この人のこと、あの人のこと | 空の続きはアフリカ
人々が作る建築家いらずの家

【2018.05.16 Wednesday 22:06


「建築家になっても、僕はお金もちだけの家なんか作りたくない」


と、散々、言い続けた息子・カンジが、ようやく地元の大学の建築学部の修士課程を修了しました。

 

南アフリカの大学の建築学部は、日本のそれとはちょっと趣が違うのかもしれません。こちらの資格は、どちらかと言うと、建築デザインの分野になるのでしょう。

 

“ようやく”というのは、ここまでの道のりが長かったのです。

 

まず、最初の学士まで4年、その後日本でのインターンが2年、南アに帰国して、一年間地元の建築事務所で勤め、古巣の大学に戻って、修士までさらに3年。合計年数は計算したくない気持ちです。南アで“建築士”の国家試験を受ける資格は、さらにこれから2年を南アフリカの建築家の元で働く必要があります。でも、修士を終了したことでできることもたくさん出てきました。

 

さて、お金持ちの家は作りたくないカンジは、建築家として、何を目指すのでしょう。

 

私は彼からその修士の論文やそのプロジェクトを最初に聞かされた時、大げさではなく、“命のつながり”を感じました。

 

彼のテーマは、Bamboo、竹です。竹は、再生可能なエネルギーとして今世界から注目を浴びている植物です。

 

 

実は、アフリカで“竹”というと、在来種の植物ではない、地下からの水分を汲み上げる、などという否定的なイメージが先行してあまり人気のある植物ではありません。でも、実際の竹は、地面に根を浅く広く張るため、地下水資源を枯らす危険性がありません。現在南アフリカは水不足が多くの場所で起こっており、外来植物にはとても敏感で、その評価があまり正確でない場合があるのが残念です。


竹は、現在、全世界で1400種が確認されています、これらは小さな茂みから20メートル級の巨大なものまで含みます。竹の最大の特性は芽が出て5年目から毎年収穫できる事です。南アで存在する巨大竹は建築資材としてはかなり優秀な可能性を秘めているそうです。


カンジの修士論文の課題は、アフリカの都市部ではない地域に住む人々のために、竹をどう建材として使うか、またそれを生かした全体的な仕組みをどう構築するかというものでした。

 

具体的には、人間が住まう過程で出てくる生活排水を竹に吸収させ、その竹を保存加工できる施設を既存の住宅に取り付ける、という仕組みだったり、その竹を使い建造物を毎年拡大する、という可能性が挙げられていました。

 

日本にルーツを持つカンジには、アフリカでそのまま育った人たちよりも、“竹”が身近な存在であったことは確かです。日本における竹の歴史的な影響もあるでしょう。彼の論文には、それこそ竹の活用方法を千利休まで遡り説明していました。

 

日本人二人を両親として、西アフリカ・リベリアで生まれ、彼はほとんどの教育をアフリカ諸国で受けました。日本の文化を自分の人生に積極的に取り入て行こう、という姿勢はいつの頃から顕著になったかと言うと、やはり21歳で父親を不慮の事故で亡くしてからかもしれません。

 

私は夫と一緒に、アフリカでたくさんの人々に会い、たくさんの経験をして、自分たち夫婦がこれからのアフリカの発展に少しでも寄与するのであれば、自分たちが事業主となり、一つでも二つでも雇用を増やすことだ、という考えを持って南アフリカに移住しました。

 

夫は2010年に、志途中で急逝したのですが、幸いにも私には語学教育や通訳という、日本人が少ないからこそ活躍できる仕事があったため、事業はそのまま続行させることができています。

 

さて、カンジが竹で何をしたいのか。

 

彼は、協力してくれるコミュニティを探して、その土地で竹を栽培し、収穫し、加工し、建築資材として市場に送り出し、それらを住民自分たちがサンプルを目で見ながら建築できるような一連の流れを創造したいようです。

 

荒れた荒野を緑地化し、皆の頭上に屋根を設ける、というのが彼の夢です。

 

そして、彼はそれを“Living School”と呼び、まだまだ住宅事情が需要に追いついていない内陸の村落や、都市にばらばらと出来ている違法な家屋群に何とかこの‶竹”の一連の利用方法を普及させようといろいろな方面から模索している最中です。
彼が説明してくれた中で、非常に心に響くものがありました。

 

「僕は誰もが簡単に作れる建築を目指しているんだ。竹を使うと、構造体とデテールがわかりやすく、最終的に出来上がった“家”は、誰がどう見ても、簡単で優しくて、みんなが“これだったら自分たちでも作れるな”と思ってくれるモノにするのが目的なんだ」
つまり、「みんなが真似て作れる建築家いらずの家」を作りたいのだそうです。

 

「お金のない人たちはそれぞれの生活で手一杯なので、地球温暖化や汚染問題など配慮するのが難しい。そこで、竹のシステムを生活に導入することにより汚染された水は資源に変わり、今まで移動しなければならなかった建材が家裏で採取できるようになる。もし他者が自分も竹を育てて家を建てたいという状況が生まれると、このシステムは勝手に幅広い地域を歩き渡り緑地化しながら皆の屋根を作っていく」

 

アフリカ郊外では、お金が一遍には用意できないために、屋根を作り、この部屋をひとつ作って、キッチンはその後で、というようにかなり最初の設計図なしでがんがん家を建てているケースがあります。

 

それに、途中で放棄されている建築物がアフリカの田舎では見かけることも多いのです。これは建築途中で施工主が何らかの形でお金が尽きたか、寿命が尽きたか、で最終的な“家”までたどり着かなかった可哀想なケースです。再生可能な竹がすっぽりと建造ループに入っていくのを創造していただければ、こういった中途半端な夢半ばで放置される建造物だって、少なくなるはずです。
「それに、竹を植えて、収穫して、加工すれば、材料だってお金がかからない。竹を使った工芸品や家具などの製造販売もできるしね」

 

まだまだ彼の始めたプロジェクトが、きっちりと運営できるような資金計画なども緒に就いたばかりです。が、ありがたいことに、同じ大学で建築を学び、建築士の資格のあるビジネスパートナーとよちよち歩きながらも建築事務所を発足することもできました。
将来は、政府が認める公けな建築材料として“竹”を登録することも必要となってくるでしょう。

 

修士号の授与式に先駆けて大学が設けてくれたお祝いの席で、修士課程の教授が、彼のプロジェクトを評してこんな言葉を私にかけてくれました。

 

「彼の論文を読んで私は泣きました。彼がしようとしていることは、“優しい”んです。優れた建築家の論文はこれまでにもたくさん読んできたけれど、彼のしようとしていることは、人間に対する優しさに溢れています」

 

幼い頃から、カンジは感受性が人とは違い、また言語表現があまり得意ではなかったことから、多くの場で誤解も受けてきたし、人に迷惑をかけたこともたくさんありました。


が、彼が“建築”という職業に出会い、いろいろ試練にもつぶされそうになりながら、そして、人より多くの時間がかかったとはいえ、ここまでたどり着いたのは、一重に自分の未来をあきらめなかった彼の努力の賜物です。


自分の子どもが自分を乗り越えて、さらに進化していく過程を見ることができるというのは、親にとってこれ以上の喜びはありません。まだまだ失敗も、挫折もあることでしょう。でも、その志が自分以外の外に向かっている限り、彼はきっと笑いながらその関門を乗り越えていくはずです。


