参加しておいでね。くれぐれも危険なことはしないように」

デモに参加するのはいいけれども、母として、娘が暴力の被害者になるのも、加害者になるのも避けて欲しいと思いました。

さて、こう送り出したとは言え、内心私は彼女のデモへの参加が本当に彼女の本心から出ているのかどうか、ある種の疑問を持っていました。どうしてかというと、彼女は幼い頃から、“Empathy”という「共感する心」が人並み外れて強く、周りにいる黒人学生の中のかなりラディカルな意見にひっぱられている可能性が高かったからです。

でも、若いうちに衝撃的なパワーの波に乗って、自分の意見をデモという形で表したり、議論をしたり、ということも絶対経験しておいた方がいいです。

同じケープタウン大学生で、将来法律家を目指す男子学生が、自分の将来に不利になるから、と言ってメディアに写真を撮られることを恐れて何日かキャンパスから遠ざかっていたそうです。これ、私からすると、「こじんまりしたヤツだ」と情けなくなります。過激なことを奨励するつもりはないのですが、若い頃から自分の不利有利ばかりを考えて送る生活って、結果はろくなことにならない気がします。

で、ショウコ、デモには二日間参加したようですが、その後、こんな電話がかかってきました。

「お母さん、デモに参加するのはやめた。みんな暴力的過ぎるし、他の意見を聞こうともしていない。これではいい結果はでない。たとえ銅像を撤去しても、幸せになる人なんてでてこないよ」

そうだよね、この電話は結構涙がらみで、彼女の中でこの結論に達するまでに、かなりの葛藤があったことがよく分かりました。

「ショウコ、いいんだよ。ショウコは自分の中で、最初は賛成してデモに参加した。でも、参加して、みんなと議論するうちに自分の中でみんなに賛成できない部分がよくわかって、それで参加するのをやめたんでしょう」

「うん、そうなの」

「でも、きっと、参加しているほかの人たちから非難されているんだよね」

「……そうなの。みんなショウコが何も分かっていないって言う」

「あのね、意見が対立するって、そういうことなのよ。でも、ショウコの心の奥にある“声”って、ショウコが今まで培ってきた経験とか、考え方とか、家族のあり方とか、いろいろなものの集大成だから、それにきちんと耳を傾ける、ってものすごく大切なこと。他の人の意見と違っても、自分が“これは違う”と思ったら、その声を大切にしないとね」

「うん、難しいけど、がんばる。私ね、いま、白いワンピースをずっと着ているんだよ」

「白いワンピース?」

「そう、白いワンピース。これはね、ショウコの願いなの。“PEACE”って意味なの」

ショウコさん、なかなかやります。が、仲間たちから見れば、彼女は“転向”したわけです。彼女がこれから先、どんなことに繋がるか、しっかりと見守っていきたいと思います。

ただ、私の意見も伝えておいた方がいいと思い、私の尊敬する、南アのフリーステート大学の副学長、ジョナサン・ジョンセン教授の書いた手紙を彼女に送りました。彼の手紙には私の考えていたことすべてが反映されていたからです。

ジョンセン教授は、これまでも人種差別の問題が起こるたびに、本当に理性的な判断を表明してくれていて、心が救われます。手紙の英語全文はここから。

手紙の大切な部分を抽出し要約します。

「セシル・ジョン・ローズの銅像を取り除いて、博物館にでも押し込んでおく、ということは、反教育的であり、反進歩的であるだけでなく、自分たちのことを否定すると同じことだ」

「真実は、私たちは全員がこの複雑で苦い過去に絡められている、ということだ。私も米国のレーガン大統領が進めた奨学金の恩恵者だ。レーガン大統領とアパルトヘイト政権の共産主義を打倒する、という目的のものだっただが、結果的には黒人弾圧にもつながっていた」

「これが歴史の持つ問題なんだ。皆がその一部なんだ。自分の祖先の中にさえ、特にメラニン色素が薄い祖先の中にはとんでもない人種差別主義者の汚らわしい人物がいる。そういった祖先のしたことに対して何らかのうっぷんを晴らしたいと思わないことはない、でも、それをするということは自分を否定することにもなる。そして、そいつらからの恩恵を受けていない祖先をも巻き込むことになる」

「そうだ。セシル・ジョン・ローズの銅像は、南アの主要な大学のキャンパスの目立つ場所にあるべきではないかもしれない。が、彼をこの国の歴史から排除すべきではない。彼の残した複雑で混乱した遺産を自分たちとの関係をも含めて、どう再認識していくか、という議論が必要だ」

「そして、この最認識の作業には、別の厄介な疑問に解決しなくてはいけない。それは、21世紀の現在を生きる私たちの価値観で、19世紀に生まれた人を判断することが、正しいかどうか、ということだ」

「100年前英雄たちの中には、女性や少数民族をまったく顧みなかったヒーローたちがいる。100年前はそんな時代だったのだ。アフリカの王の中には自らの手でいくつものコミュニティーを殺戮した王だっている。が、現在、その王は歴史的に輝かしい位置を享受している。おぞましい?その通り。でも、それだけで歴史の記憶から排除されるべきなのか?いや、それも違うんだ」

2015年4月現在、ケープタウン大学は、セシル・ジョン・ローズの銅像を現在の場所から移すことに合意しました。クワズール大学では、キャンパスにある、キングジョージの銅像に白いペンキがかけられ、放置されたままです。ローズ大学では大学名の変更が検討され始めました。

南アフリカはまだまだアパルトヘイトの傷跡を深く深くそのうちに抱える人々が暮し、学び、働き、そして生活している国なのです。

そのまっただ中で青春を送る日本人のショウコです。最初どんなに「これだ!」と思って、動いたとしても、途中でね、心の底の深くて、遠いところにある、「う〜ん、なんか変」という声に気がつくことってあるのです。で、それを聞いて、それをまた行動に反映されるって、勇気がいることです。もしかしたら、なかなかできることじゃないのかも知れません。でも、「一度決めたら絶対に変更しちゃいけない」って、ありえないです。人生って、そんなに単純であるわけがないのです。

デモに参加し、そして引き下がる。大丈夫、大丈夫。行動してからする反省の方が、何もしないで批判だけしている人より、ずっと、ずっといい、とラディカルな母親は思い、転びながらでも行動を起こす娘を応援するのです。


尊敬するジョナサン・ジョンセン教授。南ア人種関連機関の会長でもあります。
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南ア永住の日本人より曽野綾子さんへ

【2015.02.18 Wednesday 00:25
南ア永住の日本人から曾野綾子さんへ

曾野綾子さんが、アフリカのアパルトヘイトを見て、それからこういう考えを持つようになった、という記述があるので、日本に生まれ、その後、米国、欧州、アフリカ各地を生活した後、南アフリカを永住の地に選んでいる私からも、彼女のその意見がいかに現実を正しく“見ていない”かということを書いておくことにします。

**********************
曽野綾子さん、あなたの意見を要約すると、こうでしょうか。

*20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。

*南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃後、白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例を出し、人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい、と思うようになった。
(産経新聞 2015/02/11付 7面より)

