父、小林丈麿が永眠いたしました | 空の続きはアフリカ
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父、小林丈麿が永眠いたしました

【2013.08.29 Thursday 16:29
私の父、小林丈麿が永眠いたしました。
以下は告別式に間に合わなかった私の追悼文です。

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皆様、本日は父、小林丈麿の告別式にご参列くださいまして、まことにありがとうございました。

本来ならば、丈麿の長女の私が、この場で皆さんお一人お一人にご挨拶するべきなのですが、日本の家族の事情で、私が帰国できるまで告別式を待つことができず、こうして文書にてご挨拶する無礼をお許しください。

私の長男、吉村寛慈の代読をお聞きくだされば幸いです。

丈麿は、ここ茨城県に生まれ、4年前に亡くなった私たちの母と結婚してからは、人生の大半を東京の西多摩地域で過ごしました。その後、私たちのいる南アフリカにも暮しましたし、最晩年は妹夫婦の世話になり、約4年、愛知県春日井市で生活を送りました。

父の子ども時代や青年時代のことは、ここで私が言及するよりは、ご臨席をいただいている、親戚や友人の皆様にお譲りするとして、私は私にとっての父の思い出を皆さんに聞いて欲しいと思います。

父の人生は、ご臨席の皆さまの多くと同じように、子ども時代は戦争により、決して平和な時代に子ども時代を謳歌した、とは言えないでしょう。

しかし、その時代の暗さが父の性格を暗くしていたか、と言うと、決してそのようなことはありませんでした。

よく言えば大らか、悪く言えば大雑把。80年の人生で、大波、小波を幾たびもかぶりながらも、過ぎたことをいつまでも恨みに思ってくよくよすることはなく、目の前に自分の好きなものがあれば、それはそれでよし、とし、どんな場所でも、適応し、ひょうひょうと生活しておりました。

お酒が好きで、本が好き、テレビも好きで、晩年の仕事のようになっていた病院通いも、待合室で同様のご老人たちといろいろ話をしていたようです。

ただ、晩年になってからの、特に母が亡くなってからの春日井市への引越しは、父から友人や幼馴染を取り上げるきっかけとなり、寂しい思いをさせてしまいました。でも、孫たちにも最後は頻繁に会えましたし、茨城の従姉妹たち、新潟、茨城の妹たちも、春日井市まで父に会いに来てくれていたようで、本当に感謝しています。ありがとうございました。

私の妹たちと妹の夫、エルウィンも、献身的に父の看護をしてくれました。これに関しては、本当に感謝の気持ちしかありません。

さて、現在、私は日本から遠く離れた南アフリカで、会社を経営し、日本語、英語を教え、日本のメディアにアフリカの記事を書き、また、英語日本語の同時通訳として、アフリカ中を飛び回っております。

こういった仕事が可能になったのは、父、母が私を自由に自分のしたいように職業選択をさせてくれたからです。

私たちは丈麿、繁子の三人娘として育ち、「女の子だから何をしてはいけない」などということは一回も聞かずに育てられました。

これはもしかしたら、三人の中の一人でもが男の子であったら、また違っていたのかもしれないのですが、とにかくオンナであるがゆえに何ができなかった、ということのない、非常に民主的な両親でした。

私はそのおかげで、1977年には米国に留学に出してもらいました。その頃、1ドルが288円だったことを考えると、本当に進歩的な両親でした。あの頃、会社経営も軌道に乗っており、私たちは何不自由のない裕福な暮らしをさせてもらいました。

私は米国で、大学、大学院と進み、また、日本のJICAという組織で知り合った夫とともに、アフリカで企業することとなり、現在に至っているのです。

私の、先入観なく、目の前のいろいろなことを取り入れ、自分が活躍する場は常識には縛られない、という生き方は、父と母の人生をお手本としています。

さて、私と父は実は、「本好き」ということでつながっています。父に神田の古本屋に連れて行ってもらい、何冊でも買ってよかったこととか、いまのBok Offでも、冊数に制限なく、本を買ってもらったことは今でも大切な思い出です。