夫も空のどこかで、カンジがつなごうとしている彼の思いを受け止めて、満面の笑顔になっているかな、と想像しています。

 

 

author : y-mineko
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キャシー、そのガンとの闘い方

【2017.06.10 Saturday 22:09

 

「私の人生、本当に、本当に素敵だったのよ。その最後をガンとの闘いで終わらせたくないの」

 

こう言ってほほ笑むキャシーと私のお付き合いは、いまから10年以上前、彼女が私にくれた一本の電話から始まりました。

 

「あなたのことが書かれている新聞の記事を読みました。今度日本に旅行に行く前に、ぜひ日本のお話を聞かせてくれませんか」

 

私が南アフリカに移住する直前に鈴木出版さんから出版させていただいた、『チャレンジ!地球村の英語』の売り上げの一部を地元の小学校に外遊びの器具を寄付したことが地元の新聞に掲載されて、そこから彼女が私にたどり着いたのです。

 

こんな出会いの後、キャシーは文字どおり私たち家族にとって、ダーバンでの大切な家族の一員になってくれました。

 

家族の行事に参加することはもちろん、去年は1200キロもダーバンから離れたグラムスタウンへのロード旅行にも一緒に行きました。娘のショウコが婚約者アディアを連れて来た時、じっと彼の話を聞き、「私たちってなんて幸運なの、こんな素敵な青年が私たちの家族になってくれるなんて」とまで言ってくれるような存在になっていたのです。

 

そのキャシーが、先月、卵巣がん、しかもステージ4の診断を受けました。

 

動揺する私たちに、キャシーは明るく、穏やかにそして笑顔を浮かべて冒頭のようにつぶやいたのです。

 

キャシーは、1938年英国のボルトンという工業の街で生まれました。その頃の若い男女が出会う場であった、ダンスホールで知り合ったアランと19歳で結婚しました。

 

彼女の人生の最大の悲しみは、そのアランとの間に生まれた二人の子どもを、それぞれ6週間と14週間で亡くしたことでした。


二人の赤ちゃんとも、皮膚の再生に関係する同じ病気で亡くなりました。が、その後離婚したアランは、再婚した相手との間に一人子どもを授かっているので、どうやらアランとキャシーの何からの遺伝的要因がかみ合わなかったらしいのです。

 

1965年、彼女はアランと英国から東アフリカに移り住みました。タンザニアに6年、ケニアに2年。英国人駐在員家族として、素晴らしい数年間を東アフリカで過ごしたそうです。

 

ここでの生活が彼女の世界を広げた、と言っても過言ではないそうで、多くの異文化との遭遇によって、これまで彼女の知っていた世界がどんどん広がって行きまた。

 

東アフリカでの8年間が過ぎ、英国へ戻って2年が過ぎました。アランとも感じていた英国での暮らしの閉そく感が彼らをまたアフリカへ向かわせました。その時に選んだ土地が南アフリカのダーバンだったのです。

 

「人生のハイライトは?」

 

という私の質問に、彼女は何の躊躇もなく、こう言いました。

 

「2回も恋に落ちたことよ」

 

アランとの27年続いた結婚が破たんして、一人暮らしを始めた彼女が出会ったのは、当時ダーバンでギャラリーを経営していたゴードンでした。12歳年上のゴードンは、自分も芸術家であり多くの絵画や彫刻の作品を彼女に残しました。

 

彼女が本当に嬉しそうに話してくれたのは、その当時ゴードンがどれだけ素敵で魅力的で、奥様に先立ていた彼がダーバンの多くの女性の憧れの的だったか、ということ。そして、彼が私を選んでくれたのは、本当に思いがけなかった、と頬を染めました。


そのゴードンも病に倒れ、彼女は献身的に看病に当たりました。3年ほどの闘病生活で彼は亡くなりました。それでも、ゴードンとの20年間の生活は精神的に豊かで愛情に溢れ、外国へも旅行したり、素晴らしいものでした。さらに彼の子どもたち、孫たちは現在、キャシーに取ってかけがいのない家族になっています。

 

ゴードンが亡くなって、彼女がしたことは、若い頃からコツコツとお金を貯めて目標にしていた日本旅行でした。それが私との出会いのきっかけでもあります。

 

その他、近所の孤児院で長年子どもたちの宿題などの面倒をみるボランティアも続けていました。

 

こういう風に彼女の人生を辿ってみると、本当に山あり谷ありの中にも、彼女がいかに毎日を丁寧に自分の信念を持って生きてきたかが見えてきます。

 

「ガンの告知を受けてね、精神的にまったく動揺しなかったの?」

 

と、尋ねた私に、

 

「最初はね、確かにショックを受けたわ。でも、もう来年で私は80歳。もうどれだけいい人生を過ごしてきたか。感謝するだけなのよ」

 

彼女のガンの治療の計画は、手術はしない、放射線治療もしない、ということ。とにかく、彼女のQuality of Life(生活の質)を維持するためだけの治療に専念する、ということで本人、家族、医療チームも合意しています。

 

現在、こちらでChemotherapyと呼ばれる化学療法が始まり、9週間に及ぶ、毎週一回3時間半、点滴を受けています。ここで3回目の点滴が終わりました。

 

体調はまあまあだそうです。とにかく、卵巣から始まって、腹部にかなり転移してしまっているガン細胞を小さくして、彼女の体への負担を減らすことが目的です。

 

南アフリカの医療制度は、日本のそれと大きく異なります。まず、国民健康保険というものが存在しないので、保険は各個人が自分で契約しなくてはいけません。

 

彼女の場合非常に幸運で、彼女が20年勤め、60歳で定年退職を迎えた職場、ダーバンの国立大学、Kwazulu Natal University は、1984年以前から勤務していた職員は、退職した後にその月々の契約金を払うことなく、勤務時と同じ保険内容が得られる、という保証をしてくれているのです。彼女は大学のエンジニアリング学科の秘書をしていました。


お金の心配をしないで、治療が受けられるのは本当に幸運です。また、南アフリカは、それこそ、お金さえあれば、先進国に負けないレベルの治療を受けることが可能なのです。


本当に、一回も感情的にならないなんて、どれほどの精神力なのでしょう。そして、彼女の独立心の旺盛なこと。とにかく、どんなときでもどんなことでも、自分でなんでもしたいのです。


彼女は基本的に一人暮らしです。ですから、いま、食事の世話がやや心配で、こちらの友人一同でなんやかやと世話を焼いていますが、それも彼女にとってはどうも負担に感じているようなのです。


「私は大丈夫だから!」

 

と、何回も何回も言われてしまいます。

 

が、そんなことで引っこむほど、関係は薄くないのです。皆が交代でキャシーの「大丈夫だから」を無視して、お節介を続けています。


そんな彼女がこうも言いました。


「一回だけ感情が溢れてきたのよ。それは、トニー(ゴードンの息子)がね、いま駐在しているシンガポールから電話をかけてきてくれた時。電話だったからかしら、励まされて、おいおい泣いてしまったの。受話器からね、トニーの励ましのパワーがどんどん感じられて、肩がふわっと軽くなって、気がついたらわんわん泣いていたのよ」

