仕事のこと | 空の続きはアフリカ
「世界なぜそこに?日本人」に出演します

【2012.12.11 Tuesday 23:10
 皆様、

更新がとっても、とっても遅れています。ごめんなさい。
今週、日本へ向けて出発する前に、何とかひとつ、と思っています。

さて、今日はお知らせです。
以下のテレビ局の番組でテレビに出ます。もしもご自宅にいらっしゃったら、ご覧くださいね。せめて、もう少しほっそりしてから出演したかったのですが…。

取材チームがダーバン入りしてから、ずっと雨が続いています。もっともっときれいなダーバンを撮影していただきたかったのですが、仕方がないですね。

私のもろもろの仕事やNGOでのこと、また、偶然なのですが、夫が生前していた車の輸出の仕事もものすごい偶然で問い合わせがあり、ちょっと下見に行ってきました。

これは、私たちが移住して、最初に夫がしていた、ダーバンに集まる日本の中古車を南部アフリカにいる、米国や欧州の大使館、国連、国際NGOのスタッフにいいものを選んで輸出する、というもの。

何と、2004年の最初のお客さんが、9年ぶりに連絡をくれたのです。稔のメールアドレスにその依頼が来たときは、ちょっと涙がでました。よく連絡先を覚えてくれましたね、という私のメールにこんな返事をいただきました。

「過去35年、米国の外交官として働いてきて、私は信頼できる人間の連絡先を無くすことはないのです。稔が選んでくれた車は、その後ナミビアで3年間、ただの一回も故障することなく走り、私たちがナミビアを去るとき、買ったときと同じ値段で転売できました。どれだけ、僕たちがHappyだったか想像できるでしょう?」

私は車のことはメカニック的に何も分からないけれど、この来年の7月にアフリカに戻ってくるという彼には、私の人脈を総動員してまた車を探そう!と思ったのでした。

皆さん、この番組を見る際は、実際に映る姿から体重を10キロほど差し引いて見てくださいね。

吉村峰子

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「世界なぜそこに?日本人」テレビ東京系列

・同時ネット 2012年12月14日(金)19:54〜20:54
   テレビ東京
   テレビ北海道
   テレビ愛知
   テレビ大阪
   奈良テレビ放送
   岐阜放送
   びわ湖放送
   テレビせとうち
   TVQ九州放送

・以下のテレビ局でも放送の可能性があります
 ただし、放送日未確定
   秋田放送
   富山テレビ放送
   新潟放送
   山陰放送
   福島中央テレビ
   熊本朝日放送
   山口放送
   テレビ長崎
   岩手めんこいテレビ
   宮城テレビ放送
   琉球テレビ放送
   高知放送
   静岡第一テレビ
   テレビユー山形
author : y-mineko
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『行く年、来る年』〜先のことはわからないから〜