ところが、娘に自由に人生を生きさせる、というのは、その娘からの批判的な評価も引き起こしてしまうものです。

実は私も、父のしていることに反対することもたくさんありました。

晩年は、気難しくもなり、素直になかなか美味しいものを美味しい、と言わなかったり、また、一旦決めた約束事をたいした理由もなく反故にしたり・・・。

その度に、周りとしては、腹も立てるわけです。

理不尽なじいさんを目の前に、こちらが怒っても、何も解決には至らないし、それが分かっているのに、頑固さを引っ込めない・・・。

特に、自分がつむじ曲がりであることを自慢するような傾向もあったので、最晩年の世話をしていた智子などはかなり大変だったと思います。

ただ、私には、一つの宝石のような思い出がありました。

それは、母方の祖母が私に伝えてくれたエピソードです。

祖母が生前、きっと高校生の私が父のことで何か不満を言っていたのでしょう。すると、祖母は、こんなことを教えてくれたのです。

「みいちゃん、あんたのお父さんとお母さんはね、なかなか赤ちゃんが授からなかったんだよ。だから、みいちゃんが生まれたときに、あんたのお父さんはね、もう近所にみんな聞こえてしまうくらいの大きな声でおいおい泣いたんだよ。あんたの誕生が嬉しくて、嬉しくて」

私はこれを聞いたとき、激しく感動し、これは一生忘れないでおこう、と心に命じました。これを知っていたからこそ、ちょっとじいちゃんに文句があっても、まあ、仕方がないかな、と思えたのです。

残念なのは、父にこのことを直接確かめたことがないまま父を送ってしまったことです。でも、私にとって、この話はいつでも私の胸に留まることでしょう。

じいちゃんがどんなに無理難題を言っても、横暴な態度をしたとしても、私は、このエピソードで「まあ、いいか!」と気持ちを立て直すことができたのです。

最後に、父がこの私の長男が生まれたときに私に言った言葉をご紹介します。

「峰子、ありがとう、ありがとう。もうオンナはあきあきだったんだ、オトコの子を産んでくれてありがとう」

いま、思うと、父も私がオトコであったら、また違う人生を最晩年送っていたのかもしれないな、と思います。

でも、父の人生は、戦後の混乱、高度成長期のエネルギー、そして平成になってからの停滞期など、日本の過去80年を存分に生きた人生だったと思います。

おじいちゃん、今頃は、天国でおばあちゃんと稔さんと一緒に、やれやれ、やっとこっちに来たよ、とか言って、ビールでも飲んでいるのかもしれないね。これからは医者にも通うわなくてもいいので、そっちでゆっくり遊んでください。

皆様、父のためにこうして集まっていただきありがとうございました。心から御礼申し上げます。

吉村峰子
2013年8月29日 南アフリカ、ダーバンにて。

author : y-mineko
| この人のこと、あの人のこと | comments(2) |

この記事に関するコメント
吉村峰子さま

大切なご家族を次々見送られ、どんなにつらい思いをなさっていることでしょう。
心からお悔やみ申し上げます。

私は大事な人を見送るたび、「ありがとう。また会おうね」と思うことにしています。いつか必ずみんな、向こうの国へ行くのだから。
どうぞそれまで、のびのび思い切り、楽しく悔いなくお暮しください。
くれぐれもお体をお大切に。
目はもう大丈夫でしょうか?

cafeglobe のころから、吉村さんの記事をずっと、本当に、楽しみにしています。
心を揺さぶられたり、「そのとおり!」と膝を打ったり、すかっとしたり、力づけられたり。
吉村さんとご家族のことを、思っています。

伏見操
| 伏見 操 | 2013/09/03 3:24 AM |
伏見操 さま、

こんな遅くコメントをお返しします。ごめんなさい。
しばらくこの更新をさぼりまくっておりました。
本当にごめんなさい。

心を入れ替えて、もっと更新するようにしますので、またお立ち寄りくださいませ。

コメント、心から嬉しかったです。

吉村峰子
| 伏見操さま←吉村峰子 | 2014/04/23 5:05 PM |
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吉村 峰子
writer
English & Japanese
language instructor
interpreter
(Japanese - English)