 

これを聞いて、心から安心しました。

 

「多分、ああやって泣くことも私には必要だったのかも」

 

と、言う彼女です。

 

正直で、一生懸命で、お茶目で、ポジティブで、賢いキャシ―。人生のお手本がこんなに近くにいることに感謝するのみです。


キャシーと私の約束は、来年のショウコとアディアの結婚式には必ず出席する、ということ。それまで、いや、それ以降も、キャシーが安心して、心穏やかに過ごせるよう、お手伝いするつもりです。

 

 

 

author : y-mineko
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娘•ショウコが婚約しました

【2017.01.01 Sunday 05:30

娘のショウコが婚約しました。

 

お相手は、6歳から南アフリカに住むイスラエルからの移民の青年アディア君です。ショウコより9歳年上の彼は、穏やかで優しく、しっかりしていて、安心して娘を新しいステージに送り出すことを託せる相手です。

 

南アでは、私たちも日本からの移民です。私たちも、差別やいわれのない中傷を受けたこともないわけではありません。が、なんと言っても圧倒的に見かけの違うアジア人の容貌をしているので、その程度はたかが知れています。

 

それに、差別をしてくるのは、私たちを知らない顔の見えない人々です。個人的に私たちを知っていて、差別してくる訳ではないので、そういう志の低いところからの攻撃は無視するか、こちらの度量ではね返せばいいのです。


でもね、それだって、差別はあるのです。

そして、それはどうしたって、どんなレベルでも、嬉しいものでも楽しいものでもありません。

 

 

でも、実際にそれを経験しないと、どんなに共感力のある人でも、その"当事者たち"と同じ土俵に立つのは難しいでしょう。

 

そう言う意味で、南アで生きていくと決めているショウコに、こういった負の感情に一緒に向き合っていけることもできるパートナーとめぐり合えたことは天性の運の良さの表れでしょう。もしかしたら、天国のお父さんやおじいちゃんおばあちゃんの計らいでもあるのかな?


私は人生は冒険だと思っています。そして、常々、考えすぎはよくない、と言っている人間ですので、今回のことも大賛成しました。


さて、実はショウコさん、ここで南アの大学を卒業する予定だったのですが、一昨年から南ア中の大学で吹き荒れている学費をめぐる生徒たちのストライキのおかげで年明けまで最終試験は持ち越しです。でも、それが済んだら2017年は日本に長く滞在して日本語力に磨きをかける計画を立てていました。
 

日本行きはもちろん実行するようですが、彼との関係もはっきりさせてから南アを出発したかったようです。


というわけで、今回、彼女から彼にプロポーズをしたそうですよ。今アメリカのオレゴン州の雪の中にいますから、片膝を雪につけて、"Will you marry me?" 

 

と決めたそうです。


普段からフェミニズム思考の強いショウコです。こういう伝統的な犢垰″? にも普段の心情を反映させて、母は心から嬉しかったです。

 

 

でも、これには落ちもあります。

 

彼から、形式通りに、「お嬢さんと結婚させてもらえますか?」と聞かれた私の最初の一言は、"Are you sure?" (ええ?本当にいいの?)、とつい本音が出てしまったのです。だってねぇ、ショウコの母ですから!


三人で大笑いしました。

 

 

私はこれまで多くの場で、多くの子どもたち、大人に異文化を受け入れることの楽しさを伝えてきた人間です。自分が率先して、その具現者でありたいとも思ってきました。

 

私にとって、母方のルーツはポーランドから、父方のルーツはイスラエルからのユダヤ系家族が自分たちの家族になってくれるということに心の底からの喜びを感じています。

 

いま、米国のオレゴン州におりますが、その米国人の家族も大喜びしてくれて、なかでも、ベバリーおばあちゃんが、「Welcome to the family! とアディア君に言ってくれているのを聞いて、涙腺が緩みました。

 

2016年は仕事面において、なかなか厳しい局面もありました。でも、くじけている場合ではないですね。もうちょっと私の出番はありそうです。

 

肌の色が違っても、信じる神様や習慣が違っても、人間は分かり合えるんだ、という単純で力強いメッセージを自分の生活を通して発信していくことが大切、ということを実感する2016年の大みそかです。

 

 

author : y-mineko
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UBERが後押しするアフリカの青年の夢

【2016.11.01 Tuesday 22:35

UBER(米国発配車サービス)は日本ではまだあまり発展していないようですが、その対極にあるのが、アフリカ大陸での急成長ぶりです。


UBERは2009年に米国のサンフランシスコで誕生し、2012年には国際的にその事業を展開し始めました。アフリカには2013年南アフリカのヨハネスブルグでその営業を始めています。2016年10月現在、以下のアフリカの都市でUBERが使えるようになっています。


南アフリカ:ヨハネスブルグ・プレトリア、ケープタウン、ダーバン、ポートエリザベス
ナイジェリア:アブージャ、ラゴス
エジプト:カイロ、アレキサンドリア
ケニア:ナイロビ、モンバサ
ガーナ:アクラ
ウガンダ:カンパラ
モロッコ:カサブランカ

 

実は、私が実際にUBERを使ったのはごく最近です。


南アフリカ・ダーバンに住み仕事をしている私は、通常、移動には自分の車を使います。が、今回、続けてタンザニアとヨハネスに合計2週間出張する機会があったので、自宅と空港の往復にUBERを使ってみたのです。

 

最初のUBERは、ダーバンの町中から空港(約19キロ)まででした。料金はR146、日本円にして1100円ほどです。通常のタクシ―ですとR220から、ということですので、料金的にはUBERが35%ほどお得ということになります。

 

タンザニアではUBERを使う機会に恵まれなかったのですが、ヨハネスでは友人と一緒に頻繁にUBERを利用しました。ヨハネスに住む友人が、”Let’s UBER!”とUBERを動詞として使っていることに驚かされました。もう、動詞になるほどUBERがヨハネスでは市民権を得ていたのです。

 

ダーバンの空港から我が家までは、R474(3600円)で、かなりお得感がありました。以前、空港でタクシーを使って、我が家に着く前に、あまりの高さに途中下車しようとさえ思ったことがあるからです。ちなみに我が家から空港までは60キロです。
さて、国際的にも同じだとは思いますが、南アでのUBERの使い方はこうです。

 

    利用者のスマートフォーンに、UBERの無料アプリをインストールする。
    そのアプリに利用者の個人情報と使用したいクレジットカードの情報を入れる。
    クレジットカードは、ビジネス用と個人使用とに分けたい場合、複数のカード情報を入れることができる。
    UBERを使用したい、と思ったら、アプリを立ち上げて、利用者の所在地を確定する。
    行先を入力する。
    利用者の現在地から一番近くにいるUBERドライバーに連絡が入り、何分で利用者の現在地に到着するか、といった情報が届く。
    ドライバーの名前と車両のナンバープレートの番号情報が届く。これは、UBERの車両には、一切UBERのロゴなどが示されていないため。
    想定される料金情報が提供される。
    ドライバーの現在地情報がどんどん更新される。
    ドライバーが到着し、利用者がUBERのアプリで示されている車のナンバープレートを確認して乗車する。
    高速料金などは、ドライバーが負担し、料金に加算される。
    目的地到着。
    チップも料金もすべてカード決済のため、そのまま下車する。

