あんなこと、こんなこと | 空の続きはアフリカ
デモに参加し、そして引き下がる。失敗?いいえ!

【2015.04.08 Wednesday 20:12
2015年3月、南アの多くの大学で、学生たちの人種差別への抗議活動がかなりの広がりを見せました。

発端は、私の娘も通う、ケープタウン大学に設置されている、セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日)という、イギリスの政治家であり、その後南部アフリカで様々な事業を営み、ダイアモンドと金の採掘などにより巨額の富を得た人物の銅像を大学のキャンパスから撤去しろ、という要求からでした。

セシル・ローズは、“アフリカのナポレオン”と異名を取るほどの権力を有していました。彼の名を冠したローデシアという国もありました。現在、北ローデシアはザンビアに、南ローデシアはジンバブウェと独立し改名しています。ただ、現在も南アの著名大学の一つは、ローズ大学といい、彼の影響力の偉大さは推して知るべし、という感があります。

「神は世界地図が、より多くイギリス領に塗られる事を望んでおられる。できることなら私は、夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と自分の著書のなかで豪語したことも有名です。

国際的な知名度としては、アメリカの元大統領、ビル・クリントン氏もその奨学生であったローズ奨学金の創設者でもありました。これは、生涯独身だった彼がその莫大な遺産のほとんどを英国のオックスフォード大学に寄付し、英国領あるいは米国のように英国に関係の深い国々からの優秀な大学院生にオックスフォード大学の大学院で学ぶための奨学金を捻出し続けているのです。彼のビジネスの中には、日本人に馴染みのある、ダイアモンド会社、デビアスもその一つです。

で、その人物の銅像がなぜいまこんな嵐の中にいるのか。

それは、彼が類まれなる人種差別主義者であったため、彼の銅像を自分たちの学んでいる大学のキャンパスに置きたくない、ましてやその名前を大学の名前としているのは、彼に代表される黒人を家畜のように扱った、植民地主義をいまだに肯定している可能性を示唆するからだ、という主張です。

最初、この抗議活動を聞いた多くの南アフリカに住む大人たちは、「なんで今頃?」と思ったのです。が、活動が多くのソーシャルメディアや既存のメディアで詳細を伝えられ始まると、学生たちの抗議活動への評価は、きっぱりと二つに分かれていきました。

多くの黒人系南ア人は、

「そりゃあ、そうだよ。言の発端を考えれば学生たちの主張が正しい」

多くの非黒人系南ア人は、

「彼の銅像を引きおろすんだったら、彼の奨学金の恩恵を受けた人間はそれを全部返還するんだろうな」

娘のショウコは、ケープタウン大学の三年生で舞台芸術を専攻しています。学生の人種の割合は?などという質問には、かなり ”きっ”として、

「人種で友達のこと区分けしたことさえないよ。お母さん、それは不愉快な質問」

と言うほど、普段“人種”など意識しないで大学生活を送っている様子です。

が、前回の曾野綾子さんの記事を発端として、日本の新聞などにもインタビューされ、彼女の中にはやはり長い年月差別されてきた非白人系の友人に対する「申し訳ない」と言った気持ちが普段より強かったようなのです。

彼女からこんな電話がかかってきました。

「お母さん、私もRhodes Must Fall(ローズを引きづり落とせ)のデモに加わろうと思う。最初はあまり賛成できない、って思ったけど、やっぱり悪いことをして利益を儲けた人の銅像をそのままにしておくのは間違っている」

私は彼女にこうアドバイスしました。

「そうなんだ。でも、デモといっても暴力にだけは巻き込まれないように。学生の中の数人だとは思うけど、銅像に汚物を塗ったりしたって一般の人の賛同は勝ち得ない。自分の心が何を思うか、よおおおおく耳を澄ませながらデモに参加しておいでね。くれぐれも危険なことはしないように」

デモに参加するのはいいけれども、母として、娘が暴力の被害者になるのも、加害者になるのも避けて欲しいと思いました。

さて、こう送り出したとは言え、内心私は彼女のデモへの参加が本当に彼女の本心から出ているのかどうか、ある種の疑問を持っていました。どうしてかというと、彼女は幼い頃から、“Empathy”という「共感する心」が人並み外れて強く、周りにいる黒人学生の中のかなりラディカルな意見にひっぱられている可能性が高かったからです。

でも、若いうちに衝撃的なパワーの波に乗って、自分の意見をデモという形で表したり、議論をしたり、ということも絶対経験しておいた方がいいです。

同じケープタウン大学生で、将来法律家を目指す男子学生が、自分の将来に不利になるから、と言ってメディアに写真を撮られることを恐れて何日かキャンパスから遠ざかっていたそうです。これ、私からすると、「こじんまりしたヤツだ」と情けなくなります。過激なことを奨励するつもりはないのですが、若い頃から自分の不利有利ばかりを考えて送る生活って、結果はろくなことにならない気がします。

で、ショウコ、デモには二日間参加したようですが、その後、こんな電話がかかってきました。

「お母さん、デモに参加するのはやめた。みんな暴力的過ぎるし、他の意見を聞こうともしていない。これではいい結果はでない。たとえ銅像を撤去しても、幸せになる人なんてでてこないよ」

そうだよね、この電話は結構涙がらみで、彼女の中でこの結論に達するまでに、かなりの葛藤があったことがよく分かりました。

「ショウコ、いいんだよ。ショウコは自分の中で、最初は賛成してデモに参加した。でも、参加して、みんなと議論するうちに自分の中でみんなに賛成できない部分がよくわかって、それで参加するのをやめたんでしょう」

「うん、そうなの」

「でも、きっと、参加しているほかの人たちから非難されているんだよね」

「……そうなの。みんなショウコが何も分かっていないって言う」

「あのね、意見が対立するって、そういうことなのよ。でも、ショウコの心の奥にある“声”って、ショウコが今まで培ってきた経験とか、考え方とか、家族のあり方とか、いろいろなものの集大成だから、それにきちんと耳を傾ける、ってものすごく大切なこと。他の人の意見と違っても、自分が“これは違う”と思ったら、その声を大切にしないとね」

「うん、難しいけど、がんばる。私ね、いま、白いワンピースをずっと着ているんだよ」

「白いワンピース?」

「そう、白いワンピース。これはね、ショウコの願いなの。“PEACE”って意味なの」

ショウコさん、なかなかやります。が、仲間たちから見れば、彼女は“転向”したわけです。彼女がこれから先、どんなことに繋がるか、しっかりと見守っていきたいと思います。

ただ、私の意見も伝えておいた方がいいと思い、私の尊敬する、南アのフリーステート大学の副学長、ジョナサン・ジョンセン教授の書いた手紙を彼女に送りました。彼の手紙には私の考えていたことすべてが反映されていたからです。

ジョンセン教授は、これまでも人種差別の問題が起こるたびに、本当に理性的な判断を表明してくれていて、心が救われます。手紙の英語全文はここから。

手紙の大切な部分を抽出し要約します。

「セシル・ジョン・ローズの銅像を取り除いて、博物館にでも押し込んでおく、ということは、反教育的であり、反進歩的であるだけでなく、自分たちのことを否定すると同じことだ」

「真実は、私たちは全員がこの複雑で苦い過去に絡められている、ということだ。私も米国のレーガン大統領が進めた奨学金の恩恵者だ。レーガン大統領とアパルトヘイト政権の共産主義を打倒する、という目的のものだっただが、結果的には黒人弾圧にもつながっていた」

「これが歴史の持つ問題なんだ。皆がその一部なんだ。自分の祖先の中にさえ、特にメラニン色素が薄い祖先の中にはとんでもない人種差別主義者の汚らわしい人物がいる。そういった祖先のしたことに対して何らかのうっぷんを晴らしたいと思わないことはない、でも、それをするということは自分を否定することにもなる。そして、そいつらからの恩恵を受けていない祖先をも巻き込むことになる」

「そうだ。セシル・ジョン・ローズの銅像は、南アの主要な大学のキャンパスの目立つ場所にあるべきではないかもしれない。が、彼をこの国の歴史から排除すべきではない。彼の残した複雑で混乱した遺産を自分たちとの関係をも含めて、どう再認識していくか、という議論が必要だ」

「そして、この最認識の作業には、別の厄介な疑問に解決しなくてはいけない。それは、21世紀の現在を生きる私たちの価値観で、19世紀に生まれた人を判断することが、正しいかどうか、ということだ」

「100年前英雄たちの中には、女性や少数民族をまったく顧みなかったヒーローたちがいる。100年前はそんな時代だったのだ。アフリカの王の中には自らの手でいくつものコミュニティーを殺戮した王だっている。が、現在、その王は歴史的に輝かしい位置を享受している。おぞましい?その通り。でも、それだけで歴史の記憶から排除されるべきなのか?いや、それも違うんだ」