他のアフリカに関係がある人たちもいろいろあなたの論点のずれているところを指摘していますが、南アフリカに永住し、ここの生活者である私が、指摘しておかなくてはいけない、と思ったのは、ここのところです。

【白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例】

確かに、いま私が住むダーバンのダウンタウン近くのかつては高級リゾートマンションであっただろう物件の中には、しばらくメインテナンスがされていないのが明白なものがいくつか目につきます。これは、所有者が共同でするビルの補修を何らかの理由で放棄し、その後に各国から来ている不法移民が入り込んでいる、というケースもあります。

ですが、あなたの言う、何十年も前に、白人専用だったマンションに黒人家族が入居し……、というくだりが私には胡散臭いのです。

何故かというと、アパルトヘイトが終焉を迎えた頃、白人専用の“高級”マンションに入居できるような裕福な黒人層はほとんど存在していなかったのです。職業の自由も住居の自由も黒人には許されていなかったアパルトヘイト政策下では当然のことです。が、万が一、そういう黒人がいたとしましょう。でも、そういう富裕層の黒人は、あえてマンションなど選ばず、一軒家の邸宅を選ぶはずなのです。

日本の国土の四倍の広さを持つ南アフリカです。都市部にたくさんマンションが必要になってきたのは最近のことだし、それに、そもそも、“高級マンション”という概念自体が日本のそれとはまったく違うことも指摘しておきます。日本で言えば、例えば都会の“億ション”と呼ばれる物件などがこの高級マンションになるのかもしれませんが、南アで高級マンションと言ったら、一フロアが一物件となるようなもので、こういうところであれば、家族が10数人いたとしても、何の問題もなく生活していけるでしょう。

でも、こんな簡単に話を終わらせる訳にもいきません。あえて、その白人専用の高級マンションに富裕層の黒人一家が移り住んだとしましょう。都会のマンションを選ぶような黒人は、かなり現代的で高等教育も終えているエリートでしょう。そういう黒人は日本や米国のようなエリートたちと同じで、ほとんどが都会では核家族で住んでいるのです。そして故郷には親兄弟のために立派な家を建てているはずです。

ですから、白人専用の高級マンションに大勢の黒人が入り込んでそのマンションの給水設備を破綻させた、というのはかなり特別な状況で、あなたが「人種は別に住んだほうがいい」という仰天するような論旨の根拠となるためにはかなり厳しいと思います。

もちろん、私がここにいて、人種間の軋轢を感じない日はありません。いまだに、まだ「アパルトヘイト時代が懐かしい」とまで言う人もいます。

曽野綾子さん、あなたは小説を書く人です。なので、あえて、私の想像も脹らませてみましょう。あなたがその20年〜30年前に南アを訪問されたとき、きっとあなたたちを案内した現地の人間(白人を想定しています)がいたでしょう。そして、きっと、こんなことをささやいたのではないでしょうか。

「黒人たちは大家族で住むんですよ。白人の家族などはせいぜい4人から多くたって6人ですよね。だから、簡単にご想像してもらえると思うんですが、彼らが私たちが住むマンションに引っ越してきたら、水だって、電気だってすぐ足りなくなりますよ」

残念ながら、南アフリカでは、アパルトヘイトが終わってから21年経つ現在においてでさえ、人種間の壁はまだまだ高く、お互いの文化をよく知ろうとしない人たちが人種を限らず存在します。まして、30年前のアパルトヘイトを「良い政策」と信じていた白人だったら、実際の迷惑を受けたか受けなかったか、などまったく関係なく、憶測でこういうことを言ったかもしれません。

が、あなたは本もたくさん書かれる“作家”ではありませんか。こんな実際にはかなり現実的でない状況を引いてきて、人種は別々に住む方がいい、などという発言をされているとしたら、これはあまりにも軽率な行為ではないですか?作家としてだけでなく年長者としてもです。

最後に、2015年現在、私の娘がケープタウンで大学生をしています。ここには、あなたが提唱するまったく逆の毎日が繰り広げられています。

彼女の住む共同住宅用としての一軒家は、一人一部屋は日本でいう8畳くらい、そのほかに7名の他の同居人と共有で使うラウンジ、キッチンがついています。その一軒家には、南アの黒人女性1名、白人女性1名、カラードの男性1名、ジンバブウェからの白人女性1名、ザンビアからの黒人女性1名、スリランカからの男性1名、韓国からの女性1名、そして日本人の私の娘が、何の不都合もなく、共同生活をしています。全員がケープタウン大学の学生やその関係者です。

これが現在のケープタウンのあるひとつの生活の風景です。

曽野綾子さん、あなたには、命をかけてこういう現実が来るよう戦ってきた故ネルソン・マンデラさんはじめ多くの南アの人々にどんな説明をするのでしょうか。

私は日本で生まれ日本で育った人間ですが、南アに永住しております。そして、“日本人”だからといって、ある一定の場所に住め、などと南アの政府にも南アの知識人にも一般人にも言われたことはありません。この国では未来永劫そんなことを言われないでしょう。

南アではあなたのような“知識人”でも、また一般の人間でも、人種差別につながる今回のあなたのような暴言を吐くことは、法律的に許されておりません。
 
author : y-mineko
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嬉しいなぁ

【2014.11.20 Thursday 05:33
偶然にも、先週は二人の子どもが私の友人にとっても親切にしてもらった週でした。

もう成人しているとはいえまだまだ独り立ちはしていない子どもたちが、私の友人たちに私抜きで会ったりしてもらうと心がほくほくします。

私は日本人として南アフリカに永住することを選択している人間ですが、生まれ育ったのは日本で、大人になりかけの時期に魂を吹きこまれたのは米国、社会人としても揉まれてきたのはアフリカの諸国です。

そんな私が子育てをする上でかなり大切にしてきたのが、いろいろな国に住む友人たちとのお付き合いでした。

実際に、何年かに一回は遠くに離れている友人たちを訪問し一緒に時間を過ごさせてもらいます。観光地を巡る旅行も素敵ですが、私が子どもを連れて訪れてきたのは、様々な国で、それぞれの家族と共に普通の暮らしをする友人たちの生活の場所でした。

私は子どもたちと一緒に、ホテルではなくて、友人たちのお宅に(迷惑になることは重々承知の上)、ずうずうしくも何日も泊めてもらって生活を何日か一緒にさせていただいて来ています。

日本人の友人の家であれば、アフリカに暮らす子どもたちに、普段母親の私、お互いの兄妹という役割が固定している人間関係の中のみだけでしか聞けない日本語をたっぷり聞き、使う機会にもなります。これがどれだけ大切かは、日本以外の場で暮らし、子どもたちに日本語を学ばせたいと考えている親の立場の人は理解していただけるはずです。

日本人以外の友人の家では、そこで話されている言語に始まり、毎日食べる食事、垣間見る習慣、宗教行事といった、書物やテレビあるいはインターネットからの情報からだけでは絶対得ることのできない日常の暮らしを体験させてもらえます。
こういったことを説明とか、教訓とかまったくなしで、子どもたちに体感させることで、彼らの心の芯に人と付き合っていくことの楽しさ、また難しさなどを知って欲しいと思いました。