 

*私の携帯に届いたスボンギレの写真と料金の提示

 

これが一連の流れです。正直言って、アフリカで暮らしていて、ぼったくられる可能性が非常に高い外国人である私にとって、これはかなり画期的な体験でした。

 

また、UBERの運転手さんたちのフレンドリーなことと言ったら、感激ものでした。

 

性格柄?商売柄?、根掘り葉掘り彼らに質問してしまいました。まず、UBERのドライバーになるためには、自分の自動車を持っていなくてはいけない、ということ。新車である必要はないようですが、中古車でも4年以上使った車はダメ、ということです。また、車両保険なども必ず入らなくてはいけないルールがあるようです。

 

UBERが営業許可を受けていない、いわゆる“白タク”ではないのか、という疑問もあるようですが、ネットで調べてみる限りでは、南アでの営業許可は収得しているようです。

 

UBERのドライバーがUBER社に手数料として持っていかれるのは売り上げの20%だそうです。UBERに職替えして、ものすごくシアワセだ、という、運転手さん・スボンギレ(仮名)にずばり聞いてみました。彼は前職の営業中に怪我をして、その保険金を頭金にして、新しめの中古車を購入しUBERのドライバーになり、現在に至っているそうです。

 

「すべての経費、それこそ、車のローン、ガソリン代、車両保険代、修理費、タイヤの代金などなど、すべて引いて月額どのくらいの収益があがるの?」

 

「すべての経費を引くと、手元に残るのは、平均でR15000(11万3千円)ほどかな。UBERのドライバーになる前の運送会社では無理を言って12時間くらいシフトを組んで働かせてもらっても、給料の総額が税金を引かれる前でもっと少なかった。実際手取りはR9000(68000円)くらいだったから、僕は今、ものすごく嬉しいんだ。家族もね!」

 

実際、現金収入としてのこの金額は、大学を卒業した公立学校の先生の月給がR8000〜R20000くらいだということを考えると、破格です。

 

スボンギレは、目を輝かしてこんなことも語ってくれました。

 

「このいま使っている車のローンもあと少しで終わる。そうしたら、もう一台の車を買うための頭金が貯金できるんだ。あと2年以内にはもう一台新車を買って、運転手を雇って二台目のUBERのオーナーになるつもりなんだ。僕にこんな希望を与えてくれたUBERにはとっても感謝しているんだ」

 

彼の境遇を聞いてみると、シングルマザーのお母さんに育てられて、一番年長の彼は、下に5人の弟がいるそうで、弟たちの学費はすべて彼が面倒を見ているそうです。

 

南アフリカで多額の資本も持たず、学歴も特殊なものを持っていない青年が、社会的にのし上がって行くのは不可能ではないにしても、かなり困難です。

 

まず、将来の展望をこんなに希望を持って語ること自体が非常に珍しいのです。さらに私が感嘆したのは、彼のこんな発言。

 

「僕はダーバンにいるUBERの運転手の組合を作って、車両保険会社と保険料の交渉をしたいんだ。中にはあまりいい保険にはいっていないドライバーもいるんだよ。大勢で加入したら、保険料だってもっと値引きされていいはず」

 

スボンギレの視野には、自分だけでなく、他の同業者のことも入っているのです。弱冠28歳でこの矜持。これはUBERの事業形態が、アフリカにおいて起業家精神を持つ若者を後押しいているか、ということの証明です。

 

UBERはここにきて、アフリカならではのサービスも始めています。それはずばりキャッシュでの支払いです。このキャッシュでの支払いを試したケニアでのナイロビではそれまでの3倍に利用者が増えた、ということです。

 

ただUBERには、やや懸念されることもあります。

 

それはずばり、税金の支払いです。なんと、スボンギレは、収入に関わる税金はUBERに鞍替えしてから一回も払ったことがないそうです。これでは他のタクシー会社から文句が出るのは当然です。南アは年間収入が約60万円以上になると、所得税がかかりますから、元締めの南アUBER社がドライバーたちを“個人事業者”として、厳しく指導していくべきのことでしょう。難しそうだけど……。

 

残念ながら、地域によっては、お客を取られて不満のある他のタクシー会社のドライバーたちがUBERの車にいちゃもんをつけたり、暴力沙汰になったり、ということも起きているようです。

 

新しい社会現象が起きると、旧体制から嫉妬されたり、また後追い的に制度ができてくるのは世の常です。つまり、新しい動きに社会が追いついていない、ということですね。でも、ぜひこういったスボンギレたちドライバーの夢がつぶされないよう、柔軟に対応していって欲しいと願っています。

 

スボンギレ、がんばれ〜!

 

author : y-mineko
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David Wainesが釈放されました!!

【2014.08.10 Sunday 23:51
前回のこのコラムでご紹介した、私の友人、David Wainesが、2014年8月7日、リベリアの刑務所から釈放され、無事故郷のカナダのバンクーバーに帰り着きました。

このコラムを読んでくださったたくさんの方にも署名にご協力していただきました。心から御礼申し上げます。

実は、今回の開放に関しては、いま、リベリアなどで大変な脅威を振舞っているエボラ出血熱も一因があったようです。

現在、エボラ出血熱はいまだに感染を広げています。多くの医療事業者が感染してしまった現実もあり、国際的な支援が必要になっています。

時折流れてくるニュースなどには、病気に倒れた人がそのまま道路などに放置されている映像も含まれていて、現地のこの病気に対する混乱振りがよくわかります。一日も早く治療法が確立され、多くの人が命を落とすことなく助かって欲しいと強く願います。

今回、Davidが開放されたのは、本人の無実の罪がDNA鑑定により証明されたことも一因なのですが、大統領府の命令として、暴力的でない犯罪者を収監されている刑務所から解放するように、というお達しが出た、という情報もあります。

これはまだ確認ができていない情報なのですが、リベリアの国がいかに混乱しているかが安易に想像できます。

Davidのリベリア出国時もかなりひやひやものでした。大統領府からの出国の許可があるというのに、セキュリティでストップがかかったのです。

私はこの一連の動きをFacebookで、彼の家族や周りの支援者のポスティングでずっと追っていたのですが、最後に飛行機の座席からDavid本人が奥さんのAudryに電話をかけた、という情報が最後だったのです。

が、今朝、南ア時間の朝1時頃(バンクーバー、カナダでは8月9日午後3時頃)、Davidが無事バンクーバーに着いた、というポスティングと髭がぼうぼうになった彼の写真を確認することができました。

簡単ですが、皆様にこの嬉しいニュースをお届けいたします。

ご協力、本当にありがとうございました。

吉村峰子
 
author : y-mineko
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David Waines のために署名をお願いします

【2014.07.31 Thursday 05:09
「アフリカは危険ではないんですか?」

と、私はよく聞かれます。

10代だった子ども二人を連れて、日本から南アフリカに移住した私たちに、アフリカを知らない多くの人たちは、心の中で

「何を好きこのんで、日本からアフリカに?」

と言ったニュアンスを含ませながら、この質問を私に聞いてくるのです。

「アフリカ全部が危険なのではないと思います。でも、底知れない“恐ろしさ”というのは、あるかもしれません」

と今日の私は答えます。

それでは、この“底知れない恐ろしさ”とは何なのでしょうか。

この“恐ろしさ”とは、単純にアフリカに行ったから、生活したから、といって全員が体験するものはでもありません。それこそ、数年程度の駐在員生活では、こういったことを意識もせずに日々を送り祖国に戻る人もいるでしょう。

