読書のこと、映画のこと | 空の続きはアフリカ
ネル…と聞くと涙が出るわけ

【2009.12.21 Monday 15:57
 私は「ネル……」と聞くだけで涙が出てきてしまうのだ。

まだあればマラウィに住んでいたとき。南アフリカ出身の人の家に遊びに行くだけで涙がウルウル出てしまい自分で自分を呆れた。でもそのくらい、南アとは、私にとって、「奇跡の国」だったのだ。まして、その頃、南アに移住するとは夢にも思っていなかった。

「ネル……」とは、もちろん、「ネルソン・マンデラ」氏のこと。

そして、まずいなぁ、という予感はあった。きっと、最初から最後まで涙が止まらないだろうなぁと。

だって、この映画、マンデラ氏がどのようにして、自分を迫害してきた南アの白人たちに自分たちが暴力を使わずに彼らを許し、そして彼らから受け入れられたか、ということを南アでは圧倒的に“白人のスポーツ”、ラグビーを通して描かれているのだ。



2009年の12月11日、全米で封切りになったばかりのハリウッド映画。ここ南アでも同じく封切りされた。クリント・イーストウッド監督、モーガン・フリーマンがマンデラ氏、そしてマット・デーモンがこの時の南アのラグビーチームのキャプテン、フランシス・ピネアを演じている。

ちょっと脱線するが、それにしても、クリント・イーストウッドは、近年、ものすごく見応えのある映画をたくさん監督していると思う。モン族のことを描いた Grand Trino も傑作だと思った。実は、私はこのモン族のことは数年前に、大変印象深い本『The Spirit Catches You and You Fall Down』で出会っていて、このことはまた別の機会に書かせていただくことにする。

さて、案の定、映画の冒頭から、私は涙と鼻水でぐずぐず……。

私くらいマンデラ氏のことを大好きで、マンデラ氏のことをこれだけ長い間、様々なメディアで追い、子ども向けの本まで日本語で出版させていただいているのに、この映画を見て、つくづく、「そうだよねぇ、白人たちが初めからマンデラさんを受け入れていたわけないよね」と、思い当った。

考えてみれば、私が南部アフリカに住み始めたのは、2001年くらいからだから、もうその頃には、マンデラ氏は、大統領職もきっぱりさっぱり一期で退任していた。彼の任期中、最初は彼と彼の黒人政権に仕返しをされるだろう、と疑いを持っていた南アの白人たちもマンデラ氏の度外れた、尋常ではない、度量の大きさ、懐の深さを認めざるを得なかった。そして、皆が彼を敬愛するようになった。

だって、彼は白人に仕返しをしなかった。自分と自分の仲間を迫害し、多くの人を監獄につなぎ、権利を奪い、命を奪った人たちに、一切の仕返しをしなかった。

自分から、この国の圧倒的多数の黒人たちに、「お手本」として、こう言い続けた。

「私をリーダーとして選んでくれたんだよね。だったら、私の言うことを信じて欲しい。白人を迫害したり、差別したりしたら、駄目なんだ。彼らを許そう、彼らと一緒にこの新しい南アフリカを造っていこう」

映画の中でも、当初彼のこういった姿勢を側近から、「それでは逆に、自分のことを聞け」という独裁者のメッセージになってしまう」という意見もあった。家族も彼のあまりの寛容の姿勢を最初は受け入れられなかった。でも、彼は、「いや、違う、私が手本を見せないと駄目なんだ」という確固たる意志を曲げなかった。

マンデラ氏の凄さはここにある。

彼の潔さや寛容の精神も凄いのだが、リーダーとして自分の評判を気にする、ということよりも何よりも、真に必要なことは断固でもやり遂げる、という姿勢。もちろん、これは両刃の剣。使い方を誤れば、悲劇はどこの文明にもあることを歴史が証明している。

でも、マンデラ氏はきっぱりとそれを成し遂げ、さっさとその権力も未練なく投げ出した。

南ア人が人種を超えて、彼のニックネーム、“マディーバ” を口にするとき、どんな早口の人でも、「マ・ディー・バはね……」と、ゆっくりになるのは、彼らのマンデラ氏への尊敬が込められている。多くの人が彼の名前を口にするだけで、極上のお菓子でも、はたまたワインでも口にしているかのように、恍惚の表情になるのもとっても素敵。