そんなことも遠因でしょうか、カンジもショウコも、自分と異なる習慣や言語を持つ人たちにとても寛容な青年たちに育っているように思います。もっともカンジはもう25歳になりましたから、途上国の常識では子どもが数人いるオトウサンになっていたって不思議はない年頃。つくづくゆっくりと人生を歩いている人です。

20歳のショウコはいまケープタウンで大学生をしていますから、日本人との接触は激減しており、日本語もどんどん退化していっています。今回、どんな場所で会う、といった事前のやりとりはFacebookでのメッセージだったようで、日本語を読むこと書くこと自体に大層苦労したようです。それでも私に助けを求めてこなかったのはエラかった。

彼女の感想です。

「オカアサン、ショウコね、日本に行って日本語とか日本のこととかもっと勉強しなくちゃだめだと思ったよ。ショウコの日本語ほんとにダメだったよぉ。でもね、楽しかったの。本当に嬉しかったの」

ショウコの言葉には、大人に優しくしてもらうのが、どんなにか嬉しかったかが溢れていました。

この優しくしてくれた友人とは東京に住む友人のお連れ合いで、仕事で南アに写真撮影に来ていたのでした。久しぶりに会った彼女が、ボーイフレンドのディランまでちゃっかり連れて来たことを、「すっかり大きくなってBFまでいてちょっと複雑!だったけど相変わらずかわいかったよ。大学生活を本当にエンジョイしているのがよくわかった」と話してくれました。

私は子どもたちが、親とか親戚だけではなく、血のつながりが無くても、頻繁に会うことができなくても、世界に散らばる自分たちの応援団がいる、ということを肌で感じられることが本当にいいなぁ、と思っているので、涙腺が緩んでしまいました。
それに、この出会いがショウコの日本魂?に火をつけたようで、いましきりに大学が終わったら日本に行く!と興奮しています。



さて、カンジは2年間の厳しい日本での生活を終えて、今年の始めに帰国しました。日本での生活は彼の性格をかなり用心深いものにしたようです。が、これも彼の選択したことですし、こういったことを乗り越えて成長していって欲しいと思います。

カンジがお世話になったのは、ヨハネスブルグの友人宅で、彼は大学院に行くための面接に挑んでいたのでした。この家族は私達の南アのおばあちゃん、とも呼びたい、キャシーの義理の家族です。キャシーと私の出会いは、彼女が私のことが書かれていた新聞記事を読んで連絡を取ってきてくれたことに端を発します。

そのキャシーの義理の家族が、カンジが面接を受けに行った大学の教員や学生をしている関係で、今回彼を引き受けてくれたのです。

普通だったら、ホテルにでも滞在しながら準備するのでしょうが、私はこういった“縁”とでもいうつながりを大事にしたいのです。キャシーと出会っていなかったら知り合ってもいなかった彼女の家族。その家族構成がよく似ているせいもあって、私はこのキャシーの義理の娘さんととっても親しくさせてもらっています。

人にお世話になる、ということを煩わしく思う人も多いでしょう。でも、私は世の中が緩やかにつながっていくためには、一緒にご飯を食べたり、ゆっくりする時間を過ごしたり、ということが大切だと考えているので、あえて友人宅にお世話になることを選択したいのです。

もちろん、過去に誤解やら行き違いがなかったとは言えません。でも、ネガティブな経験にポジティブな未来を潰すことはさせません。

私の亡くなった両親は、私が米国に留学したことがきっかけで、結構頻繁に実家を訪問することになった外国人の若い人をあれやこれと面倒を見ていました。一人のデンマーク人の女の子は今でいうギャップイヤーを利用して、両親の家に一年間ほど滞在しました。

父は片言の英語を話せたもの、母に至ってはチンプンカンプン。それでも、なんとか身振り手振りを交えて彼、彼女たちに「オトウサン、オカアサン」と慕われていました。

彼らは何らかの私の関連で我が家にたどり着いているのわけです。さすがの私も、私の不在の両親の家に、何人もの友人の滞在したい、というリクエストを伝えるのはおずおず、という感もありました。

でも、毎回、しごく簡単、単純に、

「いいよ」

という気負うこともない、鷹揚とした答えが返ってきました。

今、自分でもこの頃の両親の年齢をはるかに超えるような年齢になって、両親が何をしていたのかがわかります。
母がよく言っていたのは、「ご縁を大切に」。そして「情けは人のためならず」でした。

どんな形のつながりであっても、お知り合いになった人たちとのお付き合いを大切にすること。自分の家も心も開放して、人を迎え入れることは、巡り巡ってかならずよいご縁となって世の中が平になる、ということ。

実際の世の中はそんなに単純なものではないのかもしれません。また、いろいろな事情があって、なかなか赤の他人を家に入れることを躊躇する場合だってあるでしょう。

でもね、豪華なおもてなしをしなくても、家がちょっと片付いていなくても、そんなことはあまり気にしなくてもいいと思います。

人と付き合う、ということの素敵さ、楽しさ。そして、自分の子どもたちが自分を超えてさらに彼らの人間関係の輪を広げていくのは本当に素晴らしい。

「ああ、南アには峰子さんがいたな、行ってみようかな、子どもを行かせようかな」

と、私は私の友人たちに考えてもらえたら、本当に嬉しいのです。私は仕事が超忙しいので、完璧なお世話はできないけれど、南アを知って欲しいし、こういった生活だって選択できるんだ、ということを私の友人やその子どもたちに知ってもらえたら心からシアワセなのです。

みんな、待っているからね!
 
author : y-mineko
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David Wainesが釈放されました!!

【2014.08.10 Sunday 23:51
前回のこのコラムでご紹介した、私の友人、David Wainesが、2014年8月7日、リベリアの刑務所から釈放され、無事故郷のカナダのバンクーバーに帰り着きました。

このコラムを読んでくださったたくさんの方にも署名にご協力していただきました。心から御礼申し上げます。

実は、今回の開放に関しては、いま、リベリアなどで大変な脅威を振舞っているエボラ出血熱も一因があったようです。

現在、エボラ出血熱はいまだに感染を広げています。多くの医療事業者が感染してしまった現実もあり、国際的な支援が必要になっています。

時折流れてくるニュースなどには、病気に倒れた人がそのまま道路などに放置されている映像も含まれていて、現地のこの病気に対する混乱振りがよくわかります。一日も早く治療法が確立され、多くの人が命を落とすことなく助かって欲しいと強く願います。

今回、Davidが開放されたのは、本人の無実の罪がDNA鑑定により証明されたことも一因なのですが、大統領府の命令として、暴力的でない犯罪者を収監されている刑務所から解放するように、というお達しが出た、という情報もあります。

