2010年は、私にとって、このタイトル通り、「先のことはわからないから」ということを教えてくれた一年だった。
まず、今年の3月に、さっさと天国へ行ってしまったのは、夫、稔。享年53歳。
健康オタクで、毎日の運動を欠かさず、何事も全力投球、それでいておっちょこちょいで失敗が多く、どれだけ私に叱られたか……。
彼の口癖は、
「あなたは幸せなツマだよなぁ。痴ほう症になっても、車イスに乗るようになっても、健康なオレが介護してあげるんだから。まあ、安心して年をとって、ボケてくれ」
だったのに、趣味のロッククライミングから帰る途中、雨に足を滑らせて、崖から落ちて死んでしまった。
亡くなった当初、あまりの衝撃に、普段と違う行動を取ることさえできなくて、仕事も生活も稔がいたときと同じようにしてしまった私と子どもたち。
たくさんの人がお悔やみをくれて、慰めてくれて、励ましてくれた。
でも、そのどれもが心の底までは届かなかった。だって、稔が死ぬなんて言うことはあり得ることではなかったから。
そして、しばらくして私を苦しめたのは、多く人から寄せられる私たち夫婦へのあまりにも過ぎた“褒め言葉”だった。
「日本がアフリカに送り込んだ最強の夫婦」
「お互いを支えあう最高のパートナー」
「あなたがいたから稔さんは幸せだった」
少しは本当のことかもしれない。でも、私は稔にとってそんなにいい妻だったんだろうか、と激しく落ち込んだのも事実。
だって、私は彼にもっと、もっと、優しくできたはずなのに、それをしてこなかった。
あんなことをしてあげればよかった、ああ、あれもしていない、これもしなかった、などなど、私は稔に対して申し訳なさでいっぱいになった。
それから、私が稔に対して抱いていた不満もたくさんあったのに、これはもう口にするのも嫌になった。
だって、もう彼は反論できないし、自分の側からの意見を言うこともできない。
反論のできない人に文句を言うのは、私は嫌なのよね……。
だから、もう、どんどんど〜ん、と、どん底に落ち込んでいく自分が見えた。
そんな私を暗い穴から、引っ張りあげてくれたのが、なんと、“ワールドカップ”、いや、“スポーツ”だった。
長い間、アフリカで人々のエンパワーメントに関わってきた私。だからこそ、どんなに私のような外部の人間ががんばっても、人々を励ますのは、実はその人自身、あるいは本当に身近な“内側”の人たちだ、ということを骨身にしみて知っている。
でも、アフリカで成功する、ということは元々の人たちからの“脱皮”であり、“離脱”である、ということでもある。
私のここ数年の課題は、その成功した人たちをどうやって、まだまだエンパワーメントが必要な人たちに関わってもらえるのか、ということを具体化することだった。
そんな時、自分の村出身のサッカー選手に熱狂するカメルーンの、ナイジェリアの、ガーナの、南アの人々の姿がワールドカップの画面に映っていた。
「ああ、こんなにスポーツには威力があるんだ」
ということをこの年になって初めて実感した。
ワールドカップで活躍していた選手たちは、自分の優れた身体能力、体力の限界までの鍛錬などを武器として、プロのサッカー選手となり、自国の名誉やら責任やらを得追いながらも、自分の得意とするサッカーで人々をあそこまで熱狂させていた。
これほどのエンパワーメントを私は知らなかった。
稔が亡くなって、アフリカにとどまることに迷いはなかったけれど、これから先の人生をどう送って行こうか、ということにやや指針を失いつつあった私に、スポーツはまったく新しい方向性を見せてくれたのだった。
そして、ここからが人生の不思議で面白いところ。
このワールドカップが私に新しい出会いをもたらしたのだ。
初の日本人南アプロサッカー選手、村上和範選手。実は、南アに住んで、日本のメディアのコーディネイトのお仕事もさせていただいている関係で、私は彼の日本のテレビ番組の週杖の交渉を引き受けたのだ。
その彼の南アのエージェントが、マイク・フォラ・ドクンム氏だった。
彼は、国籍は今でこそ南アだが、元々はナイジェリア出身の生粋のナイジェリア人。ナイジェリアで育ち、17歳で家族と共に英国へ渡る。その後、英国で大学を出てロンドンで働き始めるが、サッカーコーチの資格を取り、南アにサッカーコーチの職を得る。
さて、“ナイジェリア人”と聞くだけで、人々は眉をひそめる。
“ナイジェリア”、という国名を聞くだけで、想像されるのは、麻薬の売買、マネーロンダリング、マフィア、とにかく、ナイジェリア人ほど世界で差別されている人たちはいないのではないだろうか。
が、マイクはそのどれにも当てはまらない。
これほど、日中夜通して働く人間を私は知らない。
そんな彼が、私の仕事振りを見込んで、「仕事上のパートナーになってほしい」と言ってきたのだ。仕事ぶりと言っても、私はせっせとご飯を作り、彼の居心地のよい環境を整える努力をしていただけなのだが……。
マイクは、私にこの村上選手のダーバンでのお世話係りだけではなくて、彼の会社のダーバン支部を引き受けてくれ、というのだ。
人生、急展開!あれよ、あれよと言う間に、私はいままでの、語学教師、通訳、ライターの仕事のほかに、なんと、スポーツエージェント、という未知の仕事に進出することになったのだ。
彼の会社の
HPはここからどうぞ。
最初、自分でもそんな大役が素人の私に務まるのか、とさすがに5秒くらい躊躇したのだが、マイクは太鼓判を押す。
「あなたはできる。あなたが私の会社を次のステップに引き上げてくれると思う」
ここまで言われてしまうと、私の答えは一つしかない。
ワールドカップの前までは、サッカーの試合を90分通してみたのは、日本が負けた“ドーハの悲劇”の試合くらい、というお粗末さだが、ワールドカップの見せてくれたスポーツの可能性にぞっこんになっている私は、いまだにやや理解に苦しむ“オフサイド”とか、“ペナルティキック”とやらも、ルールブックを片手に勉強中。
というわけで、私は11月から、新たに、“スポーツエージェント”というお仕事もさせていただくことになったのだ。
何て無謀な?と思われるかも。
確かに、通常だったら、もうそろそろオバアチャンになったって不思議ではない年だし、夫を亡くしたのだから、段々と活動の場を縮小して、静かに人生の後片付けモードに入る方が賢明なのだとも思う。
でも、稔があんな死に方をしたからこそ、私はこれからの自分の人生をこれからまで以上にフルに、精一杯生きようと思うのだ。
私の2011年は、これまでの仕事とこの新しい仕事によって、さらに忙しく、楽しく、そして充実した毎日になりそうな予感。
大きな転機を迎えた2010年。私の後半人生もまだまだいろいろありそうで……。
皆さま、どうぞ、私と一緒に新しい可能性にわくわくしてくださいますよう!