ある青年の死 【2010.01.08 Friday 14:46】 |
クリスマスの次の日の深夜、もうぐっすり眠っていた。 私の携帯電話が耳元でなった。 時間を見ると、零時に近い。 寝ていても、子どもを持つ親、というものは反射的に何かを察するのかもしれない。その電話が息子・カンジからであるのは、答える前から分かっていたような気がする。 カンジがとっても冷静な声で、ゆっくり話し始めた。 「お母さん、よく聞いてね。あのね、いま、友達が死んだ。警察が、お母さんにここに来てもらえって言っているんだ。来てくれる?」 カンジとその友人、ミッチェルは、二人とも20歳を超えているのだが、まだ少年のようにスケート・ボードをこよなく愛している。 そんな二人が出会ったのは、オリバー。 オリバーはストリート・スケート・ボーディングという、同じスケート・ボードでも人通りの少ない、あるいは人通りがなくなった夜に一般の市街地でするスケート・ボードを好む青年だった。 事故はほんの一瞬。 急な坂のカーブを曲がり切れず、オリバーはバランスを崩し転倒、アスファルトの道路で頭を強打、そして首の骨を折った。 オリバー、ミッチェル、そしてカンジ。 この三人はどこか、共通点があるのだと思う。 カンジがこのオリバーに会ったのはこの夜が初めてだった。ミッチェルは三回目。でも、カンジにとって、このオリバーはあらゆる点で他の地元の青年とは違っていたという。 「オリバーはね、最初から僕の名前を正確に発音したんだよ」 「オリバーはね、ぼくの話に興味を持って、聞いてくれたんだよ」 これが、20歳になるカンジの感想。 幼いだろうか。こんな些細なことが、印象に残るほど、“日本人”として南アフリカの現実を生きる、ことは厳しい。 長くアフリカで暮らし、アフリカの善き所、厳しい所、すべてを冷静に見ているはずの大人の私でさえ、例えば自分の名前をきちんと呼んでもらうこと、「日本出身だから」ではなく、私の中身を理解してもらうことは嬉しい。 カンジは、南アの社会で、非白人であることで、かなりの差別、悔しい思いを経験してきている。この国はまだまだ“白人”であることが、ある一種の“パスポート”であることを否定できない。 でも、そんな中、オリバーのように、ミッチェルのように、肌の色ではなく、最初から私たちの中身で私たちのことを理解しよう、としてくれる人もいるのだ。 これがどんなに珍しいことであるか、は残念ながら、南アの社会で実際に根を下ろそうとしていない限り理解できないと思う。 でも、それは私たちが自分で選んだこと。 また、そういった差別を体験するほど、私たちのこの社会への関わりあいが深い、とも考えられる。だって、「お客さん」には、南ア社会は優しいところもあるからだ。たくさんの人が南アに訪れ、よい印象を持って帰ることもある。「親切にしてもらった」と。 そんなところをなぜ選んで住んでいるのか。 それは、この土地には、こういった狭い考えを持った人がいるとともに、それを超える上向きのエネルギーがあり、その大きな「希望」を心から願う多くの人々もいるからだ。 その希望を助ける力になることができる、という実感に何よりもの魅力がある。自分たちのこれまでの経験や能力を使って、自分の周りの変化を促す、というのはなんと生き甲斐のあることか。 夫と私は20代からアフリカに関わり、戦争も、内乱も、難民も、飢餓も、そしてHIV/Aids の現実も自分たちの目で見てきて、日本人の私たちだからできることがある、と思い移住を決意した。子どもたちの教育も、南アフリカの教育を選択した。 子どもたちが受けるであろう、差別にももちろん無知でいたわけではない。 だが、それらすべてを考慮しても、私たちにとってアフリカの生活はすべての土地の誘惑を上回る魅力があるのだ。 カンジも現在、南アの大学の建築学部の学生として、日本、欧米に勉強の幅を広げる機会があったとしても、最終的にはアフリカで、建築家として生きていきたい、と望んでいる。 オリバーの死を通して、宗教の違い、というものにもしたたか考えさせられた。 クリスチャンたちに、自分たちが「仏教徒」である、と答えながら、自分たちのそれがかなり概念的であることも認識している。 仏様を信じて、お経をあげる毎日を送っているわけではないが、カンジが事故現場から帰宅後、真っ先に向かったのは亡き祖母の遺影とお位牌。 お線香をあげながら、カンジが、静かにこうつぶやいた。 「おばあちゃん、おばあちゃんが助けてくれたんだよね。ありがとう」 これが、南アに住む、私たちの宗教。 オリバー・ブレイ、享年21歳。 |
author : y-mineko
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| この人のこと、あの人のこと | comments(0) |
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