これはまだ確認ができていない情報なのですが、リベリアの国がいかに混乱しているかが安易に想像できます。

Davidのリベリア出国時もかなりひやひやものでした。大統領府からの出国の許可があるというのに、セキュリティでストップがかかったのです。

私はこの一連の動きをFacebookで、彼の家族や周りの支援者のポスティングでずっと追っていたのですが、最後に飛行機の座席からDavid本人が奥さんのAudryに電話をかけた、という情報が最後だったのです。

が、今朝、南ア時間の朝1時頃(バンクーバー、カナダでは8月9日午後3時頃)、Davidが無事バンクーバーに着いた、というポスティングと髭がぼうぼうになった彼の写真を確認することができました。

簡単ですが、皆様にこの嬉しいニュースをお届けいたします。

ご協力、本当にありがとうございました。

吉村峰子
 
author : y-mineko
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David Waines のために署名をお願いします

【2014.07.31 Thursday 05:09
「アフリカは危険ではないんですか?」

と、私はよく聞かれます。

10代だった子ども二人を連れて、日本から南アフリカに移住した私たちに、アフリカを知らない多くの人たちは、心の中で

「何を好きこのんで、日本からアフリカに?」

と言ったニュアンスを含ませながら、この質問を私に聞いてくるのです。

「アフリカ全部が危険なのではないと思います。でも、底知れない“恐ろしさ”というのは、あるかもしれません」

と今日の私は答えます。

それでは、この“底知れない恐ろしさ”とは何なのでしょうか。

この“恐ろしさ”とは、単純にアフリカに行ったから、生活したから、といって全員が体験するものはでもありません。それこそ、数年程度の駐在員生活では、こういったことを意識もせずに日々を送り祖国に戻る人もいるでしょう。

1986年からアフリカで暮し始め約30年近くの歳月が経とうとしている2014年7月30日現在の私は、このアフリカの、“底知れない恐ろしさ”をかみ締めています。

カナダ人、David Wainesは、亡き夫、吉村稔のリベリアでの一番の親友でした。

Davidは、キリスト教の宣教師です。しかし彼は、いわゆるアフリカで多く見受けられる、「キリスト教だけが世界を救う宗教だ」というような考え方を持ちません。

その証拠に、と言っては少し的外れなのかもしれませんが、非キリスト教徒である稔も私も、彼からは一度もキリスト教に改宗するような誘いを受けたことがありません。彼は、私たちの宗教に対する考え方をきっちりと尊重してくれていたのです。

Davidは、とにかくその破天荒な性格と行動で、カナダ人版の吉村稔のようでした。だからこそ、あんなにも気があったのでしょう。

彼の破天荒なエピソードを一つだけご紹介しましょう。

それは彼がまだ20代前半の頃、ソビエト、と呼ばれていた現在のロシア経由のエアロフロートでヨーロッパに旅行しました。皆さんはKGBという組織のことを聞いたことがあるでしょうか。それこそ、プーチン大統領こそいませんでしたが、その頃のソビエトは、がちがちの共産主義国でした。そこでは、反体制の人間などは今よりももっと過酷に激しく規制され、国家権力によって、闇から闇へと葬り去られる人間は数え切れないくらいいたのです。

その強権国家ぶりは世界的に有名でしたから、モスクワ経由のエアロフロートでのヨーロッパ路線がいかに安くても、西側の多くの人間はそれを避けたものでした。

Davidが強烈なのは、そういったソビエトの体制さえも、なんのその!といった根性です。エアロフロートの旅客は、乗り継ぎ地のモスクワで、厳戒態勢のもと市内のホテルへ移動させられます。“ホテル外への外出厳禁”という絶対条件付きで。

でも、そういうことを理由なしで告げられると、「絶対何とか外出して、ローカルな酒場でウォッカでも飲んでこよう」と考えるのがDavidです。

厳戒態勢が引かれているにも関わらず、ホテルの非常階段からホテルを抜け出し、一人も好くわの夜の街に出て行ったのでした。でも、これが発覚し、見張りに付いていた警備兵が卒倒しそうになったそうです。こんなことが上層部に知れたら、彼はきっと降格どころか、もっとひどい処分を受けたでしょう。

夜も更けて、ウォッカをローカルなバーで楽しく飲んでホテルに戻ってきたDavidは、それこそ20人くらいの警備兵が血なまこで彼を探している様子が分かったそうです。

「で、ど、どうしたの???」

と、話を聞いていた私たちの質問に、Davidはこう答えました。

「ははは、彼らにね、Good Eveningと言って、部屋に戻っただけだよ。だって、僕がいなくなって困るのは彼らだからね!」
これが若かりし頃のDavid Wainesです。

彼は、Audryという非常に聡明で落ち着いた看護士の妻にめぐり会い、二人でEquip というキリスト教系のNGOのリベリア事務所代表として働いていました。彼らの主な活動は、リベリア人の健康状態を向上させるためのものでした。リベリアの内戦で私たちを含む多くの援助関係者がリベリアを後にする中、彼らは自分たちでも難民になりながら、ずっとリベリア人とともに過去25年彼らの人生をささげてきたのです。

その彼が2013年の11月以来、無実の罪でリベリアの刑務所に拘留されています。裁判も何も開かれていません。

彼の“罪”は、10代のリベリア人女性を妊娠させた、というものでした。

が、この女性は2014年2月に男児を出生し、その赤ちゃんがどう見ても黒人系の両親を持つことが明白な事実にも関わらず、未だにDavidは自由を奪われ、不衛生極まる首都モンロビアの刑務所に閉じ込められているのです。

Davidの健康状態は日一日と悪化しており、一日も早く釈放され、加療が必要です。

リベリアではいま、エボラ熱が猛威をふるい、健康な人でも感染の危険にさらされています。健康状態が最悪のDavidの安全が脅かされています。リベリアの刑務所の衛生状態は最悪です。Davidによると彼の周りの多くの人間が彼のように無実の罪で獄中にあるようで、その状態は悪夢を通り越しています。

「無実の人間が不当に国家権力により自由を奪われている」という恐ろしさ。

これがいま、2014年7月31日現在、リベリアの首都モンロビアで起きている現実です。

皆様、どうぞお力をお借しください。以下のキャンペーンに署名していただけますでしょうか?このサイトは危しいサイトではありません。Emailのアドレスとお名前、そして住んでいる街の名前を記入していただけますか?現在の目標は2500名ですが、多ければ多いほどよいようです。

アフリカは多くの魅力に富んだ素晴らしい大陸です。

私は自分の選択、南アを永住の地に選んだ事、を後悔したことはありません。が、“底知れない恐ろしさ”が存在することもまた事実です。

それとどう付き合っていくか、ということをじっくり考えています。

が、今は、とにかく一人も多くの方にDavidのことを知ってもらい、彼が釈放されるための一助となるよう努力することが、私の最優先にしたいことなのです。

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このサイトからキャンペーンに署名をお願いします。
http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/president-ellen-johnson-sirleaf-liberate-david-waines?utm_medium=email&utm_source=notification&utm_campaign=new_petition_recruit#share

DavidのVIDEO(英語)があります。
http://vimeo.com/87153890
 
author : y-mineko
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南アフリカで入院し、手術を受けるということ