1986年からアフリカで暮し始め約30年近くの歳月が経とうとしている2014年7月30日現在の私は、このアフリカの、“底知れない恐ろしさ”をかみ締めています。

カナダ人、David Wainesは、亡き夫、吉村稔のリベリアでの一番の親友でした。

Davidは、キリスト教の宣教師です。しかし彼は、いわゆるアフリカで多く見受けられる、「キリスト教だけが世界を救う宗教だ」というような考え方を持ちません。

その証拠に、と言っては少し的外れなのかもしれませんが、非キリスト教徒である稔も私も、彼からは一度もキリスト教に改宗するような誘いを受けたことがありません。彼は、私たちの宗教に対する考え方をきっちりと尊重してくれていたのです。

Davidは、とにかくその破天荒な性格と行動で、カナダ人版の吉村稔のようでした。だからこそ、あんなにも気があったのでしょう。

彼の破天荒なエピソードを一つだけご紹介しましょう。

それは彼がまだ20代前半の頃、ソビエト、と呼ばれていた現在のロシア経由のエアロフロートでヨーロッパに旅行しました。皆さんはKGBという組織のことを聞いたことがあるでしょうか。それこそ、プーチン大統領こそいませんでしたが、その頃のソビエトは、がちがちの共産主義国でした。そこでは、反体制の人間などは今よりももっと過酷に激しく規制され、国家権力によって、闇から闇へと葬り去られる人間は数え切れないくらいいたのです。

その強権国家ぶりは世界的に有名でしたから、モスクワ経由のエアロフロートでのヨーロッパ路線がいかに安くても、西側の多くの人間はそれを避けたものでした。

Davidが強烈なのは、そういったソビエトの体制さえも、なんのその!といった根性です。エアロフロートの旅客は、乗り継ぎ地のモスクワで、厳戒態勢のもと市内のホテルへ移動させられます。“ホテル外への外出厳禁”という絶対条件付きで。

でも、そういうことを理由なしで告げられると、「絶対何とか外出して、ローカルな酒場でウォッカでも飲んでこよう」と考えるのがDavidです。

厳戒態勢が引かれているにも関わらず、ホテルの非常階段からホテルを抜け出し、一人も好くわの夜の街に出て行ったのでした。でも、これが発覚し、見張りに付いていた警備兵が卒倒しそうになったそうです。こんなことが上層部に知れたら、彼はきっと降格どころか、もっとひどい処分を受けたでしょう。

夜も更けて、ウォッカをローカルなバーで楽しく飲んでホテルに戻ってきたDavidは、それこそ20人くらいの警備兵が血なまこで彼を探している様子が分かったそうです。

「で、ど、どうしたの???」

と、話を聞いていた私たちの質問に、Davidはこう答えました。

「ははは、彼らにね、Good Eveningと言って、部屋に戻っただけだよ。だって、僕がいなくなって困るのは彼らだからね!」
これが若かりし頃のDavid Wainesです。

彼は、Audryという非常に聡明で落ち着いた看護士の妻にめぐり会い、二人でEquip というキリスト教系のNGOのリベリア事務所代表として働いていました。彼らの主な活動は、リベリア人の健康状態を向上させるためのものでした。リベリアの内戦で私たちを含む多くの援助関係者がリベリアを後にする中、彼らは自分たちでも難民になりながら、ずっとリベリア人とともに過去25年彼らの人生をささげてきたのです。

その彼が2013年の11月以来、無実の罪でリベリアの刑務所に拘留されています。裁判も何も開かれていません。

彼の“罪”は、10代のリベリア人女性を妊娠させた、というものでした。

が、この女性は2014年2月に男児を出生し、その赤ちゃんがどう見ても黒人系の両親を持つことが明白な事実にも関わらず、未だにDavidは自由を奪われ、不衛生極まる首都モンロビアの刑務所に閉じ込められているのです。

Davidの健康状態は日一日と悪化しており、一日も早く釈放され、加療が必要です。

リベリアではいま、エボラ熱が猛威をふるい、健康な人でも感染の危険にさらされています。健康状態が最悪のDavidの安全が脅かされています。リベリアの刑務所の衛生状態は最悪です。Davidによると彼の周りの多くの人間が彼のように無実の罪で獄中にあるようで、その状態は悪夢を通り越しています。

「無実の人間が不当に国家権力により自由を奪われている」という恐ろしさ。

これがいま、2014年7月31日現在、リベリアの首都モンロビアで起きている現実です。

皆様、どうぞお力をお借しください。以下のキャンペーンに署名していただけますでしょうか?このサイトは危しいサイトではありません。Emailのアドレスとお名前、そして住んでいる街の名前を記入していただけますか?現在の目標は2500名ですが、多ければ多いほどよいようです。

アフリカは多くの魅力に富んだ素晴らしい大陸です。

私は自分の選択、南アを永住の地に選んだ事、を後悔したことはありません。が、“底知れない恐ろしさ”が存在することもまた事実です。

それとどう付き合っていくか、ということをじっくり考えています。

が、今は、とにかく一人も多くの方にDavidのことを知ってもらい、彼が釈放されるための一助となるよう努力することが、私の最優先にしたいことなのです。

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このサイトからキャンペーンに署名をお願いします。
http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/president-ellen-johnson-sirleaf-liberate-david-waines?utm_medium=email&utm_source=notification&utm_campaign=new_petition_recruit#share

DavidのVIDEO(英語)があります。
http://vimeo.com/87153890
 
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父、小林丈麿が永眠いたしました

【2013.08.29 Thursday 16:29
私の父、小林丈麿が永眠いたしました。
以下は告別式に間に合わなかった私の追悼文です。

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皆様、本日は父、小林丈麿の告別式にご参列くださいまして、まことにありがとうございました。

本来ならば、丈麿の長女の私が、この場で皆さんお一人お一人にご挨拶するべきなのですが、日本の家族の事情で、私が帰国できるまで告別式を待つことができず、こうして文書にてご挨拶する無礼をお許しください。

私の長男、吉村寛慈の代読をお聞きくだされば幸いです。

丈麿は、ここ茨城県に生まれ、4年前に亡くなった私たちの母と結婚してからは、人生の大半を東京の西多摩地域で過ごしました。その後、私たちのいる南アフリカにも暮しましたし、最晩年は妹夫婦の世話になり、約4年、愛知県春日井市で生活を送りました。

父の子ども時代や青年時代のことは、ここで私が言及するよりは、ご臨席をいただいている、親戚や友人の皆様にお譲りするとして、私は私にとっての父の思い出を皆さんに聞いて欲しいと思います。

父の人生は、ご臨席の皆さまの多くと同じように、子ども時代は戦争により、決して平和な時代に子ども時代を謳歌した、とは言えないでしょう。

しかし、その時代の暗さが父の性格を暗くしていたか、と言うと、決してそのようなことはありませんでした。

よく言えば大らか、悪く言えば大雑把。80年の人生で、大波、小波を幾たびもかぶりながらも、過ぎたことをいつまでも恨みに思ってくよくよすることはなく、目の前に自分の好きなものがあれば、それはそれでよし、とし、どんな場所でも、適応し、ひょうひょうと生活しておりました。