2015年4月現在、ケープタウン大学は、セシル・ジョン・ローズの銅像を現在の場所から移すことに合意しました。クワズール大学では、キャンパスにある、キングジョージの銅像に白いペンキがかけられ、放置されたままです。ローズ大学では大学名の変更が検討され始めました。

南アフリカはまだまだアパルトヘイトの傷跡を深く深くそのうちに抱える人々が暮し、学び、働き、そして生活している国なのです。

そのまっただ中で青春を送る日本人のショウコです。最初どんなに「これだ!」と思って、動いたとしても、途中でね、心の底の深くて、遠いところにある、「う〜ん、なんか変」という声に気がつくことってあるのです。で、それを聞いて、それをまた行動に反映されるって、勇気がいることです。もしかしたら、なかなかできることじゃないのかも知れません。でも、「一度決めたら絶対に変更しちゃいけない」って、ありえないです。人生って、そんなに単純であるわけがないのです。

デモに参加し、そして引き下がる。大丈夫、大丈夫。行動してからする反省の方が、何もしないで批判だけしている人より、ずっと、ずっといい、とラディカルな母親は思い、転びながらでも行動を起こす娘を応援するのです。


尊敬するジョナサン・ジョンセン教授。南ア人種関連機関の会長でもあります。
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南ア永住の日本人より曽野綾子さんへ

【2015.02.18 Wednesday 00:25
南ア永住の日本人から曾野綾子さんへ

曾野綾子さんが、アフリカのアパルトヘイトを見て、それからこういう考えを持つようになった、という記述があるので、日本に生まれ、その後、米国、欧州、アフリカ各地を生活した後、南アフリカを永住の地に選んでいる私からも、彼女のその意見がいかに現実を正しく“見ていない”かということを書いておくことにします。

**********************
曽野綾子さん、あなたの意見を要約すると、こうでしょうか。

*20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。

*南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃後、白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例を出し、人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい、と思うようになった。
(産経新聞 2015/02/11付 7面より)

他のアフリカに関係がある人たちもいろいろあなたの論点のずれているところを指摘していますが、南アフリカに永住し、ここの生活者である私が、指摘しておかなくてはいけない、と思ったのは、ここのところです。

【白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例】

確かに、いま私が住むダーバンのダウンタウン近くのかつては高級リゾートマンションであっただろう物件の中には、しばらくメインテナンスがされていないのが明白なものがいくつか目につきます。これは、所有者が共同でするビルの補修を何らかの理由で放棄し、その後に各国から来ている不法移民が入り込んでいる、というケースもあります。

ですが、あなたの言う、何十年も前に、白人専用だったマンションに黒人家族が入居し……、というくだりが私には胡散臭いのです。

何故かというと、アパルトヘイトが終焉を迎えた頃、白人専用の“高級”マンションに入居できるような裕福な黒人層はほとんど存在していなかったのです。職業の自由も住居の自由も黒人には許されていなかったアパルトヘイト政策下では当然のことです。が、万が一、そういう黒人がいたとしましょう。でも、そういう富裕層の黒人は、あえてマンションなど選ばず、一軒家の邸宅を選ぶはずなのです。

日本の国土の四倍の広さを持つ南アフリカです。都市部にたくさんマンションが必要になってきたのは最近のことだし、それに、そもそも、“高級マンション”という概念自体が日本のそれとはまったく違うことも指摘しておきます。日本で言えば、例えば都会の“億ション”と呼ばれる物件などがこの高級マンションになるのかもしれませんが、南アで高級マンションと言ったら、一フロアが一物件となるようなもので、こういうところであれば、家族が10数人いたとしても、何の問題もなく生活していけるでしょう。

でも、こんな簡単に話を終わらせる訳にもいきません。あえて、その白人専用の高級マンションに富裕層の黒人一家が移り住んだとしましょう。都会のマンションを選ぶような黒人は、かなり現代的で高等教育も終えているエリートでしょう。そういう黒人は日本や米国のようなエリートたちと同じで、ほとんどが都会では核家族で住んでいるのです。そして故郷には親兄弟のために立派な家を建てているはずです。

ですから、白人専用の高級マンションに大勢の黒人が入り込んでそのマンションの給水設備を破綻させた、というのはかなり特別な状況で、あなたが「人種は別に住んだほうがいい」という仰天するような論旨の根拠となるためにはかなり厳しいと思います。

もちろん、私がここにいて、人種間の軋轢を感じない日はありません。いまだに、まだ「アパルトヘイト時代が懐かしい」とまで言う人もいます。

曽野綾子さん、あなたは小説を書く人です。なので、あえて、私の想像も脹らませてみましょう。あなたがその20年〜30年前に南アを訪問されたとき、きっとあなたたちを案内した現地の人間(白人を想定しています)がいたでしょう。そして、きっと、こんなことをささやいたのではないでしょうか。

「黒人たちは大家族で住むんですよ。白人の家族などはせいぜい4人から多くたって6人ですよね。だから、簡単にご想像してもらえると思うんですが、彼らが私たちが住むマンションに引っ越してきたら、水だって、電気だってすぐ足りなくなりますよ」

残念ながら、南アフリカでは、アパルトヘイトが終わってから21年経つ現在においてでさえ、人種間の壁はまだまだ高く、お互いの文化をよく知ろうとしない人たちが人種を限らず存在します。まして、30年前のアパルトヘイトを「良い政策」と信じていた白人だったら、実際の迷惑を受けたか受けなかったか、などまったく関係なく、憶測でこういうことを言ったかもしれません。

が、あなたは本もたくさん書かれる“作家”ではありませんか。こんな実際にはかなり現実的でない状況を引いてきて、人種は別々に住む方がいい、などという発言をされているとしたら、これはあまりにも軽率な行為ではないですか?作家としてだけでなく年長者としてもです。

最後に、2015年現在、私の娘がケープタウンで大学生をしています。ここには、あなたが提唱するまったく逆の毎日が繰り広げられています。

彼女の住む共同住宅用としての一軒家は、一人一部屋は日本でいう8畳くらい、そのほかに7名の他の同居人と共有で使うラウンジ、キッチンがついています。その一軒家には、南アの黒人女性1名、白人女性1名、カラードの男性1名、ジンバブウェからの白人女性1名、ザンビアからの黒人女性1名、スリランカからの男性1名、韓国からの女性1名、そして日本人の私の娘が、何の不都合もなく、共同生活をしています。全員がケープタウン大学の学生やその関係者です。

これが現在のケープタウンのあるひとつの生活の風景です。

曽野綾子さん、あなたには、命をかけてこういう現実が来るよう戦ってきた故ネルソン・マンデラさんはじめ多くの南アの人々にどんな説明をするのでしょうか。

私は日本で生まれ日本で育った人間ですが、南アに永住しております。そして、“日本人”だからといって、ある一定の場所に住め、などと南アの政府にも南アの知識人にも一般人にも言われたことはありません。この国では未来永劫そんなことを言われないでしょう。

南アではあなたのような“知識人”でも、また一般の人間でも、人種差別につながる今回のあなたのような暴言を吐くことは、法律的に許されておりません。
 
author : y-mineko
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ショウコ、おめでとう

【2012.10.19 Friday 16:27

2012年10月、我が家の弾丸娘、ショウコが高校を卒業しました。



10月の始め頃から、もう学校は卒業週間?とでもいうような行事が目白押しでした。でも、本人たち、実は、Speech Nightと呼ばれる卒業式のような行事を最後に、通常の学校の授業からは開放されるものの、南アフリカ全国一斉に行われる高校卒業試験が控えているのです。この試験は10月の終わりから1ヶ月半ほどかけて順々に行われるので、日本のように、「ああ、終わった」と心から思えるのはこの卒業試験が終了してからでしょう。

南アの高校は5年制です。つまり、日本の中学2年生が新入生となり、5年間同じ校舎で学ぶことになるのです。

ショウコの学校は寄宿生の女子校でしたので、それはそれは長い時間を友人たちと過ごしたことにになります。


2009年の彼女たち。下の写真と合わせてご覧ください。ショウコさん、かなり大人になりました。この上の写真の記事はここから




ショウコは今年に入ってから、頻繁に学校や友達への不満を口にするようになり、傍らで見ている私にも彼女がもう人生の次のステージに移る時期が来ていることが分かりました。

彼女の抱えている違和感は、私も自分の若い頃がそうだったからよく理解できました。

彼女が現在の自分の居場所に違和感を抱えてあっちこっちにぶつかり、痛い思いをし、時には涙を流しているのを傍で見ているのは、自分がそういうものを乗り越えるよりも厳しいものがありました。