【2014.04.20 Sunday 04:04
去年の暮、何年かぶりで婦人科の検診を受けました。

何年かのサボりのツケは、“子宮けいガン”の疑い、との告知でした。でも、数値はそう劇的に悪いものではなかったようで、主治医は、「三ヶ月ほど時間を置いて再検査しましょう」とのことでした。

そこで、年が明け、結婚式などのためにダーバンを一ヶ月ほど離れる前に再検査を受けました。

旅行中にこのことを考えるのは嫌だなあ、とも思ったのですが、案の定、そんなことは一回も思い出さずに予定通り旅行を終えました。

そして、結果を聞いたのは、ダーバンに戻ってきた次の日でした。私の携帯電話に主治医から何回か電話連絡が入っていたのでした。

主治医は、二回とも同じ数値で、異常値なので、専門医の元でもっと詳しく検査を受けたほうがいい、との意見。

早速、予約を入れてもらい、4月の第二週の月曜日、私の住む地域の”Hillcrest Private Hospital”といういかにもお金のかかりそうな病院で、婦人科の専門医の診察を受けました。

すると、超音波などで診断してもらった後、専門医からこういわれました。

「子宮けいガンのPre Cancer ステージです。私の手術日は水曜日なので、今週、時間を取りますからすぐ切除しましょう」

診断が月曜日、手術がその二日後の水曜日に決まりました。

私の住んでいる地域は、ダーバンでは高級住宅地の範疇に入り、裕福な家庭が多いのです。実は、私は歯医者などは20分ほど離れた近隣の町にわざわざ出向きます。だって、同じ治療をしてもらって、費用が三倍も違うのです。

南アの健康保険は、日本のそれと違い、米国のように個人保険に自分で加入します。これは、南アの場合、かなりの数の会社の選択肢があり、どこを選んでいいかは素人ではなかなか判断しにくいのです。

私と私の家族は、知り合いでもある保険のブローカーに勧められるまま、Medsheildという南アでは中堅の会社の保険会社が提供しているプランの上から三番目くらいの保障の、Mediplusというプランに加入していて、結構満足しています。

この保険は、メインのメンバーの費用が約1万8千円程度で、娘はまだ学生なので、扶養家族(子ども)として約5千円ほどです。

このプランに何が含まれるかと言うと、GPと呼ばれる一般医の診察が年11回、歯科治療は保険治療であれば全額、親知らずなどは承認が必要ですが、無料で抜歯してもらえます。慢性病がある場合は、登録を医者にしてもらえば、その薬代と慢性病のための医師の診察は年二回が範囲内。その他、妊娠とかHIVとか、いろいろ含まれるものは結構広範囲にカバーされていて、なかなかいい保険に入っていると思っていました。

また、私のこのプランは入院に際しては、Unlimited、制限なし、ということだったので、安心していました。でも、ここに落とし穴があったのです。このUnlimitedは、保険診療金額以内の、という制限があったのです。

これが、保険と保険を超える、“差額費用”の存在でした。

南アの医療関係者は、自分の裁量で、自分の費用をこの保険内の金額か、あるいは最高300%まで患者に請求できるのです。

以前も手術をしたことがあるのですが、それは夫が生きていたころで、きっとその処置は彼がしてくれたのでしょうか?まったく記憶がありません。

今回、手術の前の診察の前に、こんな誓約書を書かされました。

「私は医師XXXXが、保険診療の300%を請求することに同意します」

ちっとも同意したくなかったのですが、もう主治医から予約を入れてもらっているし、病気の疑いが、“ガン”ということは、こちらも金額よりはベストな治療を望んでしまい、仕方なく同意書にサインしました。

この時、医師が

「ギャップカバーに入っていますか」

と聞くではありませんか。

そうなんです。いざという時のために、何と、健康保険とは別に、この300%の差額をカバーする別個の保険まであるのですよね。これからもっと別の病気も出てくるかもしれないので、このギャップカバーのことももっと調べる必要がありそうです。

手術は、予め保険会社からの承認が必要なのですが、それは病院がきっちりと手続きをしてくれて、私は朝6時に病院に来い、ということでした。

さて、手術の日、朝6時から受付が始まり、私は手術の順番が最初で、実際に7時半にはもう手術室で麻酔をかけられていました。

麻酔医の「よい夢を!」という声を聞いて、次に気がついたのは、手術を終え、戻されていたベッドの上でした。

手術事態は45分ほどの時間で済んで、あとは、麻酔が回復し、ふらつきがなくなる頃、お昼前にはもう退院させられました。

手術は成功で、三週間後にまた診察の予約を取れ、と主治医に言われました。

さて、今回、まだ病院からの請求は来ていないのですが、執刀医から45分の手術費が約3万円、麻酔医からの請求が約2万円来ています。それぞれ、保険会社がその三分の1はもう支払っているようなので、私は彼らからの請求書が届き次第、残りの三分の二を支払うことになります。

この病院の費用は、手術室使用際代、看護士代、薬代、半日の病室使用量くらいでしょうか。この費用は多分一番高くて、5万円から8万円くらいでしょうね。これは全額保険が払ってくれるといいのですが……。

日本でも入院時の差額ベッドのこととか、自由診療の話は聞きますが、南アのこの医療事情とはやはりちょっと違いがありますよね。

ちなみに、南アでは、収入がないことを証明できれば、政府系の病院は無料で治療をしてくれます。が、交通事故にあったとしても、骨が折れていたとしても、意識があったりすると、順番待ちとなって、骨をつなげてもらったのは一ヶ月後だった、というようなことが日常茶飯事です。

お金のありがたみがつくづく身に染みる南アの医療事情です。
 
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父、小林丈麿が永眠いたしました

【2013.08.29 Thursday 16:29
私の父、小林丈麿が永眠いたしました。
以下は告別式に間に合わなかった私の追悼文です。

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皆様、本日は父、小林丈麿の告別式にご参列くださいまして、まことにありがとうございました。

本来ならば、丈麿の長女の私が、この場で皆さんお一人お一人にご挨拶するべきなのですが、日本の家族の事情で、私が帰国できるまで告別式を待つことができず、こうして文書にてご挨拶する無礼をお許しください。

私の長男、吉村寛慈の代読をお聞きくだされば幸いです。

丈麿は、ここ茨城県に生まれ、4年前に亡くなった私たちの母と結婚してからは、人生の大半を東京の西多摩地域で過ごしました。その後、私たちのいる南アフリカにも暮しましたし、最晩年は妹夫婦の世話になり、約4年、愛知県春日井市で生活を送りました。

父の子ども時代や青年時代のことは、ここで私が言及するよりは、ご臨席をいただいている、親戚や友人の皆様にお譲りするとして、私は私にとっての父の思い出を皆さんに聞いて欲しいと思います。