【2010.12.30 Thursday 16:05

2010年は、私にとって、このタイトル通り、「先のことはわからないから」ということを教えてくれた一年だった。

まず、今年の3月に、さっさと天国へ行ってしまったのは、夫、稔。享年53歳。

健康オタクで、毎日の運動を欠かさず、何事も全力投球、それでいておっちょこちょいで失敗が多く、どれだけ私に叱られたか……。

彼の口癖は、

「あなたは幸せなツマだよなぁ。痴ほう症になっても、車イスに乗るようになっても、健康なオレが介護してあげるんだから。まあ、安心して年をとって、ボケてくれ」

だったのに、趣味のロッククライミングから帰る途中、雨に足を滑らせて、崖から落ちて死んでしまった。

亡くなった当初、あまりの衝撃に、普段と違う行動を取ることさえできなくて、仕事も生活も稔がいたときと同じようにしてしまった私と子どもたち。

たくさんの人がお悔やみをくれて、慰めてくれて、励ましてくれた。

でも、そのどれもが心の底までは届かなかった。だって、稔が死ぬなんて言うことはあり得ることではなかったから。

そして、しばらくして私を苦しめたのは、多く人から寄せられる私たち夫婦へのあまりにも過ぎた“褒め言葉”だった。

「日本がアフリカに送り込んだ最強の夫婦」
「お互いを支えあう最高のパートナー」
「あなたがいたから稔さんは幸せだった」

少しは本当のことかもしれない。でも、私は稔にとってそんなにいい妻だったんだろうか、と激しく落ち込んだのも事実。

だって、私は彼にもっと、もっと、優しくできたはずなのに、それをしてこなかった。

あんなことをしてあげればよかった、ああ、あれもしていない、これもしなかった、などなど、私は稔に対して申し訳なさでいっぱいになった。

それから、私が稔に対して抱いていた不満もたくさんあったのに、これはもう口にするのも嫌になった。

だって、もう彼は反論できないし、自分の側からの意見を言うこともできない。

反論のできない人に文句を言うのは、私は嫌なのよね……。

だから、もう、どんどんど〜ん、と、どん底に落ち込んでいく自分が見えた。

そんな私を暗い穴から、引っ張りあげてくれたのが、なんと、“ワールドカップ”、いや、“スポーツ”だった。

長い間、アフリカで人々のエンパワーメントに関わってきた私。だからこそ、どんなに私のような外部の人間ががんばっても、人々を励ますのは、実はその人自身、あるいは本当に身近な“内側”の人たちだ、ということを骨身にしみて知っている。

でも、アフリカで成功する、ということは元々の人たちからの“脱皮”であり、“離脱”である、ということでもある。

私のここ数年の課題は、その成功した人たちをどうやって、まだまだエンパワーメントが必要な人たちに関わってもらえるのか、ということを具体化することだった。

そんな時、自分の村出身のサッカー選手に熱狂するカメルーンの、ナイジェリアの、ガーナの、南アの人々の姿がワールドカップの画面に映っていた。

「ああ、こんなにスポーツには威力があるんだ」

ということをこの年になって初めて実感した。

ワールドカップで活躍していた選手たちは、自分の優れた身体能力、体力の限界までの鍛錬などを武器として、プロのサッカー選手となり、自国の名誉やら責任やらを得追いながらも、自分の得意とするサッカーで人々をあそこまで熱狂させていた。

これほどのエンパワーメントを私は知らなかった。

稔が亡くなって、アフリカにとどまることに迷いはなかったけれど、これから先の人生をどう送って行こうか、ということにやや指針を失いつつあった私に、スポーツはまったく新しい方向性を見せてくれたのだった。

そして、ここからが人生の不思議で面白いところ。

このワールドカップが私に新しい出会いをもたらしたのだ。

初の日本人南アプロサッカー選手、村上和範選手。実は、南アに住んで、日本のメディアのコーディネイトのお仕事もさせていただいている関係で、私は彼の日本のテレビ番組の週杖の交渉を引き受けたのだ。

その彼の南アのエージェントが、マイク・フォラ・ドクンム氏だった。



彼は、国籍は今でこそ南アだが、元々はナイジェリア出身の生粋のナイジェリア人。ナイジェリアで育ち、17歳で家族と共に英国へ渡る。その後、英国で大学を出てロンドンで働き始めるが、サッカーコーチの資格を取り、南アにサッカーコーチの職を得る。

さて、“ナイジェリア人”と聞くだけで、人々は眉をひそめる。

“ナイジェリア”、という国名を聞くだけで、想像されるのは、麻薬の売買、マネーロンダリング、マフィア、とにかく、ナイジェリア人ほど世界で差別されている人たちはいないのではないだろうか。

が、マイクはそのどれにも当てはまらない。

これほど、日中夜通して働く人間を私は知らない。

そんな彼が、私の仕事振りを見込んで、「仕事上のパートナーになってほしい」と言ってきたのだ。仕事ぶりと言っても、私はせっせとご飯を作り、彼の居心地のよい環境を整える努力をしていただけなのだが……。