でも、彼女の場合、これが4月に入るころになると、自宅以外での食事はなかりの確立で吐いてしまう、という症状も出始めました。

いろいろなお医者さんに行きましたが、吐き気止めを処方されるだけで根本的には何の解決にもなりませんでした。

また、この頃ちょうど、彼女の矯正歯科治療の最終段階で、元々欠損していた前歯2本のインプラント手術をしたことで、なんと、ショウコさん、18歳にして生まれて初めて抗生剤のお世話になったのです。

母のくせに、私の記憶はかなりいい加減なので、“私が覚えている限り、初めての抗生剤”と断ったほうがいいかも知れません。でも、こういうことにかけては記憶力抜群のショウコ本人も、覚えていない、と断言していますので、多分、正しい情報です。

この抗生剤の服用も、この時の彼女の体調の悪さに拍車をかけました。医療関係者の友人にも、「18歳まで抗生剤を服用していなかったら、そりゃあ、体のショックは相当なものかもしれない」とも言われてしまい、とにかく食べ物がなかなか身体に留まっていてくれない状態になってしまったのです。

結果として、彼女、4月頃から6月までに、なんと10数キロも痩せてしまいました。いくら身長が173センチもあるとはいえ、こんなに短期間にこれだけ体重が落ちると、彼女を知る人全員が、顔色を変えて、「ショウコ、どうしたの??」と心配するくらいでした。

何人かのお医者さまにも見てもらったのですが、大方は「高校3年生がストレスです」という診断で、特に積極的にこれ、という治療方法は示してもらえませんでした。

ショウコさん、6月の学校の最後の2,3週間は、授業にも出られないような状態になってしまいました。この間、成績もかなり落ち込みました。

6月末から7月にかけての3週間、彼女が、高校生活の中でも、本当に気合を入れて精進していた地域選抜の合唱団の英国ツアーがあったので、この旅行期間中、どうやってしっかりと栄養を確保するのか、というのが大問題になりました。

結果から言うと、かなりの部分はスーパーマーケットで購入したヨーグルト、バナナなどで凌ぎ、ツアーの他のメンバーがファーストフードで食事を取っていたのと対照的な“健康的”食生活を送ったようです。お小遣いの大部分は食費に消えていったようですが……。

さて、このツアーは空色庵の記事「英国での合唱コンクール」でも書きましたが、英国Walesでの国際コンペに出場することが第一の目的で、彼女はメゾソプラノのリーダーでしたので、どれだけ彼女がプレッシャーを感じていたかは想像に難くありませんでした。

しかし、このコンディションにも関わらず、結果、合唱団として堂々の2位獲得、ショウコが振り付けを担当した、Show Choirという踊りを交えたコンペでも、3位入賞という立派なものでした。

ところが、英国から帰国して、3学期が始まっても、ショウコの症状は改善しませんでした。吐き気も自宅以外の食事がどんどん取れなくなっていきました。

週の月曜から木曜までは学校の食事を取らなくてはいけないショウコのために、学校のキッチンでも、彼女のために鶏肉のササミや野菜をゆでてくれたり、といろいろ配慮してくれました。

ただ、この状態ではこれからの卒業試験を乗り切ることはほぼ不可能でした。

そこで、学校の近くのクリニックに高校生の患者を多く扱う医師がいる、ということを聞いて、この先生の診断を仰ぐことにしたのです。

この先生Dr. Smit は、最初の診察の場に仕事の関係で行くことができなかった私のために、わざわざ電話をかけてきてくれて、20分も詳しい説明をしてくれました。

Dr. Smitは、ずばり、

「ショウコには短期間でいいので、習慣性のない、効ウツ剤を処方したいと思います。彼女は2年前の父親の死とか、現在の最終試験のプレッシャーとかでもう崩れる直前です。あなたは効ウツ剤を服用させることに異議がありますか」

これを聞いて、正直驚きました。

ショウコは幼い頃から、とにかくわが道を行く弾丸娘で、人と違うことに対しての恐怖感があまりありません。理解してくれる友人には恵まれるものの、中には彼女をライバル視して、距離を置く同級生もいます。でも、日本人ならではの礼儀正しさや面倒見のよさから、先生や上級生、下級生からの人気は絶大ですし、問題があっても正面から挑み、傷ついても、泣いても、落ち込んでからの回復の早さが彼女の長所なのでした。

ただ、私は心の病に関して、身体の病と同じ、という考えがあります。怪我をしたら、手当てをするのと同じように、もしも彼女が稔の死やいま抱えている将来への不安などで心がちょと弱くなっているとしたら、それを一時的に緩和する薬を服用するのは、とっても自然なことだと思いました。

Dr. Smitの提案で服用した薬の効果は劇的でした。

ショウコはこういった薬の効果は少なくても数週間は様子を見なくてはいけない、と言われたにも関わらず、3日目にはこんな電話をかけてきました。

「お母さん、今日、何も吐かなかった!そして、身体が軽い!もやもやしていた気持ちがすっきりした!!うわ〜、もっと早く薬を飲めばよかった!!!」

これを聞いて、苦笑するしかありませんでした。

今まで、ほとんど薬を服用することなくこれまで生きてきたショウコだから、こんなにポジティブに効ウツ剤に反応しているのか、あるいは、ドラマクイーンの異名をとる彼女の性格が、薬に相乗効果をもたらしているのか……。

ショウコは父親の死に際し、その死を受け入れるためのカウンセリングを受けることはありませんでした。これは、カンジも私も同じでした。

傲慢かもしれませんが、日本の文化や日本人のことはまったく知らない西欧のカウンセリング手法を用いる南ア人のカウンセラーでは、日本人の私たちの感じている最も身近だった父親への夫への思いを汲んでくれないかもしれない、という思いがあったのです。

でもそれよりも、何よりも、深いところでの文化のギャップを父親や夫の死を題材に、まったくの他人に語る余裕がそのときの私たちになかったというのが現実でしょう。

これは私たちがもっと元気が出てきたら超えていかなくてはいけない問題だと思っています。

さて、ショウコさん、高校生活を終わるに際し、学校からいくつもの表彰を受けました。その数、7つ!ダンスや歌、演劇で賞を総なめした、という感じでした。

また、卒業式に伝統的に歌われる、合唱団をバックにして、ソリスが歌う、God Bless Africaのこの栄えあるソリストにも選ばれました。これは、彼女が音楽の先生にオーディションをして欲しい、と頼み込んで実現した晴れ舞台でした。

ショウコいわく、毎年歌われるこの歌を必ずソリストとして歌いたい、と長年!強く希望していたのだそうです。

彼女はメゾソプラノで、よく響く、そして柔らかく深みのある声で大勢が集まった卒業式の会場を魅了していました。

ショウコ、高校卒業おめでとう!

これからも、そのまっすぐで逞しい、背筋の通った歩き方を貫いて欲しいと思います。でも、ちょっと困ったり、疲れたりしたら、迷うことなく寄り道をしてもいいし、休憩してもいいんだよ。

私はあなたのお母さんでいることが、とっても嬉しいし、これからもあなたの一番の応援団長でいたいと思っています。

行け行け〜、ショウコ!



author : y-mineko
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チャンスは何回でも!

【2012.09.28 Friday 05:52
 「みいちゃん、“袖振り合うも多少の縁”って言ってね、知りあった人は大切にするんだよ」

と教えてくれたのは、母方の祖母、あきでした。

辞書を引くと、これは、「袖振り合うも多生の縁」とあり、祖母のものはちょっと変化球です。でも、いいですよね!

祖母は千葉の九十九里に生まれ、幼い頃奉公に出され、縁があって嫁いだ頑固者の祖父との間に14人の子どもに恵まれました。私の母は一番上の娘でした。

その祖母の教えは私の中でとっても強く生きていて、アフリカに住むようになっても、私はあっちこっちで知り合った人にいろいろな関わりをさせていただきながら生活しているのです。

その“関わり”とは、仕事面でのつながりであったり、個人的なものであったりと様々です。

そして、時にはその関わりの中で、痛い、つらい思いをすることもあります。

事の始まりは、今年の3月に知り合ったある外国籍で南アフリカに住む一人の男性です。

この男性、いまから約10年前、自分の妻、娘(八ヶ月)、義理の父の殺人を依頼し実行させた、という疑いで南アの警察に逮捕、拘留されました。

ところが、2年間の拘留の末、裁判所は彼の罪を証明することができず、彼は裁判で無罪を勝ち取りました。

彼は最初からまったくの無罪を主張していました。

では、真犯人は?