父の人生は、ご臨席の皆さまの多くと同じように、子ども時代は戦争により、決して平和な時代に子ども時代を謳歌した、とは言えないでしょう。

しかし、その時代の暗さが父の性格を暗くしていたか、と言うと、決してそのようなことはありませんでした。

よく言えば大らか、悪く言えば大雑把。80年の人生で、大波、小波を幾たびもかぶりながらも、過ぎたことをいつまでも恨みに思ってくよくよすることはなく、目の前に自分の好きなものがあれば、それはそれでよし、とし、どんな場所でも、適応し、ひょうひょうと生活しておりました。

お酒が好きで、本が好き、テレビも好きで、晩年の仕事のようになっていた病院通いも、待合室で同様のご老人たちといろいろ話をしていたようです。

ただ、晩年になってからの、特に母が亡くなってからの春日井市への引越しは、父から友人や幼馴染を取り上げるきっかけとなり、寂しい思いをさせてしまいました。でも、孫たちにも最後は頻繁に会えましたし、茨城の従姉妹たち、新潟、茨城の妹たちも、春日井市まで父に会いに来てくれていたようで、本当に感謝しています。ありがとうございました。

私の妹たちと妹の夫、エルウィンも、献身的に父の看護をしてくれました。これに関しては、本当に感謝の気持ちしかありません。

さて、現在、私は日本から遠く離れた南アフリカで、会社を経営し、日本語、英語を教え、日本のメディアにアフリカの記事を書き、また、英語日本語の同時通訳として、アフリカ中を飛び回っております。

こういった仕事が可能になったのは、父、母が私を自由に自分のしたいように職業選択をさせてくれたからです。

私たちは丈麿、繁子の三人娘として育ち、「女の子だから何をしてはいけない」などということは一回も聞かずに育てられました。

これはもしかしたら、三人の中の一人でもが男の子であったら、また違っていたのかもしれないのですが、とにかくオンナであるがゆえに何ができなかった、ということのない、非常に民主的な両親でした。

私はそのおかげで、1977年には米国に留学に出してもらいました。その頃、1ドルが288円だったことを考えると、本当に進歩的な両親でした。あの頃、会社経営も軌道に乗っており、私たちは何不自由のない裕福な暮らしをさせてもらいました。

私は米国で、大学、大学院と進み、また、日本のJICAという組織で知り合った夫とともに、アフリカで企業することとなり、現在に至っているのです。

私の、先入観なく、目の前のいろいろなことを取り入れ、自分が活躍する場は常識には縛られない、という生き方は、父と母の人生をお手本としています。

さて、私と父は実は、「本好き」ということでつながっています。父に神田の古本屋に連れて行ってもらい、何冊でも買ってよかったこととか、いまのBok Offでも、冊数に制限なく、本を買ってもらったことは今でも大切な思い出です。

ところが、娘に自由に人生を生きさせる、というのは、その娘からの批判的な評価も引き起こしてしまうものです。

実は私も、父のしていることに反対することもたくさんありました。

晩年は、気難しくもなり、素直になかなか美味しいものを美味しい、と言わなかったり、また、一旦決めた約束事をたいした理由もなく反故にしたり・・・。

その度に、周りとしては、腹も立てるわけです。

理不尽なじいさんを目の前に、こちらが怒っても、何も解決には至らないし、それが分かっているのに、頑固さを引っ込めない・・・。

特に、自分がつむじ曲がりであることを自慢するような傾向もあったので、最晩年の世話をしていた智子などはかなり大変だったと思います。

ただ、私には、一つの宝石のような思い出がありました。

それは、母方の祖母が私に伝えてくれたエピソードです。

祖母が生前、きっと高校生の私が父のことで何か不満を言っていたのでしょう。すると、祖母は、こんなことを教えてくれたのです。

「みいちゃん、あんたのお父さんとお母さんはね、なかなか赤ちゃんが授からなかったんだよ。だから、みいちゃんが生まれたときに、あんたのお父さんはね、もう近所にみんな聞こえてしまうくらいの大きな声でおいおい泣いたんだよ。あんたの誕生が嬉しくて、嬉しくて」

私はこれを聞いたとき、激しく感動し、これは一生忘れないでおこう、と心に命じました。これを知っていたからこそ、ちょっとじいちゃんに文句があっても、まあ、仕方がないかな、と思えたのです。

残念なのは、父にこのことを直接確かめたことがないまま父を送ってしまったことです。でも、私にとって、この話はいつでも私の胸に留まることでしょう。

じいちゃんがどんなに無理難題を言っても、横暴な態度をしたとしても、私は、このエピソードで「まあ、いいか!」と気持ちを立て直すことができたのです。

最後に、父がこの私の長男が生まれたときに私に言った言葉をご紹介します。

「峰子、ありがとう、ありがとう。もうオンナはあきあきだったんだ、オトコの子を産んでくれてありがとう」

いま、思うと、父も私がオトコであったら、また違う人生を最晩年送っていたのかもしれないな、と思います。

でも、父の人生は、戦後の混乱、高度成長期のエネルギー、そして平成になってからの停滞期など、日本の過去80年を存分に生きた人生だったと思います。

おじいちゃん、今頃は、天国でおばあちゃんと稔さんと一緒に、やれやれ、やっとこっちに来たよ、とか言って、ビールでも飲んでいるのかもしれないね。これからは医者にも通うわなくてもいいので、そっちでゆっくり遊んでください。

皆様、父のためにこうして集まっていただきありがとうございました。心から御礼申し上げます。

吉村峰子
2013年8月29日 南アフリカ、ダーバンにて。

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ノブシュレ・ダドゥラという女性

【2013.08.21 Wednesday 21:02

目の前に子犬がいて、そして悲しそうな目をしていたら、あなたはどうしますか。
目の前に子猫がいて、そしてあなたを見上げたら、あなたはどうしますか。
目の前に子どもがいて、あなたの手の届くようなところで転んだら、あなたはどうしますか。
目の前に鉢があって、とっても乾いた土から何かの芽がでていたら、あなたはどうしますか。
目の前に寂しさにふるえている友達がいたら、あなたはどうしますか。
目の前に自分の愛する人がいて、その人が泣いていたら、あなたはどうしますか。
目の前にお腹のすいている人がいて、そしてあなたが食べ物を持っていたら、どうしますか。

ノブシュレにとって、彼女の目の前にいた、精神疾病のあるホームレスの人たちは、誰に助けを求めたらいいかもわからない人たちで、彼女は“何か”をせずにはいられなかったのだそうです。

ノブシュレ・ダドゥラは、ハマースデールというダーバンから40キロほど離れた小さな村の出身です。彼女は独身で37歳。結婚したこともなければ、自分の子どももいません。これは、この地域では珍しいことなのです。

彼女は今、7名のスタッフと共に、ハマースデールの丘の上にある、町から無料で貸してもらっている古い建物で、71名のホームレスの精神疾患のある患者さんたちの面倒をみています。

毎日の生活は毎日同じように続きます。
朝起きて、まずは患者さんたちの様子を見回ります。
粗相をしている人がいれば、シーツを取替え着替えをさせます。
朝ごはんは二切れの食パンと、甘い紅茶。
昼間はスタッフたちと一緒に掃除、そして洗濯の大仕事。