マイクは、私にこの村上選手のダーバンでのお世話係りだけではなくて、彼の会社のダーバン支部を引き受けてくれ、というのだ。

人生、急展開!あれよ、あれよと言う間に、私はいままでの、語学教師、通訳、ライターの仕事のほかに、なんと、スポーツエージェント、という未知の仕事に進出することになったのだ。

彼の会社のHPはここからどうぞ。

最初、自分でもそんな大役が素人の私に務まるのか、とさすがに5秒くらい躊躇したのだが、マイクは太鼓判を押す。

「あなたはできる。あなたが私の会社を次のステップに引き上げてくれると思う」

ここまで言われてしまうと、私の答えは一つしかない。

ワールドカップの前までは、サッカーの試合を90分通してみたのは、日本が負けた“ドーハの悲劇”の試合くらい、というお粗末さだが、ワールドカップの見せてくれたスポーツの可能性にぞっこんになっている私は、いまだにやや理解に苦しむ“オフサイド”とか、“ペナルティキック”とやらも、ルールブックを片手に勉強中。

というわけで、私は11月から、新たに、“スポーツエージェント”というお仕事もさせていただくことになったのだ。

何て無謀な?と思われるかも。

確かに、通常だったら、もうそろそろオバアチャンになったって不思議ではない年だし、夫を亡くしたのだから、段々と活動の場を縮小して、静かに人生の後片付けモードに入る方が賢明なのだとも思う。

でも、稔があんな死に方をしたからこそ、私はこれからの自分の人生をこれからまで以上にフルに、精一杯生きようと思うのだ。

私の2011年は、これまでの仕事とこの新しい仕事によって、さらに忙しく、楽しく、そして充実した毎日になりそうな予感。

大きな転機を迎えた2010年。私の後半人生もまだまだいろいろありそうで……。

皆さま、どうぞ、私と一緒に新しい可能性にわくわくしてくださいますよう!

author : y-mineko
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寿BENTO、がんばってます!

【2010.02.03 Wednesday 13:29
 

昨年亡くなった私の母は正直な人だった。

 

もちろん、長年事業を切り盛りしていたから、お客さん用の笑顔やら、営業のためのちょっとした「嘘」は躊躇なく使っていた。

 

戦争前後の激動の東京を生き抜いた筋金入りの昭和人ゆえ。

 

でも、自分の心に正直な人だった。

そして、その自分の心にある思いのために、骨身を惜しまず働いた。

 

例えば、日本の戦争を子ども時代に体験したことから、子ども時代に本が読めないことや、お腹一杯美味しいものが食べられないことは「駄目なこと」と思い、それを口にし、それが自分の子どもたちに降りかからないよう、懸命に働いた人だった。

 

母の職業観もおもしろかった。

 

40代から父と共に経営していた企業間の宅配便会社の仕事が何よりも好きだった。その前に経営していたクシー会社は、労組関係などでかなり苦労した経験もあったので、よけいにそう思ったのかもしれない。

 

「こんないい商売は他にないような気がする。電話を受けて、運転者さんを手配して、荷物を届けてお金をいただく。分かりやすいよね」

 

そして、私のしていた、本を読み、論文を読み、それについて考え、自分の文章を書き、何もないところから教材を作り出し、先生方に講義したり、授業の指導方法を考えたり、といった「仕事」に関しては、

 

「疲れない?そんなに頭を使って。雲をつかむような仕事だねぇ」

 

と、なんとなく否定的だった。

 

私が著作を何冊か持っていても、自分たちがお金を出して欧米の大学、大学院に送ってくれたくせに、「肩書き」というものはあまり気にもかけないし、私のしていたことは、どうかもすると、「虚像」のようにも受け取っていたのかもしれない。

 

母にとってみれば、例えば、私が民間の教育団体などを主宰するよりも、もっと分かりやすく、小学校や中学校の教員になっていればまたそれはそれで評価が違ったのかもしれない。