という疑問はもっとものことです。

ただ、私がこの原稿で書きたいこととは、真犯人探しのことではありません。

私はここダーバンで、いくつかのNGOに関わっていて、常に彼らの資金探しのお手伝いをしています。

ご存知のように、NGOはどこも台所事情が厳しく、活動費をどう捻出するか、というのは世界各国に広がるNGOの共通の課題です。

いま、いろいろな政府系の団体がNGOに資金提供をしてくれるようになりましたが、中にはその資金の使い道をプロジェクトのみに使用してよい、とか、人件費に使うのはいけない、とかいろいろ規制があります。

また、リーマンショック以来、一般企業からの寄付がかなり厳しくなっているのも現実です。ただ、南アの企業はその規模にもよりますが、法律によって、社会貢献することが義務付けられているので、NGOとしてはまったくチャンスがないわけでもありません。

ただ、正直言って、いくら応募書類を書いてもその成功率はとっても低く、私もどれくらいの応募書類をいままで作成しているか、忘れてしまうくらい挑戦し続けています。

そんなわけで、いけない、いけないとは思いつつ、つい自分のお財布に手を伸ばしてしまうことが多くなります。

友人知人にお願いできることはお願いしていますし、私の友人たちは、かつて私がHIVの患者さんたちと作っていたビーズのブレスレットをまだ販売してくれているのです。本当にありがたいことです。

でも、焼け石に水の例えのように、お金って、定期的に入ってくるものがないと、本当にすぐなくなってしまうのです。

そんな時、犯罪を疑われてその後無罪を勝ち取ったこの男性が、私が関わるあるNGOの資金提供を申し入れてくれたのです。

私は喜んでその申し出を受けました。後でこれが大問題になるとは夢にも思わず……。

だって、私にとって、この男性は過去にそういった疑いをかけられたと言っても、もう裁判で“無罪”を勝ち取っているのです。

ということは、私にとって彼はそこにいる普通の人。私となんら違うことのない、一般市民なのです。

ところが、世間というのはこういう考え方をする人間が多くはない、ということを思い知らされました。

この資金繰りに苦しむNGOの代表と組織の関係者たちが、こう言って彼からの資金援助を断りました。

「火の無いところに煙は立たない」
「OJシンプソンだって、あんなに疑惑は深いのに、無罪になったじゃないか」
「彼の名前をグーグルしたら、ものすごい記事がたくさん出てきた。彼は信用できない」
「NGOとして、自分たちの名前を傷つけることはできない」

私はこの議論を聞いていて、とっても悲しくなりました。

NGOとは、名が示すとおり、非政府系の組織です。私は、非政府系の組織は、政府系の組織に比べて、もっともっと自由に、そして細かく活動ができるメリットがあって好きなのです。

政府系の組織として、亡き夫・稔が所属していたJICAの窮屈さは、私も一時期勤務していた時期もあったので、骨身にしみて知っています。

いわゆる、“お役所の掟”とか、“役所の常識”という見えない壁、ガードに縛られて、なかなか前例のないことができない不自由さは、すべての役所に共通で、その組織内外にいる誰もが体験していることではないでしょうか。

だからこそ、ここで私が応援しているNGOからのこの反応に私はかなりの衝撃を受けました。

私は今までいろいろな組織のトップだったこともありますし、いま二つの会社の経営者もしています。ですから、常にトップとして組織を守らなければいけない立場にいるわけです。従業員とその家族のために責任を取ることの大変さ、というのは極小組織ながらも痛感するところです。

ただ、私はティームプレイの大切さ、連携することの素晴らしさもこれまた骨身にしみて知っているのです。

なので、自分がいかに彼らの判断に反対したとしても、グループの中の圧倒的な反対にあった場合、自分の意見を引っ込める必要があることも知っています。

でも、そういったとき、自分の意見はきっちり伝えておく大切さも。

私は彼らに、こう言いました。

「そんなに彼からの資金援助を断りたいのであれば、それはそれで仕方がないでしょう。でも、私はその判断に賛成しないし、残念だと思う」

そうすると、そのNGOの代表がこう聞いてきました。

「だって、彼の意図がなんであるか分からないじゃないか。もしも彼が私たちを利用したいとしたらどうするんだ?」

私はこの段階で、議論がもう平行線であることを悟りました。

でも、ここが私のがんばり時であることも。だって、こういう時にきちんと自分の考え方を伝えないと、私が何でアフリカにいるのか、ということさえ怪しくなってしまいます。

私は腹をくくって、このまま彼らと決裂することがあっても、自分の考えはきちんと伝えておくべきだと思いました。

「私は例え罪を犯した人でも、もしその人が刑期を終えて社会に戻ったら、もう一回チャンスを与えられる社会がいいと思う。それに、彼は無罪判決を受けているのよ。でも、あなたが心配している彼の本当の思惑。正直言って、そういうことを私はいま心配しない。もしも、彼が何か悪い意図があって資金援助をしたいのであれば、それをさせなければいいだけじゃないの?彼が何をできるのかなぁ。あなたたちの心配しているメディアだって、よく読んでみれば裏づけのないゴシップ記事ということがすぐわかる。噂は消えるし、人はそんなに長いこと、メディアに流れた情報を覚えていない。それに、私たちにしっかりとしたプログラムがあって、それを全うしていれば、何も心配することはないと思う。でも、あなたが資金援助を受けたくない、というのは理解したので、それを変更しろ、とは言っていないのよ。でも、私はその路線は支持しないけれど」

この議論は、場所を変え、方法を変え、延々と続きました。

もしかしたら、彼らの心配するのは当然のことなのかもしれません。この資金援助は実はかなり怪しい動機があるのかもしれません。

でもね、もしも、もしも、その心配が現実に起きてしまったら、それはそのときにまた対処すればいいだけのこと。

起きるかも知れない出来事を心配して人を排除する、人の申し出を拒否するという選択は私にはできません。

もちろん、私だって、もしかしたら私の主張していることが間違っているのかもしれない、という密やかな不安はあります。

でも、いくらそういう不安があったとしても、私は彼らに同調はできませんでした。

だって、何回失敗したとしても、チャンスが与えられる社会のほうが絶対に住みやすいです。またそういう社会を作っていきたいし、そういった新しい覚悟を持つ社会の一員でいたいと思うからです。

誰だって間違いをおかします。だからこそ、間違っても修復することができる、というセーフティネットは大人がみんなで、お互い様で守っていくべきことだと思うのです。

そして、あきおばあちゃんのこの教えがあります。

「袖振り合うのも多少の縁」

せっかくの出会い、せっかくの人生、私はどんなに“単純”と言われようと、心配されようと、その主張によって仲間外れにされようと、前を向いて歩こうとしている人には、何回でもチャンスを与える人でいたいと思うのです。



author : y-mineko
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カンジ、お母さんが殴りこみに行く!

【2012.09.14 Friday 04:42
私は自分の役割をいくつも持っています。

夫が急に死んでしまったので、“妻”の役割はおしまいになりました。

でも、その他をざっと数えると、

英語や日本語の先生、
いろいろなクライアントさんたちにとっての通訳、
二つの会社の社長、
いくつかのNGOのお目付け役、
アフリカのサッカー少年たちのお財布係、
我が家の犬猫たちにとってはお給仕係り、
私の文章を楽しみにしていてくれる読者さんたちにとってのライター、
二人の妹たち、また世界に散らばる妹分たちのお姉さん、
幾人かの分身のような友人たちにとっての絶対的な彼女たちの応援団、
姪や甥たちにとっての叔母さん、
妹に面倒を見てもらっている父にとっては一番上の娘、
などなど……。

普通に考えると眩暈がしそうですが、すべてが私が私であるがために自然発生してきたような“役割”です。

でも、こういった役割の中でも、私が一番時間も使い、頭を使い、心を砕くのは、やはりカンジ、ショウコの“お母さん”としての私でしょう。

夫が生前、と言ってもかなり昔、カンジが小学生、ショウコが保育園生だったころ、私たちの親しい友人夫妻にこんなことを言ったそうです。

「峰子は子どもたちに手をださない」

これは、私が彼らに体罰を与えない、という意味ではなくて、私が彼らの行動に極端なほど手を貸さない、という意味です。

それを聞いた友人が、

「峰子さんほど、干渉していないのに、あれだけ見守っている人はいないね」

と、答えたらしいです。

口出しこそしないくせに、気が短い稔は、子どもたちの世話を本当によくしてくれる父親でした。

その頃、民間の英語教育団体を主宰していた私は毎日が忙しく、週末にはいろいろな場所に出掛けていって講演やセミナーを行っていました。

JICAの職員だった夫にウィークデイに子育てをお願いするのはまったく無理な話でした。なので、週の途中は私が子育ての中心人物、週末は稔がその役割を担いました。

でも、私たち夫婦にとって、子どもを育てる、ということは、時間的には厳しかったものの、これほど楽しいことはありませんでした。

カンジがこんなことをした、言った、ショウコがこんなことを怒ってた、と夜遅く二人でよく笑っていました。子どもの成長ぶり、その都度引き起こしてくれる出来事を話し、どれだけ親としてのシアワセを味わったか、計り知れません。