お酒が好きで、本が好き、テレビも好きで、晩年の仕事のようになっていた病院通いも、待合室で同様のご老人たちといろいろ話をしていたようです。

ただ、晩年になってからの、特に母が亡くなってからの春日井市への引越しは、父から友人や幼馴染を取り上げるきっかけとなり、寂しい思いをさせてしまいました。でも、孫たちにも最後は頻繁に会えましたし、茨城の従姉妹たち、新潟、茨城の妹たちも、春日井市まで父に会いに来てくれていたようで、本当に感謝しています。ありがとうございました。

私の妹たちと妹の夫、エルウィンも、献身的に父の看護をしてくれました。これに関しては、本当に感謝の気持ちしかありません。

さて、現在、私は日本から遠く離れた南アフリカで、会社を経営し、日本語、英語を教え、日本のメディアにアフリカの記事を書き、また、英語日本語の同時通訳として、アフリカ中を飛び回っております。

こういった仕事が可能になったのは、父、母が私を自由に自分のしたいように職業選択をさせてくれたからです。

私たちは丈麿、繁子の三人娘として育ち、「女の子だから何をしてはいけない」などということは一回も聞かずに育てられました。

これはもしかしたら、三人の中の一人でもが男の子であったら、また違っていたのかもしれないのですが、とにかくオンナであるがゆえに何ができなかった、ということのない、非常に民主的な両親でした。

私はそのおかげで、1977年には米国に留学に出してもらいました。その頃、1ドルが288円だったことを考えると、本当に進歩的な両親でした。あの頃、会社経営も軌道に乗っており、私たちは何不自由のない裕福な暮らしをさせてもらいました。

私は米国で、大学、大学院と進み、また、日本のJICAという組織で知り合った夫とともに、アフリカで企業することとなり、現在に至っているのです。

私の、先入観なく、目の前のいろいろなことを取り入れ、自分が活躍する場は常識には縛られない、という生き方は、父と母の人生をお手本としています。

さて、私と父は実は、「本好き」ということでつながっています。父に神田の古本屋に連れて行ってもらい、何冊でも買ってよかったこととか、いまのBok Offでも、冊数に制限なく、本を買ってもらったことは今でも大切な思い出です。

ところが、娘に自由に人生を生きさせる、というのは、その娘からの批判的な評価も引き起こしてしまうものです。

実は私も、父のしていることに反対することもたくさんありました。

晩年は、気難しくもなり、素直になかなか美味しいものを美味しい、と言わなかったり、また、一旦決めた約束事をたいした理由もなく反故にしたり・・・。

その度に、周りとしては、腹も立てるわけです。

理不尽なじいさんを目の前に、こちらが怒っても、何も解決には至らないし、それが分かっているのに、頑固さを引っ込めない・・・。

特に、自分がつむじ曲がりであることを自慢するような傾向もあったので、最晩年の世話をしていた智子などはかなり大変だったと思います。

ただ、私には、一つの宝石のような思い出がありました。

それは、母方の祖母が私に伝えてくれたエピソードです。

祖母が生前、きっと高校生の私が父のことで何か不満を言っていたのでしょう。すると、祖母は、こんなことを教えてくれたのです。

「みいちゃん、あんたのお父さんとお母さんはね、なかなか赤ちゃんが授からなかったんだよ。だから、みいちゃんが生まれたときに、あんたのお父さんはね、もう近所にみんな聞こえてしまうくらいの大きな声でおいおい泣いたんだよ。あんたの誕生が嬉しくて、嬉しくて」

私はこれを聞いたとき、激しく感動し、これは一生忘れないでおこう、と心に命じました。これを知っていたからこそ、ちょっとじいちゃんに文句があっても、まあ、仕方がないかな、と思えたのです。

残念なのは、父にこのことを直接確かめたことがないまま父を送ってしまったことです。でも、私にとって、この話はいつでも私の胸に留まることでしょう。

じいちゃんがどんなに無理難題を言っても、横暴な態度をしたとしても、私は、このエピソードで「まあ、いいか!」と気持ちを立て直すことができたのです。

最後に、父がこの私の長男が生まれたときに私に言った言葉をご紹介します。

「峰子、ありがとう、ありがとう。もうオンナはあきあきだったんだ、オトコの子を産んでくれてありがとう」

いま、思うと、父も私がオトコであったら、また違う人生を最晩年送っていたのかもしれないな、と思います。

でも、父の人生は、戦後の混乱、高度成長期のエネルギー、そして平成になってからの停滞期など、日本の過去80年を存分に生きた人生だったと思います。

おじいちゃん、今頃は、天国でおばあちゃんと稔さんと一緒に、やれやれ、やっとこっちに来たよ、とか言って、ビールでも飲んでいるのかもしれないね。これからは医者にも通うわなくてもいいので、そっちでゆっくり遊んでください。

皆様、父のためにこうして集まっていただきありがとうございました。心から御礼申し上げます。

吉村峰子
2013年8月29日 南アフリカ、ダーバンにて。

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ノブシュレ・ダドゥラという女性

【2013.08.21 Wednesday 21:02

目の前に子犬がいて、そして悲しそうな目をしていたら、あなたはどうしますか。
目の前に子猫がいて、そしてあなたを見上げたら、あなたはどうしますか。
目の前に子どもがいて、あなたの手の届くようなところで転んだら、あなたはどうしますか。
目の前に鉢があって、とっても乾いた土から何かの芽がでていたら、あなたはどうしますか。
目の前に寂しさにふるえている友達がいたら、あなたはどうしますか。
目の前に自分の愛する人がいて、その人が泣いていたら、あなたはどうしますか。
目の前にお腹のすいている人がいて、そしてあなたが食べ物を持っていたら、どうしますか。

ノブシュレにとって、彼女の目の前にいた、精神疾病のあるホームレスの人たちは、誰に助けを求めたらいいかもわからない人たちで、彼女は“何か”をせずにはいられなかったのだそうです。

ノブシュレ・ダドゥラは、ハマースデールというダーバンから40キロほど離れた小さな村の出身です。彼女は独身で37歳。結婚したこともなければ、自分の子どももいません。これは、この地域では珍しいことなのです。

彼女は今、7名のスタッフと共に、ハマースデールの丘の上にある、町から無料で貸してもらっている古い建物で、71名のホームレスの精神疾患のある患者さんたちの面倒をみています。

毎日の生活は毎日同じように続きます。
朝起きて、まずは患者さんたちの様子を見回ります。
粗相をしている人がいれば、シーツを取替え着替えをさせます。
朝ごはんは二切れの食パンと、甘い紅茶。
昼間はスタッフたちと一緒に掃除、そして洗濯の大仕事。