 

でも、だからといって、私の仕事の方向転換を求めることはしなかった。

 

母はただただ単純に自分の仕事が好きで、それを“モノサシ”にしていただけのこと。

 

そして、その職業観を支えたのは、

 

「職業に貴賎なし」

 

という考え方だと思う。

 

「どんな仕事だって、みんなに必要だ。自分のできる仕事、目の前にある仕事を一生懸命して、美味しいご飯を食べて夜暖かい布団に寝られたら、こんなにいいことないじゃない!」

 

私たち三人の娘は、母のこういった職業感覚を幼いころから知らず知らずのうちに受け継いでいたのだと思う。

 

いま、南アフリカで、私は日本語、英語を教え、通訳をし、日本のメディアに原稿を書き、たまにはツアーガイドの仕事もし、と多岐に渡る仕事を抱えている。

 

そして、今年から、お弁当屋さんでの調理、接待も始まった。

 

あまり親しくない南ア人には心底びっくりされる。絶句する人もいる。

 

「えっ?あなたがテイクアウェイで調理するの?……どうして?」

 

南アの社会は、学歴やそして“人種”がその職業選択に極めて密着してくるから、私や妹のように、南ア人からすれば、日本人で、米国へ留学経験もある“高学歴”の私たちが、キッチンに立って、お弁当を販売するような仕事は、想像することさえできないらしい。

 

「ふふふ。いいでしょう?おもしろいよ!」

 

と私は答える。

 

私や妹にとって、こういった食べ物商売をすることは純粋に楽しいし、美味しいものを食べてもらって、お客さんに笑顔になってもらうのは、遣り甲斐がある。


確かに、仕込みから調理、接待、後片付けと、普段の生活とはまったく別の筋肉やら体力やらを使っての仕事はまだまだ慣れないことも多い。

 

でも、わが社のホープ、プレシャスに聞いた。

 

「あと何年で、この仕事、一人でできるようになるかな?」

 

プレシャスは「う〜ん」と考え込んだ。

 

そこで私は、

 

「よ〜し!あと2年だよ!あと2年で、お寿司も巻いて、ラーメンも作って、KOTOBUKI BENT の支店をだそう!」

 

と背中をたたいた。

 

彼女が笑顔ながらも、「え〜?たったの2年で?」と言う。

 

でも、きっと彼女なら、大丈夫だ。

 

彼女の後に続く多くの“妹”、“弟”たちのためにも、私もあと2年はお店に立つ覚悟を決めた。




ダーバンの皆様、土曜日は妹と一緒に、そして火曜日はプレシャスと一緒にお店に出ておりますので、お立ち寄りくださいね!

 

 

 

author : y-mineko
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のれん、作成中!

【2010.01.18 Monday 15:48
まず、ミシンをそのカバーから出したのは、「何年ぶり?」という状態。

蓋を開けてみて、ほこりがプウ〜。
やれやれ。

そして愕然とする。
ボビンって、ボビンって、どうやって巻くんだっけ?

いや〜、記憶力が悪くなっているのは、自覚しておりましたよ。
でも、言うじゃないですか。
例えば自転車や自動車の運転は、一度マスターしたら、生涯忘れないって。

あっちを触り、こっちを眺めても、下糸をどうやって、このボビンに巻くかをさっぱり分からない。

国際引っ越しを何回も繰り返すうちに、ミシンのマニュアルなぞ、どこへ行ったのやら?状態。インターネットでちょっと調べても、20年近く前に購入したミシンのマニュアルなどまったく見つからない。

困った。

でも、こういう時は一晩よく寝たら思い出すかもしれない、と一人でさっさとあきらめて、初日はすごすご退散することに。

次の日、同じミシンの前に座り、話しかけた。

「あのですね。そうなんです、長〜くあなた様を邪険にしておりました。アフリカまで一緒に来ていただいているというのに。でもね、この頃、近眼、老眼、乱視の上に、テレビに頭から突っ込んでから、焦点が合わない日もまだあるんです。だからね、あなたを嫌っているわけではないのですが、ご無沙汰しました。で、……ボビンって、どうやって、巻くんでしたっけ」