そんな仕事をしているうちにすぐに昼ごはんになります。昼ごはんはメインの食事なので、毎日何らかのたんぱく質が患者さんたちに提供できるように努力しているそうです。

私が何回か訪問したときのお昼はでも、お肉らしきものは何も入っていませんでした。でも、お昼はお米の上になんらかのソースがかかっているご馳走です。

ノブシュレの仕事は、こういった毎日繰り返される暮らしをお金の心配をしながらこなしているのです。

どうやら、食料の大半はダーバン近辺のスーパーマーケットが、期限切れに近いものやへっこんだ缶詰などを寄付してくれたり、教会関係の寄付であったりするようです。しかし、71名の患者さんを面倒みる、ということは毎日の洗濯に必要な洗剤も必要でしょう、建物は無償で借りているとはいえ、電気代、水道代だってかかります。

また、南アでは、貧しい層であると、医療費は無料で受けられる制度があるのですが、その病院に連れていくためには、車を走らせるガソリン代だってかかります。

私は何回目かの訪問の際、彼女に聞きました。いったい、いくらくらいのお金が一ヶ月かかるのか、心配だったからです。

彼女の答えに仰天しました。

「……、えっと、コックさんに3万円、他のスタッフは全部で他に7万円、ガソリン代は10万円、食料に10万円、くらいかな……」

つまり、きちんとした会計処理をしていないのです。

ため息がでました。

彼女は気がついたら、こういうことになっていた、と言っているように、計画性があって、スポンサーがいて、この施設を運営しているわけではないのです。

彼女に、政府とか他の援助団体に援助を求めたことはないのか、と聞くと、

「私は何の資格もないのです。医療関係者でも、ソーシャルワーカーでもないの、それに、ここのいる患者さんたちは、子どもじゃないから、孤児院でもないし、医療機関じゃないからお医者さんもいないし……」

という答えです。

ところが、政府系の精神病院は、患者がホームレスだと分かると、なんと彼女のこのセンターに患者を送り込んでくるのです。

ノブシュレが寄付をどうにかつなげて生存しているこを十分承知の上で。

彼女のこのセンターの収入は、南アの政府が保証する、精神障害のある人への福祉のお金、しかも、一人月額たった1万2千円です。しかも、71名の患者さんのうち、この資格を持つ人はたったの20名ほどだそうです。ということは、彼女は現金収入としては、20万円くらいしか見込めないのです。

だからと言って、彼女はこの施設を放り投げることはできなのです。

なぜなら、彼女は、精神を患って、家族にさえも見捨てられたこの患者さんたちにとって、彼女だけが彼らのために食事を用意し、ベッドを提供し、洋服を着せてくれる人間だ、ということを誰よりも知っているからです。

これを聞いて、それでは私は何ができるのだろう、と思ってくださいますか。

私はこれから、ノブシュレをいろいろな形で支えていこうと考えています。時折いただく日本からの寄付も当面は彼女のセンターのために使わせていただきます。

皆さん、何か提案がありましたら、ぜひ、メールでも何でも、ご意見をお聞かせください。
精神病を病む患者さんたちが寒さに震えているのを見て、せめて、いまあるこの施設だけでも、彼らから取りあげられることがないよう、がんばらねば、と思います。

まず、手始めは、ノブシュレにレシートを保存して、毎月のお金の出入りをきちんと記録することからですね。いやぁ、道は険しそうです。


ホームレスの人たちのためのケアセンター
の入り口に立ってもらったノブシュレ


患者さんのベッドルーム

たった一つのテレビの前に患者さんが集まっている。

一回分のお昼のお米ができました。

ノブシュレの事務所。近所のクリニックからもらってきた
患者さんの薬が一人ひとりの名前のついたプラスティック
の容器に入れられている。



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マンデラさんの報道について、南アから思うこと

【2013.07.13 Saturday 00:41
 マンデラさんの容態が悪いというニュースがメディアに流れ始めて、もう随分時間が経ちました。

南ア人は人種を問わず、マンデラさんを敬愛しており、毎朝ニュースも、マンデラさんの容態から放送が始まります。

個人情報というものはやっかいなものです。特にその対象となっている人が高齢の場合、その命に限りが見えてきて、その状態を公に流す、ということ事態に賛否が分かれるからでしょう。

南アの大統領府の発表は、かなり前から、

「マンデラ氏は重篤な状態にいるが、安定している」

と同じせりふを繰り返しています。

こういう何の状況も伝えない文言は、人々をかえって不安にさせ不必要な悪い想像さえ促してしまう時もあります。

新聞やソーシャルメディアでもマンデラさんの病状を伝えるニュースであふれていますが、実はマンデラさん一家の争いのことも大きなニュースになって流れてきています。

先日、南アの裁判所の一つは、マンデラさんの孫の一人に、ある判決を言い渡しました。それは、彼が勝手に掘り起こした、マンデラさんの子どもたちのお骨を元の場所に戻せ、というものでした。

これで、もう明らかに、マンデラさんが亡くなった後、どこにそのお墓を設けるか、でその後のビジネスの行方を心配している複数の人間が家族の中にいることが明らかになってしまいした。

マンデラさんは、かねてから、自分の3人の子どもたちが眠るクヌに埋葬して欲しい、と言っているのです。

この判決を受け取ったマンデラさんに近い家族には、マンデラさんの現在の夫人、グラサ・マシェルさんも含まれています。

このマンデラさんの現在の夫人、グラサ・マシェルさんは、マンデラさんにとってその存在が、どれだけ意味があるかを多くの人が知っています。そして、時折目にする、この二人の幸せそうな写真にどれだけ私たちが癒されているか、はとても言葉では言い尽くせないほどなのです。

その彼女がマンデラさんの意向を裏切るようなことはするわけがなく、孫であるマンダラ氏は、いま、世間の非難を受けています。

ただ、ここで一言、現地に生活する人間として、マンデラさんを敬愛する人間として一つ書いておきたいのは、日本の新聞などがいかにも見てきたように、この騒動に対してのコメントを、「骨肉の争い、南ア人は幻滅」と書いていますが、それはちょっと違うのです。

もちろん、こんな争い事はやめて欲しい、とは皆が思っています。でも、その感情は、マンデラさんの経歴に傷をつけるから、というものではなく、マンデラさんの最後の時間を静かに見守りたい、という思いからなのです。

この裁判のことを南ア人のある老婦人と話していたら、彼女がこんなことを言いました。

「だって、彼は自分の子どもたちに父親として接してあげられなかったのよ、だって、彼は南アの私たち全員のために戦ってくれていたんだもの。子どもたちがちょっとハズレて育ったとしても、仕方がないじゃない」

私はこの言葉を聞いて、心の底から、納得してしまいました。投獄されていた27年間だけではなく、その前だって、マンデラさんは南アの黒人のため、人種差別撤廃のため、その全人生を賭けて全力疾走してくれていたのです。自分の家族をゆっくり見守り育てる時間的な余裕などほとんどなかったのは想像に難くありません。大統領になってからは、黒人だけのためでなく、全南ア人の父として、この国の礎を作るために奔走したのです。