今でもすごかったなぁ、と思うのは、彼は私と結婚してから週末に(名古屋での単身赴任生活時をのぞけば)ただの一回も自分の遊びのために私たちを置いて一人で出掛ける、ということがなかったのです。

稔と私の“親”としての力の入れ処がかなり異なっていたこともとってもよかったと思います。

毎日の食べ物を手作りしたい私は、どれだけ忙しくても、バランスの取れた食事を子どもたちに与えることに妥協はしませんでした。もちろん、簡単なものが続く時期もありましたが、肉や魚なのタンパク質のおかず一品、野菜料理二品(具沢山のお味噌汁の場合も多かった)、そして炭水化物という四品を必ず準備するよう心がけました。

カンジ、ショウコがお蔭様で医者しらず、病気しらずでこれまで大きくなったのは、幼い頃の食事に追うところが大きいと密かに自負しています。

稔は、週末になると子どもたちを連れて、野に山に出掛けていきました。カンジがまだオシメをしていた頃、ウンチをした彼のお尻を真冬の公園の水道で洗い流していたそうです。蓑虫の親子のように、冬の公園で寝袋に入ってお昼寝をしていた“武勇伝”も他のお母さんから聞かされました。

そんな彼でしたので、私の子どもたちへの接し方が自分のそれと違うことを感じていましたし、疑問を持った時期もあったようです。

「普通のお母さんは違うらしい」

というヤツですね。

確かに、私は他のお母さんのように、こまごまとした世話はやかないほうでしょう。実は、私は、子どもの行動を先取りしてお節介をやくことは、信条としてしないことにしていたのです。

これはこれで大変なこともあるのですが!

私は、子どもたちが持って生まれてきた個性を何よりも大切にしたかったし、自分たちの世界を自分で見つけていく時間を彼らに確保してあげたかったのです。

カンジもショウコも、こうして育ててきたのです。

そのカンジが日本に行って、ある建築事務所で働き始めて、職場で理不尽ないじめにあっている、ということを聞かされたとき、私は自分の体に太刀を受けたような思いでした。

カンジは、見かけは日本人、日本語もまあ不便なく話します。が、人生の大半をアフリカで過ごしているので、当然日本で生まれ育った日本人とは違います。

彼が、例えば、アフリカ人の姿をしていたら許してもらえるよなことも、彼が日本人の容貌をしているがために、人々の気持ちを逆なでしてしまうのです。

アフリカでこれでもか、これでもか、と自分の価値観を試されてきた私にとっては、表面的な類似性に懐疑的になります。ですが、日本人の容姿を持った日本人がたくさん住む日本ではこれが通じないのがよく分かりました。

彼の回りの人間が、彼の仕事の仕方や振る舞いに不満があったことも理解できます。

こと、建築に関しては完璧主義の傾向のある彼、仕事にかける時間の配分がうまくできないのです。これは、学生時代からの癖でこれも学んでいかなくてはいけない分野です。

でも、仕事を学ぶために、日本での建築事務所がどのように経営されているかを学ぶために、彼は日本に行ったのです。始めから完璧に日本の文化を理解でき、その中で仕事ができるのであれば日本でインターン、あるいは研修生をする必要もないわけです。

その職場で、毎日、

「自分は馬鹿だ。役立たずだ」

ということを鏡に向かって100回言うことを強要されていた、というのです。

これは完全な人権侵害であり、いじめです。

これを繰り返すことで、仕事ができるようになるのでしょうか。

本人は私にこのことを言いませんでした。が、これを聞いたとき、私は日本に飛んで行って、その事務所に殴りこみに行きたい、と思いました。

日本のいじめの陰湿さに心が凍る思いでした。

結果的に彼はこの職場を去ることになりました。もっと早く辞めればよかったのですが、変なところが頑固なカンジは、辞めることは逃げることだ、と頑なに思っていたようです。

彼はその後、大阪の別の事務所に採用してもらい、前の事務所であれだけ侮辱されていたのがウソのように、今度は彼のユニークさを評価してくれる建築家に出会えたのです。

新しい事務所は、お給料をそんなに出せない、ということで、夜他のアルバイトも許可してもらい、いま彼は吉野家の牛丼で週二日働いています。

カンジは、どこでアルバイトをしようか、と考えたとき、不器用な自分には、メニュー品目の少ない吉野屋が自分に向いている、と思ったそうです。

私はこれを聞いたとき、涙が止まりませんでした。

彼の一歩一歩、ゆっくりながら成長している姿がありがたかったからです。電話では、カンジに、「カッコいい!」と言ってしまいました。

いま、職場でのいじめがいろいろな職種で起きていて、若年層のホームレスが増えている、というNHKの番組も見ました。

カンジの事件を通して、これは決して大げさではない事実なんだ、と思いました。

もしも、カンジに底力が無かったら、この職場のいじめでつぶれていた可能性もあったでしょう。

何がカンジを救ったのでしょう。

それは、カンジを励ましてくれる下宿の人たちがいたこと、そして、彼には彼の芯の部分でしっかりと育っている自己尊重感があったのだ、ということを信じたいと思います。

稔は変わったオトコでした。JICAという堅い日本のお役所で、さぞかし回りも彼の奇想天外な発想や行動に戸惑ったと思うのです。本人も自分がどうして他人と違うのか、理解していたとは思えません。

お酒が入ったときの陽気さとそうでないときの仏頂面……。

豪胆なところ、繊細なところが入り乱れていて、言葉で説明することが不得意でしたので、上司、同僚には徹底的に愛されるか厭われるかのどちらかでした。

それでも稔は、生涯純粋な魂を持ち、人に責任を転嫁することなく、なおかつ人生の冒険を躊躇しない、という人生を疾走していきました。

おまけですが、稔が怖かったのは、奥さんの私だけ!ということを彼を良く知る友人たちが口を揃えて言います。

その類まれな個性が、あれだけの時間を費やしてカンジやショウコを育てたのです。

カンジが強いのは、稔の魂が寄り添っているからです。

私は、価値観をしっかり持ったいろいろな大人が成長期の子どもに真摯に向き合うことの大切さを信じて疑いません。

そんな大人たちに囲まれて育つ子どもたちは、育まれる自己尊重感の質が違います。

カンジの底力を私は信じています。

カンジ、がんばれ!全部の経験があなたを大きく頼もしい大人にしてくれると思って、精一杯仕事をしてね。

で、お母さんは、じっくり機会を見守って、そういうあなたにひどいイジメをした人たちに、しっかりと何かお返しをしてさしあげようと考えています。

大阪方面にお住まいの方、ふふふ、今年の暮は大阪から避難されることをお勧めいたします。



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英国での合唱コンクール

【2012.07.12 Thursday 04:20
 日曜の晩にダーバンに戻ってきました。

カフェグローブの連載が終わって、たくさんの人たちから、
「空色庵、必ず毎週更新してくださいね。毎週、峰子さんの書いたものを読むのが楽しみで、お休みされると、ものすごくがっかりするんです」
なんて、言っていただいて単純な私は感激しています。

で、
「そうだ!がんばろう!」
という決意をしたにもかかわらず一週間時間を明けてしまいました。ごめんなさい。

あのね、言い訳は山ほどあるんですよ〜。

でも、まあ、そんなことは置いておいて、今週はショウコたち、Midland & Pietermaritzburg Youth Choirの英国Walesでの活躍をご報告しましょうね。

このWalesのコンクールは、Llangollen International Musical Eisteddfod という名前の国際的な催しです。何と歴史も古く、1947年から毎年開催されていて、世界各国から参加者が集います。合唱がメインのコンクールなのですが、フォークダンスや楽器や歌唱やら、25種類の種目が6日間で競われます。

そもそも、ショウコたちの合唱団の指揮者Mr.Silkが、このWalesの出身なので、このコンクールに参加することになったようです。

今回のこのツアーには、英国女王の60周年の即位記念のためのコンサートに招待されてWestminster Churchでも歌ったり、16日間の期間中、彼らは本当にいろいろなところでその力強い歌声を披露しています。

私は米国への出張があったので、その帰り道をちょっと変更して、英国へ寄り道して、このコンクールを見学したのでした。

本当によかったです。ちょっとダーバンでの仕事も留守番の人たちに迷惑をかけたのですが、寄り道したかいがありました。

まず、このリンクから、彼らたちが Youth Choir 部門で堂々の2位となったステージが見られます。

http://llangollen.tv/en/clip/midlands-youth-choir/

このYouth Choir 部門の1位は、シンガポール国立大学の合唱団でした。大学生の合唱団と競って堂々の2位ですからたいしたものです。

会場の外であったシンガポール大学の彼らに思わずインタビューしてしまいました。彼らは音楽部の学生たちではないものの、なんと週3日、一回3時間も練習するそうです。
高校生のショウコたちは、週1回、4時間の練習ですからね、もしも、練習時間がもっとあったら、優勝するのも夢ではなかったのですよね。

