チャンスは何回でも! 【2010.02.28 Sunday 17:52】 |
人にあげられるものがあるといい。 いつでも、どこでも、無尽蔵に、笑顔で、それがあるといい。 実は、私は、この年になっても、考えるより行動している方が速いから、これまでどれだけ失敗もしてきただろう。 「ぎゃあ〜〜〜!」と叫んで、寝込みたくなるくらい恥ずかしい失敗もしてきた。 「私、後悔はしないんです」 という生き方は爽やかだなぁ、と思う。 でも、私は、結構、 「うわ〜、またこんなことになってしまった。ああ、あんなお節介をしなければよかったかな」 「ごめん、失言でした……」 「いや、早とちりでしたなぁ」 「ほおお、そういう考え方もあったのね」 「へええ、そういう理由だったのか」 などという反省、後悔の嵐に襲われることがしばしばある。 でもね、いいんだと思う。 そういうこともあるよね、と思って前進することにしている。 根が単純だから、そう思うことで夜よく寝て、明日を迎えることができる。 ある知り合いがいた。 私は彼女と親しいと思っていたし、彼女も私に英語のことなどを頼ってくれて、仲のよい友人だと思っていた。 でも、彼女が我が家に滞在していたとき、私のある一言が彼女を怒らせてしまった。 私はただただ単純に、ある果物を買う時に、彼女が高い単価のものを選んでしまったので、 「ああ、こっちの方を買えばよかったね」と言ったのだ。同じ品質で、パッケージだけが違うものだったから。 で、ケチな私は、レジで精算をする時も、もう一回同じことを言ったのだ。 それが彼女を怒らせた。 彼女にしてみれば、「南アの事情に詳しくないんだから、分からない。二回も人の失敗を口にすることはない」ということなんだと思う。 本当にそうだな、と反省した。 でも、私は、“お母さん”だ。 子どもたちにも、無駄なお金の使い方は厳しくいさめてきた。 でも、必要なもの、どうしても欲しいものにはお金を使うことに躊躇はしない。 レストランに行って、人の分までつい、「払わなくっちゃ」と思ってしまうのは、私が三人姉妹の一番上だからなのかもしれない。 それに、学生時代やお金があまりなかった時代、どんなに多くの人が私にご飯をご馳走してくれただろう。家に招いて、食事を食べさせてくれただろう。 海を越えても、時間を超えても、私はあの人たちへのご恩を忘れたことがない。 だから、年の若い人たち、アフリカでバックパックをしている人たちを見かけるたびに、私は彼らを家に連れてきて、“日本食ごかし”のものをふるまってきた。 アフリカの旅は厳しいもの。たまには日本食を食べたくなるもの。だからね、こういうお節介おばさんの出番があるのだ。 だから、友人に対して、二回も余計な口をきいたのは、ひたすら、 「ああ、もったいなかったね」ということだったのだ。 でも、彼女はそれがどうしても許せなかったらしい。 彼女は日本に帰り、それ以来、ぴったり音沙汰を聞くことがなくなってしまった。 さみしいなぁ、と思う。彼女はちょっと特殊な感覚を持つ人で、よくよく彼女を知らない人は彼女のことを理解できないかもしれない。彼女と私が親しい、と知った別の人が、彼女のことを「変わった人なのに……」とつぶやいたことも聞いた。 でも、私は彼女のことが好きだったし、もう一人の友人と同じ時期に過ごした街の話しや昔話を顎が外れるくらい笑いながらするのが大好きだった。 これを書くのに2年もかかってしまった。 2年も私はこのことを心の隅で後悔していたのかもしれない。 私は気が長いし、人との関係を簡単にあきらめたり、清算したりしない。でも、もしかした彼女は私の違うもっと深いところに何か嫌なことがあったのかもしれない。 だからこそ、彼女にぜひ、伝えたいことがあったのだ。 「一回の失敗で見捨てないでよ」 彼女とのことをずっと二年間も長く考えてきて、私は一昨日、結論に達したのだ。 「ねえ、一回や二回の人の失敗で、その人を判断するのは残念じゃない?」 ということ。 私はこれを自分の教訓ともしたい。 私も、「う〜ん」と唸るような場面に出会う時だってある。でも、その時、その背景は何なのか、と考える。 そうすると、大体の場合は、その人のその人側の理由があるのだ。そして、ここからが難しいのだけれど、それがその人の勘違いのときだってある。 だから、私は、「チャンスは何回でも!」と思う。 どんなに、がっかりしても、「残念!」と思ったとしても、その人が、「もう一回いいですか?」と言ってくれたら、「もちろん!」という態度で応えたいと思う。 これが私の、誰にでも、いつでも、あげられるもの。 |
author : y-mineko
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| この人のこと、あの人のこと | comments(12) |
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