そんな仕事をしているうちにすぐに昼ごはんになります。昼ごはんはメインの食事なので、毎日何らかのたんぱく質が患者さんたちに提供できるように努力しているそうです。

私が何回か訪問したときのお昼はでも、お肉らしきものは何も入っていませんでした。でも、お昼はお米の上になんらかのソースがかかっているご馳走です。

ノブシュレの仕事は、こういった毎日繰り返される暮らしをお金の心配をしながらこなしているのです。

どうやら、食料の大半はダーバン近辺のスーパーマーケットが、期限切れに近いものやへっこんだ缶詰などを寄付してくれたり、教会関係の寄付であったりするようです。しかし、71名の患者さんを面倒みる、ということは毎日の洗濯に必要な洗剤も必要でしょう、建物は無償で借りているとはいえ、電気代、水道代だってかかります。

また、南アでは、貧しい層であると、医療費は無料で受けられる制度があるのですが、その病院に連れていくためには、車を走らせるガソリン代だってかかります。

私は何回目かの訪問の際、彼女に聞きました。いったい、いくらくらいのお金が一ヶ月かかるのか、心配だったからです。

彼女の答えに仰天しました。

「……、えっと、コックさんに3万円、他のスタッフは全部で他に7万円、ガソリン代は10万円、食料に10万円、くらいかな……」

つまり、きちんとした会計処理をしていないのです。

ため息がでました。

彼女は気がついたら、こういうことになっていた、と言っているように、計画性があって、スポンサーがいて、この施設を運営しているわけではないのです。

彼女に、政府とか他の援助団体に援助を求めたことはないのか、と聞くと、

「私は何の資格もないのです。医療関係者でも、ソーシャルワーカーでもないの、それに、ここのいる患者さんたちは、子どもじゃないから、孤児院でもないし、医療機関じゃないからお医者さんもいないし……」

という答えです。

ところが、政府系の精神病院は、患者がホームレスだと分かると、なんと彼女のこのセンターに患者を送り込んでくるのです。

ノブシュレが寄付をどうにかつなげて生存しているこを十分承知の上で。

彼女のこのセンターの収入は、南アの政府が保証する、精神障害のある人への福祉のお金、しかも、一人月額たった1万2千円です。しかも、71名の患者さんのうち、この資格を持つ人はたったの20名ほどだそうです。ということは、彼女は現金収入としては、20万円くらいしか見込めないのです。

だからと言って、彼女はこの施設を放り投げることはできなのです。

なぜなら、彼女は、精神を患って、家族にさえも見捨てられたこの患者さんたちにとって、彼女だけが彼らのために食事を用意し、ベッドを提供し、洋服を着せてくれる人間だ、ということを誰よりも知っているからです。

これを聞いて、それでは私は何ができるのだろう、と思ってくださいますか。

私はこれから、ノブシュレをいろいろな形で支えていこうと考えています。時折いただく日本からの寄付も当面は彼女のセンターのために使わせていただきます。

皆さん、何か提案がありましたら、ぜひ、メールでも何でも、ご意見をお聞かせください。
精神病を病む患者さんたちが寒さに震えているのを見て、せめて、いまあるこの施設だけでも、彼らから取りあげられることがないよう、がんばらねば、と思います。

まず、手始めは、ノブシュレにレシートを保存して、毎月のお金の出入りをきちんと記録することからですね。いやぁ、道は険しそうです。


ホームレスの人たちのためのケアセンター
の入り口に立ってもらったノブシュレ


患者さんのベッドルーム

たった一つのテレビの前に患者さんが集まっている。

一回分のお昼のお米ができました。

ノブシュレの事務所。近所のクリニックからもらってきた
患者さんの薬が一人ひとりの名前のついたプラスティック
の容器に入れられている。



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マンデラさんの報道について、南アから思うこと

【2013.07.13 Saturday 00:41
 マンデラさんの容態が悪いというニュースがメディアに流れ始めて、もう随分時間が経ちました。

南ア人は人種を問わず、マンデラさんを敬愛しており、毎朝ニュースも、マンデラさんの容態から放送が始まります。

個人情報というものはやっかいなものです。特にその対象となっている人が高齢の場合、その命に限りが見えてきて、その状態を公に流す、ということ事態に賛否が分かれるからでしょう。

南アの大統領府の発表は、かなり前から、

「マンデラ氏は重篤な状態にいるが、安定している」

と同じせりふを繰り返しています。

こういう何の状況も伝えない文言は、人々をかえって不安にさせ不必要な悪い想像さえ促してしまう時もあります。

新聞やソーシャルメディアでもマンデラさんの病状を伝えるニュースであふれていますが、実はマンデラさん一家の争いのことも大きなニュースになって流れてきています。

先日、南アの裁判所の一つは、マンデラさんの孫の一人に、ある判決を言い渡しました。それは、彼が勝手に掘り起こした、マンデラさんの子どもたちのお骨を元の場所に戻せ、というものでした。

これで、もう明らかに、マンデラさんが亡くなった後、どこにそのお墓を設けるか、でその後のビジネスの行方を心配している複数の人間が家族の中にいることが明らかになってしまいした。

マンデラさんは、かねてから、自分の3人の子どもたちが眠るクヌに埋葬して欲しい、と言っているのです。

この判決を受け取ったマンデラさんに近い家族には、マンデラさんの現在の夫人、グラサ・マシェルさんも含まれています。

このマンデラさんの現在の夫人、グラサ・マシェルさんは、マンデラさんにとってその存在が、どれだけ意味があるかを多くの人が知っています。そして、時折目にする、この二人の幸せそうな写真にどれだけ私たちが癒されているか、はとても言葉では言い尽くせないほどなのです。

その彼女がマンデラさんの意向を裏切るようなことはするわけがなく、孫であるマンダラ氏は、いま、世間の非難を受けています。

ただ、ここで一言、現地に生活する人間として、マンデラさんを敬愛する人間として一つ書いておきたいのは、日本の新聞などがいかにも見てきたように、この騒動に対してのコメントを、「骨肉の争い、南ア人は幻滅」と書いていますが、それはちょっと違うのです。

もちろん、こんな争い事はやめて欲しい、とは皆が思っています。でも、その感情は、マンデラさんの経歴に傷をつけるから、というものではなく、マンデラさんの最後の時間を静かに見守りたい、という思いからなのです。

この裁判のことを南ア人のある老婦人と話していたら、彼女がこんなことを言いました。

「だって、彼は自分の子どもたちに父親として接してあげられなかったのよ、だって、彼は南アの私たち全員のために戦ってくれていたんだもの。子どもたちがちょっとハズレて育ったとしても、仕方がないじゃない」

私はこの言葉を聞いて、心の底から、納得してしまいました。投獄されていた27年間だけではなく、その前だって、マンデラさんは南アの黒人のため、人種差別撤廃のため、その全人生を賭けて全力疾走してくれていたのです。自分の家族をゆっくり見守り育てる時間的な余裕などほとんどなかったのは想像に難くありません。大統領になってからは、黒人だけのためでなく、全南ア人の父として、この国の礎を作るために奔走したのです。

外国から来た報道陣が自分たちの国に向かってどんな内容のニュースを届けるかは自由ですが、表面的な常套句でのこの事件の解析はいかにも軽薄で事実を伝えるものではありません。

それから、グラサ・マシェルさんがメディアに語ったマンデラさんの病状を紹介しましょう。マンデラさんの生命維持装置がなぜ、外されていないかがよく分かります。

「私が話しかけると、反応するんですよ。話せはしないけれど、反応するんです」

たとえ、話すことができなくなっていたとしても、グラサ・マシェルさんや家族の話しかけに、何らかの形でマンデラさんが反応していたとしたら、生命維持装置を外せないのは当然のことです。