それから、今回からの種目として、Show Choirというダンスと合唱を同時にする形式がありました。ショウコたちの演目は、オペラ座の怪人のメドレーからアフリカの音楽につなげる大胆な構成でした。そのダンスの振り付けはショウコがすべて担当したそうです。

当日、最終コンペに進めたのは3つのグループだったのですが、そこでショウコたちはこれまた2位の成績でした。

その最終コンペは、何とオペラ歌手の Alfie Boe のコンサートの前座のような形で行われたのですが、Alfie Boeがその3チームをステージに呼んでくれ、彼のバンドと一緒に競演させてもらいました。

華やかな舞台で心から楽しそうに歌って踊っているショウコは本当に輝いていました。

でも、実は私、この最終コンペの入場券を持っていなかったのです。

このコンクールのチケットは、インターネットで昼間の通しチケットを4日間買っていたのですが、彼らのこのShow Choirがまさか最終に残るとは思わず、あらかじめ購入はしなかったのです。

で、このAlfie Boe、英国では超人気のオペラ歌手で、彼のコンサートチケットはロンドンの大きな会場でも超売り切れ状態らしく、当日券などまったくありません。

でもね、せっかくの機会なので、会場から一旦はホテルに戻ったものの、万が一の可能性に賭けて、もう一回会場に出掛けていきました。

ショウコたちの合唱団の関係者の一人が、もしかしたらチケットが一枚余分にあるかもしれない、と言ってくれていたのです。

でも、携帯電話がこういうときに限ってうまく機能しなくなるのです。

何回かけても、通じません。

で、半べそ状態の私、何とかかんとか、言い訳をしながら、会場のテントまで近づくことに成功!

しかし、テントの入り口を守るボランティアの地域の人たちが、テントの中をのぞくことさえダメです、と強固なガード。

でも、私は南アから来ていて、娘がこれから歌うんです、娘たちの出番だけ聞かせてください、お願いします、と必死のお願いを繰り返しました。

で、そんなことを押し問答していると、ショウコたちの出番になってしまったのです。
そうしたら、私はいつの間にか泣いていたのです。

稔が亡くなった後、ショウコがどれだけ彼女なりにがんばっているかを誰よりも知っている私は、彼女のがんばりがとっても嬉しくて、涙があふれて止めようがなかったのです。

そんな私を見たボランティの人が、そっと私をテントの中に入れてくれました。

「ここからのほうがよく見えますよ」

私は感謝しながら、ショウコたちのステージだけを見せてもらい、その後、テントの外にあったイスに腰掛けました。

気持ちが張っていたのでしょう。ちょっと放心状態になっていたのかもしれません。

すると、また別のボランティアの人が来て、私に優しく話しかけてくれました。ショウを見ながらぼろぼろ泣いていたので心配かけてしまったのです。

私は彼女に、2年前に稔が亡くなったこと、それでも、娘がこんなにしっかりがんばっていることが嬉しいから涙が出てしまったの、と静かに話しました。

その数分後、その人がまたやってきて、私にこう言うのです。

「一つ空きの席があります。座りますか」

私はその好意が嬉しくて、はい、と頷いて、その人たちの後についてテントの中に入れてもらいました。

Alfie Boe のコンサートも素晴らしかったです。

そして、彼が合唱団たちをステージに呼んでくれて、彼らたちが本当に嬉しそうにステージ狭しとダンスしながら競演する姿を、私は、Llangollen の街の人たちの好意で見ることができたのです。







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Reunion!

【2012.06.26 Tuesday 14:28
 大学の同窓会がありました。

 

卒業してからなんと30年の月日が流れたことに思いを馳せると、とっても不思議な気持ちがします。

 

私にとって、1970年代の後半から大学生活を送ったオレゴン州ポートランドは、第二のふるさとです。

 

それにしても、30年ぶりに再会する友人たち!

 

期待と不安?でいっぱいでしたが、会ってみると、30年前とあまり変わらない仲間たちで、笑ってしまいました。

 

で、おかしかったのが、

 

「えっ、こんな記憶、私の脳のどこにしまってたの??」

 

という発見。

 

メキシコ出身のアレックスと私、そして今回の同窓会は参加しなかったのですが、マレーシア出身のチア。この3人は、大学1年生のとき、とにかくよく集っていろいろなことをしました。

 

3人とも、それぞれアメリカ人の友人もいたのですが、アメリカ人の友人たちの言動にちょっとげんなりしたとき、その不満をお互いに打ち明け慰め合っていたのです。

 

で、私、アレックスに会うや否や、思い出したことがあって、言いましたよ!

 

積年の恨み?とまではいかないものの、30年以上前にすっきり言えなかったことが、30年ぶりに出会った早々に口をついて出てきたことに、笑ってしまいました。

 

「アレックス!あのねえ、あなたね、私に車を運転させて、スキーに行ったとき,連れて行った女の子にハンバーガー買ってあげて、私には買わなかったでしょう!ちょっとひどくない??」

 

周りで聞いていた友人たち、大爆笑!

 

私も言ったあと、おかしくておかしく、涙が出るほど笑いました。

 

当のアレックス、大学時代のすらりとした容姿から、かなり変化したおなか周りに手を当てながら、

 

「ぼく、そんなひどいことをしたの?まったく覚えていない」

 

と苦笑い。

 

友人たちは、そのやり取りに大笑いですが、私は、“記憶”の不思議さに改めて感じ入っていました。

 

悲しいときや辛いとき、私は楽しかったこと、嬉しかったことを思い出して、厳しい局面を乗り切ります。

 

そして、いろいろな場面での鮮やかな“記憶”が私を職業的にも、個人的にも支えてくれるのを認識しています。

 

同窓会のもう一つの楽しみは、懐かしい教授陣に再会することでもあります。

 

私の卒業した大学は、小さな私立の大学なので、多くの教授陣がまだ現役でいることも嬉しいことでした。

 

Dr. Jane Atkinson は、今は教授職を離れて、副学長として活躍しています。

 

私が大学に在学中、彼女は新鋭の文化人類学者で、インドネシアのフィールドワークから戻ったばかりの時期でした。

 

1970年代のアメリカのリベラルアートの大学は、今考えてもかなり筋金の入ったリベラルな雰囲気がキャンパスを覆っていました。

 

私の母校のLewis and Clark College で過ごした学生時代は、今の私の人生を大きく支える柱になっています。

 

ここで出会った世界各国から集まっている学生たちとの交わりの中で、私は世界にある様々な文化を知り、そしてその違いの中にある普遍的な人間の感情、行動を学びました。

 

普遍性を実感する一番の方法とは、目の前にいる人の違いを超えて、その人の中にある人間性に触れること、これにつきます。

 

そして、その人間性に魅力を感じることができると、その普遍性が、困難にあった時の心の支えになるのです。

 

「ああ、こんなに違うバックグランドを持った人が、こんなことをする、こんなことを考えている」

 

という思いは私の心を暖めてくれるのです。

大学1年生が多く集まった文化人類学の授業でした。学生たちよりも、若干遅れて教室に入ってきたDr. Jane Atkinsonは、片手にコーヒー、片手に抱えきれないくらいの資料を持っていました。

 

70年代ですから、彼女は、素足に革のサンダル、スカートはコットンのフレアーです。ヒッピーよりもちょっとフォーマル、とでも言えばお分かりいただけるでしょう。

 

椅子は左側にちょこんと小さな机のついたアメリカ特有のものです。

 

そこに座わろうとした彼女、手に持っていた資料をざーっと、床に落としてしまったのです。

 

そのとき、彼女が口にした言葉。

 

“SHIT!”