外国から来た報道陣が自分たちの国に向かってどんな内容のニュースを届けるかは自由ですが、表面的な常套句でのこの事件の解析はいかにも軽薄で事実を伝えるものではありません。

それから、グラサ・マシェルさんがメディアに語ったマンデラさんの病状を紹介しましょう。マンデラさんの生命維持装置がなぜ、外されていないかがよく分かります。

「私が話しかけると、反応するんですよ。話せはしないけれど、反応するんです」

たとえ、話すことができなくなっていたとしても、グラサ・マシェルさんや家族の話しかけに、何らかの形でマンデラさんが反応していたとしたら、生命維持装置を外せないのは当然のことです。

また、娘さんの一人がこうもおっしゃています。

「私たち、テンブ人の文化では、本人が子どもや家族に『自分を逝かせてほしい』と言うまでは、逝かせることはしない、まだ最期は来ていない。最期を知っているのは神だけだ」

誰にでも終わりの日はやってくるのですよね。でも、それが静かで安らかな時間であるよう願ってやみません。

7月18日はマンデラさんの95歳の誕生日です。



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私の踏ん張り時、許せないことは許さないのだ!

【2013.04.26 Friday 13:34
 「私はジンバブウェ出身。だから、人間の人種はそれぞれ違うんだから、こと恋愛や結婚は同じ人種でくっついていたほうがいいと思っている」

と、こう私に言い放ったのは、ジンバブウェ出身の白人のパーソナルトレーナー、キャシーです。

この発言の前には、こんな前置きがありました。

「ねえ、昨日ね、スーパーで、クリスタルを見たのよ。まったくあきれたわ、彼女、あんなに若くてきれいなんだから、もっとましな相手を選べばいいのに」

これを聞いた私は、彼女の発言の“とげ”を不快に思いながらも、こう聞き返しました。

「もっとましな相手って?スーパーで見ただけでどうしてそんなことを言えるの?」

彼女は私のこの問いにこう答えたのです。

「……信じられないかもしれないけれど、あのね、クリスタルの相手って、白人じゃないのよ、カラードなのよ」

この後に冒頭の彼女の“言い訳”が続くのです。

ちなみに、南アで言うとこのの“カラード”とは、混血の人、という意味あいもあるのですが、現在の南アでは、カラードという一つのユニークな人種を形成しています。元々は、アフリカ系住民とマレー系や白人などが婚姻により混じった人たちのことを指していて、アパルトヘイト時代にはもちろん差別されていました。

この発言を聞いた直後の私……。

“瞬間湯沸し器”という異名をとる人も世の中にはいると思うのですが、私は長年のアフリカ暮らしで、理不尽なことをあまりにもたくさんこの目で見ていて、ショッキングなことを見ても聞いても、即、机をひっくり返して自分の意見をまくし立てる、という行動を取らなくなってきています。

年の功、と呼んでいただいてもいいかもしれませんが。

このときも、不愉快な気持ちをぐっと抑え、何事もなかったようにその場をしのぎました。

心の中では、この人とはもう一緒にトレーニングできない、と思いながら。

そもそも、非白人の私に、白人の彼女がこういう発言をすること事態、あまりに無神経です。そして、腹が立つのは、彼女にとって、私は彼女と同じ感覚の側に立つ人間と推定されている、という事実。

私はこれから自分のパートナーを南アで選ぶであろう二人の子どもがいます。それに、自分自身だって、まだまだ分かりませんよ。ふふふ。まあ、それは置いておくとして、とにかく、そういった“人種環境”にいる私に向かって、「同じ人種を選ぶのが正しい選択」という価値観をぶつける、のは、どんなに残酷なことかということが想像できないのです。

私は自分の健康を維持するために、週に3〜4回、このキャシーがパーソナルトレーナーを務めているジムに過去3年ほど通っていたのです。

私のもともとのパーソナルトレーナーは、このキャシーではなく、ガレス、という白人の青年でした。が、去年の11月に彼は麻薬のリハビリセンターに入院することになり、このジムを去っていったのです。

このときも、このコミュニティはかなり狭いので、大騒ぎでした。

私は麻薬のリハビリ、と聞いて、彼がそんなに深く麻薬に頼っていた事実に驚いたものの、リハビリが済んだらまた戻ってくればいい、と単純に考えていました。

ところが、世間とは間違いを犯した人間に厳しいことを実感いたしました。このジムのオーナーの女性も、ガレスがここで勤めていたときは息子のように接していたくせに、手のひらを返したように彼を非難します。

私はこの一連の動きを遠まわしに見ていて、まあ、こういうところで働かないほうが彼にとっていいのかな、と落胆もしていました。

このガレスの婚約者だったのが、冒頭のキャシーの言っていたクリスタルだったのです。
実は私の住んでいるこのダーバンの郊外がいかに狭いかは、このクリスタルは、息子カンジが高校の11年生のときの大きなダンスパーティの相手になってもらった相手だった、という偶然からもご理解いただけると思います。

さて、このキャシーの発言があってから、すぐ12月に入り、私は日本への一時帰国があり、ジムの脱会のお知らせもメールでのやり取りになってしまいました。

残念だったのは、このジムのオーナーからは、脱会のお知らせに対する返事さえもなかったのです。

そして、この私の憤りは、人種差別を意識もせずにしている本人に直接伝えることは時間の無駄、という結論を出しました。

キャシーはもう50歳になるかという年齢の大人です。生まれ故郷のジンバブウェをどうして自分が離れなくてはいけなかったのか、という歴史的な認識にも欠けている人に、彼女の発言がどういう意味を持つかどうかを納得してもらうのは難しいでしょう。

南アには、こういった人種差別を公にレポートできる仕組みも在るのですが、今回、私が取った選択は、自分を彼女とジムから切り離すことでした。

そして、私はこのことを記事に書き、英語にし、地方紙に投稿しようと思っています。

タイトルにしたとおり、これが私の ”踏ん張り時” なのでしょう。私は人種差別に加担しないし、それを実践することを容認しません。

私が南アにいることの理由は、やはり自分の体験したことを、私がどう考え、行動するか、ということを書き、多くの人に知ってもらうこともその一つだと思うからです。

私のこの一連の動きを何人かの友人に伝えたところ、白人系南ア人は、

「そういう人種差別主義者が私たちをもっと悪く見せるのよね」

非白人系は、
「……だって、白人のジンバブウェ人なんでしょう?想像できるよ、最低」
という感想でした。

これをそのままにしておくことはできませんね。彼らの感想の中にさえ、これほどの人種間の距離があるのです。

人種を差別する、ということが、これまでどれだけ世界中で、いろいろな社会を痛めつけてきたでしょう。人種を超えて、その肌の色の違いを超えて、その人の中身でその人を評価することができる社会を目指すのは大人たちの責任です。

一番効果的な方法を探しながら、じっくりと作戦を練ろうと考えています。カンジ、ショウコの声を頼りにしながら……。

「お母さん、行け行け〜!」




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吉村 峰子
writer
English & Japanese
language instructor
interpreter
(Japanese - English)