また、娘さんの一人がこうもおっしゃています。

「私たち、テンブ人の文化では、本人が子どもや家族に『自分を逝かせてほしい』と言うまでは、逝かせることはしない、まだ最期は来ていない。最期を知っているのは神だけだ」

誰にでも終わりの日はやってくるのですよね。でも、それが静かで安らかな時間であるよう願ってやみません。

7月18日はマンデラさんの95歳の誕生日です。



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30年も前にナイジェリアの一人の女性のしたこと

【2013.03.15 Friday 23:20
 皆様、2013年も3 月になってしまいました。

2012年の年末は日本に一時帰国し、久しぶりの寒い冬を楽しみました。ダーバンの冬はどんなに寒くても朝方4度くらいになるくらいですので、久しぶりに見る雪に感動しました。

さて、寒い日本から一日ちょっとかけてダーバンに戻ったら、あっという間に仕事の波に巻き込まれ、「今年こそは絶対に月二回は空色庵を更新しよう!」という年頭の誓いもどこかに吹っ飛んでしまいました。

そんな私に届いたのが、昨年まで毎週更新していたカフェグローブのコラムの読者さんからのメールでした。

「吉村峰子さま、毎週、峰子さんの記事が更新されるのを本当に心から楽しみにしていました。どんなことでも、読んでいるうちに元気をもらって、そうだ、私もぐずぐずしていないでがんばろう!と思えたんですよ。なので、終了してしまったとき、それでも、こちらの空色庵で毎週峰子さんの文章を読めるとわかって安心しました。でも、お忙しいんですよね。無理は言いませんが、不定期でも書いていただけると嬉しいです」

自分を絞め殺したくなってしまいました。ほんとに。

ごめんなさい。心を入れ替えます。書き手にとって、自分の文章を心待ちにしていてくれる人がいる、ということがわかるのは、本当に嬉しいことです。

でも、出来そうもないことを約束しても仕方がないので、心を入れ替えたことだけ、ここで表明して、自分を律することとします。

さて、英国のロンドンから来ている大切なお客様をダーバンから3時間ほど離れた野生動物保護区にお連れしました。

南アフリカの野生動物保護区は、公立のものと私立のものがあり、今回は、私立の Rhino River Lodge というところを選びました。



いま、南アで密漁される野生動物として一番脚光を浴びているのが、このRhinoたち、サイなのです。なんと今年に入ってから、わずか二ヶ月で、南ア全体で80頭を上回るサイたちが、密漁者によって殺されています。

密漁はほとんどが、スタッフの数が限られている公立の保護区で起こります。また、非常に金銭的に困窮した人に賄賂を渡して、密漁を実行するので、なかなかそのルートを根絶することが難しいのです。

貧困を撲滅することがどれだけ難しいかをここで繰り返しはしませんが、明日の食べ物さえ満足に確保できない状態の人に、野生動物の保護を訴えても、いかに説得力がないか、想像していただけると思います。

私は密漁を絶対に支持しませんが、動物を密漁するしかない経済状態に陥っている人々と、その人たちを操って、巨額の富を得ている密漁者の元締めたちは区別しておきたいとも思います。

ただ、残念なことにサイの密漁は、その角をアジアの国々に漢方薬の材料とされることが多いのです。しかも科学的には何の根拠もない、“強壮剤”として価値があるらしいのです。
今回、このロッジを選んだのは、このロッジも参加しているというサイの密漁ストップのキャンペーンのことを知りたかったこともあったので、ロッジの名前に“サイ”がつくことなども、なんとなく、親しみ易い気がしたからです。

このRhino River Lodge の在り方もとってもユニークです。ここは、隣接する他の同程度のロッジ16軒と、23000ヘクタールの保護区を共有することにより、一泊1万4千円程度の費用で、全食事、サファリ2回のサービスを提供しているのです。

実は、南アの野生動物保護区の中には、一泊の値段が、公立学校の先生の一か月分くらいの値段を取るところもあるのです。日本でだって、バブル時代には、一泊10万円もする割烹旅館などもあったかもしれませんが、これだけ貧富の差がある南アで、10万円もかけてサファリを楽しむことは私には居心地が悪いのです。

このRhino River Lodge には、南ア人観光客が多いことも、その料金のお手軽感をよく表しているのかもしれません。

もちろん、この金額だって、通常の南ア人にはとっても高い金額です。でも、例えば、子どもたちがお金を出し合って、両親に金婚式のプレゼントに、といったようなことも不可能ではないのです。





さて、今回の私のお客様は、本名を、Winifred Lawansonと言います。

彼女は、私のひとつの仕事上のパートナー、Mike Dokunmu氏のお母様です。彼は、南アに10人もいない正式なFIFAのエージェントですが、もともとの出身はナイジェリアで、今こそ南アに帰化していますが、17歳で英国に渡り、教育の最後は英国で受け、その後、南アに移住してきました。

Winiさん、私たち家族の中では、Aunty Wini、つまり、WiNiおばさん、と呼ばれています。

ナイジェリアで彼女は子ども5人を抱えて離婚。その後、一人で自分の子どもだけでなく、親戚関係にもない子どもたちを6名ほど育て上げました。

何と、彼女と結婚したい、という人が現れたこともあったようですが、その彼に、

「あなたとあなたの子どもたちの面倒は見たいと思います。でも、結婚したら、このエキストラの子どもたちは家から出て行って欲しい」

と言われ、彼女はこう応えたそうです。

「それでは、私の人生から出て行くのはあなたのほうですね」

そのときのことを聞くと、彼女の答えは明快です。

「自分の子どもだろうが、他人の子どもだろうが、一旦私の家族になった子どもたちは、ずっと私の子どもに決まっているでしょう?それが分からない人間と人生を共にする気持ちなんかないわね」

なんと胸のすく、カッコよさではありませんか。

いまは仕事をすべて引退して、悠々自適のWiniさん。以前から旅行が好きだった彼女は、今回ダーバンに来るのをとても楽しみにしていたのです。

私は自分の母を4年前に亡くしています。母が生きていたら、母をここにも、あそこにも連れて行ってあげたかったなぁ、と思うことが多々あります。

だから、ヨハネスから彼女を招待して、またサファリへも出掛けて、というのは、まるで母と旅行をしているようで、何とも心楽しいことでした。

何十年前のナイジェリアで、こんな懐の深い女性が、彼女が引き取らなかったら、ストリートチュードレンになる可能性があった子どもたちを、自分の家に家族のように向かい入れ、たっぷりの愛情を注いでいたのですよね。

私は、彼女にその時の「ありがとう」をこんな形でちょっと、ほんのちょっとお返ししたかったのです。

彼女のしたことは、この6名の子どもたちの人生を根本から変えました。いま、成人した彼らはそれぞれが立派な社会人となり、いろいろな国、地域で活躍しているそうです。

私はこういう心の歴史を持った女性と知り合いになったこと事態に頭が垂れるのです。

ああ、いいなぁ、人生、捨てたモンじゃないよね、と思います。
Winiさんにはもっともっと長生きして、皆を励まし続けて欲しいと思います。






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吉村 峰子
writer
English & Japanese
language instructor
interpreter
(Japanese - English)