 

私は日本から来てそんなに時間が経っていなかった頃です。私にとって、大学の教授が、こういう言葉使いをすることが愉快で仕方がありませんでした。

 

「ああ、いいなあ、自由でいいなあ」

 

と、思ったことを鮮明に記憶しています。

 

で、30年振りに再会したDr. Jane Atkinson。このエピソードを披露したところ、真っ赤になってしまいました。

 

私が、日本から来て間もない10代だった私がこれにどんなに親近感を覚えたか、という話をすると、彼女も感慨深げになりました。元は人類文化学の教授ですから当然ですよね。

 

記憶をたどるということは、もちろん、楽しい思い出ばかりではないでしょう。

 

でも、普段とは違うことをすることで、何十年も思い出しもしなかった“記憶”を引っ張りだすのは、なかなか楽しいことですね。

 

同窓会、とっても楽しみました。

 

 

 

 

 

 

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ショウコのココロ、ショウコのカラダ

【2012.02.21 Tuesday 23:21

「お母さん、怒って、怒って、怒りすぎると、泣いちゃうよね!」
と激しい息遣いで娘のショウコから電話がかかってきた。

ちょっと穏やかではない様子。

まあ、いつもドラマチックなショウコなのだが、今日はいつも以上に興奮している。

で、
「どうしたの?」
と穏やか〜に、聞いてみた。

すると、彼女の説明にう〜んと唸ってしまった。

事の始まりは、南アフリカの高校で最終学年に行われるダンスパーティだ。

日本ではあまりないのかもしれないが、米国などでも高校の卒業直前にはフォーマルなダンスパーティがある。その日は、女の子たちはハリウッドのスターたちのようなロングドレス、男の子たちはタキシード、またはそれに順ずるフォーマルなスーツでカップルになってダンスや食事を楽しむのだ。

もちろん、カップルになっている子たちはカップルで行くのだが、そうでない子たちは、友人、兄弟姉妹の伝手を駆使し、その晩の相手を探してくる。

ショウコの高校は半分の生徒が寄宿生でしかも女子高なので、相手役のオトコノコの確保が大変なのでは?と思われるかもしれないが、そんな心配は一切なし。

ショウコさん、かの地では合唱団や演劇などで結構有名なオンナノコで、相手ははっきり言ってより取り見取りだそうな。

でも彼女はきっぱり、はっきりしていて、

「他の学校のオトコノコがマトリックダンスに一緒に行ってくれ、って誘うけど、ショウコは行かない。だって、何回もそんなとこしていたら、自分のときの感激が薄くなるでしょう?だから、よっぽどの場合じゃないと、招待は全部断っている」

と言う。

普通の17歳だったら、嬉しくて何回でも行くと思うのだが……。

まあ、その辺は彼女の彼女たるゆえんでもあるので、放っておくこととする。

で、問題は、私のこちらでの一番の親友のサリーの息子デイビッドが、ショウコを彼のマトリックダンスの相手に誘ったこと。

正直言って、デイビッドはおとなしいし消極的だし、いろいろな面で正反対の火の玉のようなショウコに“異性”として興味があるとはまったく思っていなかった。

まあ、そういう興味がなくても、ダンスの相手としてショウコを誘うとはなかなか彼としては勇気のいることだったのでは、と想像に難くない。

ショウコの最初のリアクション。

「ええ?どうして?いやだ。他の子を誘ってよ。デイビッドの学校の女の子たち、私嫌いなのよ!」

彼女はもともとデイビッドの通っている私立の高校の小学部に通っていたから、この学校のことはよく知っていて、そしてよく思っていない。

ショウコにそう言われただけで、半べソ?状態のデイビッド。

どうするのかなぁ?と母は余計なことを言わずに見守っておりましたよ〜。

するとショウコ、

「わかった!行く、行くから!」

と、彼がその場で泣くかも?という場面を何とか回避。

……やれやれ、母と娘、親子して、オトコの涙に弱いのだ。

でも、このとき、一抹の不安は私にあったのだ。嫌な予感?とでも言ったらいいのかもしれない。

はい、予感は的中しました。

なんと!デイビッド君、事もあろうに、FACEBOOK経由でショウコにメッセージを送ってきたのだ。

「ハイ!ショックス!お願いだからダンスの日に向けて、髪を伸ばして欲しい」

まず、ショックス、とは私が彼女を呼ぶときのニックネーム。

ショウコは、もうここで怒りがめらめら。

「いったいいつから!デイビッドは私のボーイフレンド気取りになって、お母さんが使う私のニックネームを使えるわけ????」

ごもっとも。

で、それよりももっと大きな問題は、彼が彼女に、彼女の髪の毛を伸ばしてくれ、と頼んだこと。

これはショウコにとって、ものすごい屈辱だそうだ。

彼女は泣きながら私にこう伝えた。

「私は私の考えで、自分のスタイルを決めたいの。誰のためでもない、私が一番こうしたい、と思う髪形、洋服、体の在り方がある。それをたとえ私にボーイフレンドがいたとしたって、彼が私にこうしろ、ああしろ、というなんて考えられない!私の体は、私の髪は、私の考え方は私自身のものだから!!!」

17歳のショウコが、こう訴えるのを聞いて、私は感動していた。

だって、多くのオンナノコたち、好きな男の子ができると、そのボーイフレンドたちの言うこを聞くことで、その子を自分に惹きつけたい、と思ってしまう場合が多いと思う。

とっても、とっても理解できるのだけれど、若いうちにこういうことをしてしまうと、人生がとんでもない方向に行ってしまうことがあるのだ。

まあ、もっともショウコのこの場合は、デイビッドは好きな彼、ではないけれど。

それでも、ここに教訓があるなぁ。

自分の心は、自分の体は、自分が責任を持つ、自分の納得する形で人生を送る、という矜持がないと、失敗したときなど、人にその原因を見つけようとする情けないことになってしまうのだ。

どんなときでも、どんな状況でも、自分の行く道は自分が責任を持つ、といういことを肝に銘じていると、たとえ失敗しても、その痛みは乗り越えられるものだもの。

でもね、デイビッドはこんな激しいショウコの反応をきっと期待していなかったのだと思う。

で、その対処法について、いろいろ話し合った。

私は、

「デイビッドには、私の髪は短い、それでもよかったら、ダンスに行きます」

ということを優しく伝えたらどうか、と提案。

私の友人の一人が同じようなことを提案、でも、彼の提案の中には私では考えられないようなオトコの視点が入っていた。

「……And I will look gorgeous in my short hair!」

これを翻訳すると、「そして短い髪の私はものすごくゴージャスに見えると思う!」

日本語になると、ちょっとニュアンスが違うが、まあ、この男性の視点に私は脱帽。

私の「優しく伝えなさい」に激しく抵抗していたショウコも、このラインが気にいったようで、Facebook でこのメッセージを意気揚々とデイビッド君に送ったようだった。

さあ、この顛末はまたの機会に!





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自分でやるんだね!

【2012.01.22 Sunday 03:14
 もう後2ヶ月も経たないうちに、夫が亡くなってから2年が経つ。

あっという間だったし、いや、なかなかしんどくも長い2年だったのかもしれない。

最初のショックの後は、“怒り”の感情に支配されていて、いつもなら、怒り、という感情はそう長続きしない私にはしみじみ辛かった。

怒りの感情の後に来たのが何だったのか、いまでも分からない。でも、季節は確実に変わっていった。新しい出会いが新しい仕事や人間関係を広げてくれた。

生前の夫はかなり私を甘やかしてくれていたのだと思う。

家の修理や会社の経理、そういったこまごまとした日常の業務は彼がすべてしてくれていた。

だから私には、修理にお金を払う、という習慣がまったくなかったのだ。

稔は、車から、エアコンから、ドアから、子どもたちのおもちゃから、私のコンパクトの留め金から、何から何まで壊れたものは修理してくれた。

そういう便利な人間が何の前触れもなく、姿を忽然と消してしまう、というのはなんとも残酷なことなのだ。

オートメーションで動くゲートが壊れる。
テレビが動かなくなる。
カラス窓が割れる。
電気の回線のどこかがショートする。
冷蔵庫が壊れる。
椅子の足ががたがたする。
ファックスが壊れる。
スキャナーが壊れる。
エクセルの数式が壊れる。
インターネットのルーターのパスワードが分からない。
パソコンの画面が壊れる。
浄水器のフィルターの代えが見つからない。
バイクのお客さんからの依頼がくる。
新車輸入のライセンスの書き換えの時期がくる。

そして、一番困ったのが、
夜中に足がつったとき、マッサージしてくれる人がいない、ということ。

天を見上げて、

「ちょっとでいいから帰ってきてくれる?」

と何回頼んだことか。

でもね、私は、つくづく、心が頑丈なオンナなのだ。

こういうことを幾百回か繰り返していくうちに、稔がいない毎日が日常となっていったのだ。

人が死ぬということは、人が死んだ、という事実を受け入れる、ということは、生身の姿ではもう目の前に現れない、ということが普通になっていく事なのかもしれない。

それに、私は稔に25年間、守ってもらっていた。これってそうないことなのかもしれない。

私はとっても強いオンナなのだが、稔は私の欠点や長所をよく知っていて、私の不得意分野をがっちりカバーしてくれていたのだ。

そして、稔の死後、息子のカンジはとってもやさしいオトコノコだから、私が大丈夫かどうか、常に常に彼なりに見守ってくれていた。

息子として、夫のいない環境をカバーしてくれていた。

その彼も1月の中旬に自分の新しい居場所を日本に求めて旅たった。

その出発の日が近づいてくるに従って、私にも覚悟ができてきた。

「自分でやるんだよね!」

という覚悟。

そうだ、私は昭和30年代に生まれ。

自分のことは自分でする、という価値観を叩き込まれて成長したはずなのだ。

だから、自分で物事を解決する、自分の手に負えないときは専門家の助けを請う、という手順を受け入れればいいのだ。

お金はかかるよね!