すると、「あ〜ら不思議」、と天啓が閃いたらめっけものなのですが、そうはならないのが現実というもの。

でも、しばらく、ミシンの前に座って天啓が下りるのを待った。

私は忙しいくせに、結構、こういうときは、呆然とする時間が長いかもしれない。ぼ〜っと考えているようで、何も考えていないのかもしれない。そんなこんなしているうち、まあ、お茶でも飲もうと立ちあがった瞬間、今まで見ていた視線と別の視線が生まれたのだ。

じゃじゃじゃじゃ〜ん!

私の視線の先には、ボビンちゃんをカチ!と入れる時の音まで耳に聞こえるように、ボビンを装着するミシンの一部が見えてきた。

そうすると不思議なもの。

何かに導かれるように、糸をしゅるしゅるり、と所定の場所に通して、めでたくボビンに下糸を絡めさせることができた。

さて、上糸も、下糸も準備完了!

さあ、いよいよ縫い始めましょう。



私が縫っていたのは、なんと!

「のれん」



これは、私の妹、えり子がダーバンで今年から始めた軽食、お弁当のお店にかけるのれんだったのだ。このお店の背景は、カフェグローブの記事からどうぞ。

妹がダーバンに来て3年が過ぎ、やっと彼女も自分のこれまでとこれからがつながったような気がする。

日本にいる時の彼女は、両親の経営していた運送業の役員として、二人の子どもをシングルマザーとして育てながら、毎日時間に追われる仕事をしていた。

でも、アフリカ系米国人の元夫からは何の金銭的支援も精神的支援もなく、子どもたちを一人で育てていくことに大きな不安もあったのだ。

私たちがマラウィから帰国し、南アに移住する、と決めたとき、甥のアジーノが、その大きな眼を見開いて、

「また行っちゃうの?」

と言った。

これが私には堪えた。

アジーノは、息子のカンジをとっても慕っていて、カンジと今度は帰国予定がないお別れをしなくてはいけないことに打ちのめされたのだ。

この頃、南アへ行くことに、もしひとつの後悔があったとしたら、私にとっては、カンジの帰国を楽しみにしていたアジーノを裏切ったことだった。

しかし、3年半ほど前、いろいろな偶然やらチャンスが重なり、妹一家もダーバンに来ることになったのだ。

そして迎えた『寿BENTO』の開店。

えり子は日本にいた時、両親の事業に参加するOL時代は、バブル時期だったこともあり、美味しいものの食べ歩きをかなり熱心にしていた過去を持つ。

また、私たちの両親が食を楽しむ人たちだったので、私たちは昭和30年代の子ども時代に、やれステーキだ、やれラザニアだ、やれポタージュだ、と様々な洋食の味を幼いころから味あわせてもらってきたのだ。

その彼女がいま、日本の家庭の味やら、秘密のレシピのラーメンなどを、日本人、台湾人、中国人のお客さんたちに提供している。

食べ物商売の醍醐味とは、一杯のラーメンやひとつの定食を食べた人が、「ああ、美味しかった」と笑顔になること。

人に喜んでもらえる、ということは本当に励みになる。自分の仕事でそれが実現できるのは、また格別に嬉しいことだ。

彼女が言う。

「もう事務職には戻れません!」
う〜ん、そうかもね。

さあ、ダーバンで日本の家庭の味、どこまで展開できるだろう。
新しい目標に向かって努力するのは、楽しいなぁ。




お店の情報:
ダーバンノースにある、中華食材店さん SUN SUN Chinese Supermarket 電話 031 564 4548(63 Umhlanga Rocks Road)ことぶきBENTO

author : y-mineko
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吉村 峰子
writer
English & Japanese
language instructor
interpreter
(Japanese - English)