でも、これだけ朝から晩まで人の軽く3倍は働いているのだから、そのくらいの人件費は捻出できないはずがない。

それにこんなこと、当然のことなのだ。一人でがんばっている人なんか、星の数ほどいるんだし!

娘のショウコは、もうすぐ18歳になる多感なお年頃。彼女にとって、自分の専門を持ち、仕事のオファーが次から次から私の元に来るのを大層、カッコいい、と思っているらしい。

が、仕事以外の面では夫が私を甘やかしていたのを知っている彼女も、私のことをかなり心配しているらしい。

彼女は、一人で生きていくオンナ、というのにものすごく憧れているそうだ。

結婚なんかしたくない、とまで言う。

なぜなら、本当の意味でバランスの取れた、仲の良い夫婦、というのをあまり見たことがないからだそう……。

まあ、若い彼女ゆえ、夫婦、というか、パートナーというものは表面的なことだけでは分からない奥深いつながりがあるから、そんなこともゆっくり考えて行ったらいいと思う。

2011年は、仕事があまりにも忙しく、嵐のように過ぎて行った。

2012年はもう少しじっくり、ゆっくり、仕事だけではなくて、自分がこれからどういう風に残りの人生を過ごして行きたいか、ということを考えながら、私生活では、ちょっとアドベンチュラスなモードも楽しんでみようかと、もくろんでいるところ。ふふふ。

人生って、一回きり。

やりたい事は、冒険だったとしても、やって行こう、と思う。

やらない後悔よりも、やった後の反省やら後悔やらのほうが人生は楽しいなぁ。




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“大人のケンカ”は、こうしなくっちゃ!

【2011.02.01 Tuesday 12:37
ふふふ、何やらブッソウなタイトルだ。

皆様、2011年の最初の月がもう終わってしまいました!

新年のご挨拶がこんなに遅れてしまってごめんなさい。今年は、この空色庵の更新も最低でも月2回を目指していたのに、しょっぱなからこのありさま……。

2月からは心を入れ替えて、がんばります!

さて、タイトルに戻って話を続けると……。

私はただの一度も「ああ、若い頃に戻りたい」と、思ったことがないオンナなのだ。だって、若い頃ってなかなか不自由なことも多いと思う。

「こんなことしてもいいかな」っていうのが、若い頃は結構あったような……。

いや、そうでない人もいると思う。でも、大人!になると、こういうことがあまり気にならない、というか。

いや、年を取ると逆に“世間体”とかが気になるのでは?

う〜ん、それはその人の人生の捉え方なのかもしれない。少なくても私は、自分の行動を自分で責任が取れる年齢から、自分の感覚やら、おヘソの奥の方で示してくれる方向性に躊躇なく邁進してきているような気がする。

それが例え、“世間様”に全面的に賛同してもらえなくても。

それに、“違うこと”に対する違和感やら、恐怖心やらがとっても小さいことも私の背中を押してくれているのだと思う。

私は今の自分の年齢が好きだし、年齢を重ねることによってできることが増えていくのがとっても嬉しい。

「大人だからできること」が世の中たくさんある。

特に、我が家の子どもたちはアフリカで育っているので、これは骨身にしみている。

例えば、先進国に住む子どもたちのように、公共交通機関を使えることがないので、どこに行くにも親がかり。これは中学生くらいになると、かなり情けないことなのかもしれない。でも、社会的にそういった設備が整っていなのだから、仕方がない。

正直言って、“大人の実力”というもを、これでもか、これでもか、と見ていると、子どもたちは、当然、

「ああ、早く大人になりたい」

と熱望する。

私は、これは至って健康なことだと思う。

大人に責任を負わせて、自分たちは子どものままで大人に甘えていたい、と子どもたちに思わせてしまう社会は、やはりどこかおかしいと思う。

さて、「大人のけんか」について。

娘・ショウコは普段は寄宿舎生活なのだが、スポーツなどでの対抗試合やらで、ダーバン近郊の学校に遠征に来ることもある。

この日の“大人のケンカ”は、そういった試合の日程を親である私に伝えるときに起こったコミュニケーションの行き違いが発端。

長い話を簡単にすると、集合時間を一時間半も早く私たちは教えられ、延々と他の人を待つはめになったのだ。しかも、その集合時間に間に合わせるため、土曜に働きに来るスタッフの一人の仕事をキャンセルしてもらっていた。つまり彼女はこの日の収入がなくなった、というわけ。これがどういう意味をもつか……、ショウコは十分理解している。

また、毎朝、4時起き、一日16時間くらい働いている私のことをショウコはよく知っていて、そんな私を週末の朝、自分のスポーツのことで時間を無駄に過ごさせたことがたまらなかったのだと思う。

結局、この引率の先生がショウコに間違った時間を伝えたのだが、彼女は断じてそんなことは言っていない、と言い張る。

ショウコは、「絶対に聞いた。だって、そうじゃなかったら、どうして私がそんな時間を言いだすの」と、一歩も譲らない。

南アの教師というものは、とにかくまだまだ威厳があるし、普通、子どもたちは一切の口答えを許されていない。

ショウコは悔しさのあまり、最初の試合はまったく調子がでず、惨敗。試合後、もうこんな監督の元ではプレーができない、おうちに帰りたい、とさめざめ泣いていた。

なんでショウコが泣いていたか、というと、この誰が何を言ったか、言わないか、の議論の最後、この先生が、

「わかった、私が罪をおえばいいんでしょう?あなたのお母さんにだって謝ればいいでしょう」

とかなり開き直った様子で彼女を責めたのだ。

それが悔しくて、悔しくて、さめざめと泣いていたショウコ。

「大人のくせに、子どもみたいに私を脅かした」

それを聞いた私はこの先生からの“謝罪”をひっそりと待っていた。

ところが、その気配まったくなし。ショウコもこれに対しても、怒り心頭、という状態でまたまた泣いているようだった。

そこで、私は、この先生に直接向き合うことにした。

ショウコの今の状態を話し、彼女の主張していることも伝えた。

すると、彼女、にっこり笑って、

「ああ、そんなこと、もうあまり関係ないですよね。だって、もうみんなここにいるわけだし、みんなこんなに楽しく時間を過ごしているわけだから」

と、かなり都合のよいことをまくしたてた。

う〜ん、これはタチが悪い、と判断した私は、この先生にゆっくり、こう切り返した。

「う〜ん、その認識は間違っています。ショウコはいま、決して幸せな状態ではありません。それに、先生は、いま、ご自分で自分には30人の子どもたちを見る責任があって、とおっしゃいましたよね。ショウコは30人の子どもを見る必要のあった先生とは対照的に、一人の母親に時間を伝える義務があったわけで、そのことを考えると、ショウコが時間を間違える可能性は低いと思います」

すると、先生、鼻がひくひくしてきて、

「じゃあ、どうすればいいのですか?」

と、謝る気持ちはまったくない様子。

「先生はどうしたらいいと思いますか?これはこのままでは何にも前進できませんよね」

すると、

「私が謝罪すればいいのかしら」

私は、このタイミングをきっちりと捉えて、

「はい、先生の謝罪、いま、私、受け取りました」と先手を打った。

自分が「謝ればいいの?」とカマをかけてきた瞬間に、相手から、「はい、その謝罪、受けました」と言われてしまったので、もう先生、自分が悪かったことを間接的に認めざるを得なかったのだ。

私は、にっこり笑って、

「先生がそう言ってくださるの、待っていたんですよ。ありがとうございます。これで、一件落着にしましょうね」

そして、さっさとその場を立ち去った。

あまり、こういった“対立”はしなくなったとはいえ、やはり“オトナのケンカ”は、相手のメンツを立てつつ、こちらの要求をきっちり通すことに意味があるわけで……。

まだまだぐずぐず泣いていたショウコも、

「お母さん、ごめんね。忙しいのにこんなに待たせてしまって。でも、もう大丈夫。次の試合はがんばるから」

と、気持ちを立て直した様子。

私が忙しいのはいまに始まったことじゃないし、こういう一見、無駄に見える“待ち時間”だって、久しぶりに晴れた気持ちのよい青空の下、実はけっこういい休息になったのだ。

それに、子どもの成長する過程のこんな場面、一つ一つが私にとっては宝石のようなもの。

“大人のケンカ”も見せてあげられたしね。

さあ、明日もがんばろうっと!

author : y-mineko
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吉村 峰子
writer
English & Japanese
language instructor
interpreter
(Japanese - English)