映画になる前から、私はマンデラ氏が1995年のラグビー・ワールドカップの最終戦で、南アのナショナルチームのユニフォームを着て選手たちを激励したことを知っていた。そして、それがどれだけ多くの白人南ア人の心を動かしたかも知っていた。

でも、この映画を見て初めて、それが実際にどんなものであったのか、ということを映像で教えてもらった。

そして、

「ああ、分かったような気になっていたけれど、ちっとも分かっていなかった」

と、改めて、その当時の南アの人たちの思いを考えた。

人種差別政策(アパルトヘイト)を実施していた白人政権は実は自分たちの仲間である白人たちからも、彼らの権利を奪っていたのだ。多くの一般の白人南ア人は、「黒人は劣っている人種であり、自分たちが支配しなければ、何もできない。マンデラ氏の所属しているANCとはテロリスト集団」ということを、これでもか、これでもか、と人々に伝え、彼らを洗脳していた。

そして、多くの南ア人が、自国を出て初めて、自分たちの祖国がどれだけ国際的に非難されているかを知った。

だって、国内には白人政権をきちんと批判する力が育っていなかったから。多くの人たちは、政府の流す自分たちに都合のよい情報しか入手方法がなかったから。

「世界のスカンク」とはその頃の南アのあだ名。

テレビ番組でさえ、欧米の物は許可されていなかったのだ。

そういった中でも、もちろん、果敢に政府に抵抗する運動家はいた。でも、一般の大衆はそういうことから遠かった。

だからこそ、マンデラ氏が27年間の投獄生活から解放されても、それは、「自分たちが今度は迫害される」という思いが人々の頭によぎった。実際、多くの白人南ア人がこの頃海外移民をしている。

黒人が、「今度は自分たちの番だ」と高揚するのも当然。そして、「白人をやっつけよう!」と思ったとしてもそれは当然のことだった。映画の原作となった本にも、この当時の南アは内戦状態になる要素は必要以上にあったと明記している。

が、マンデラ氏とその仲間たちは、内戦でこれ以上の犠牲を増やすことを選ばなかった。これが、「南アの奇跡」なのだ。

この「南アの奇跡」は、別名、「交渉による革命」とも呼ばれている。

私は平和や人権と言った概念を教育にいかに取り入れるか、ということを研究し、実践してきた人間として、まだまだその転換期にある南アに住んでそのマンデラ氏の蒔いた種がどんな形で大きな実りになるかを見届けたい、と思い、いま、ここで生活している。

映画館の隣に座っていた白人老夫妻が、私が上映中、ずっと泣いていたことに気がついたようだった。「どうして?」と明るくなりかけた館内で私を見つめた。私が、「I love Madiba! 」と言うと、「Oh, you too?」と言って、笑顔になった。

さて、最後に、実は、南ア国内では、この映画は手放しで歓迎されていないことも参考のために付け加えておこう。それは、このハリウッド映画が主演級の俳優に南ア人以外の俳優を採用したことに原因がある。

モーガン・フリーマンのマンデラさんの英語にも、かなり文句が集まっている。が、マット・デーモンの白人南ア英語には、かなり辛口のラジオのパーソナリティたちも、口をそろえて、「完璧!」と称賛しているのは微笑ましい。


author : y-mineko
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新しいトモダチ

【2009.11.18 Wednesday 17:02

自分たちで選んだこととはいえ、多くの土地を歩き、家を移り住み、という人生で、新しい土地での“トモダチ”作りはそう簡単ではない。

夫が政府系の役人でアフリカの都市を移り住んでいた時代は、それでも周りもみんな同じ境遇だったこともあり、比較的短期間に親しい友人たちができた。それこそ、いまだにつきあいのある友人たちもたくさんいる。

リベリアの首都モンロビア。あの海の音の聞こえる街でありながら、あまりの暑さ、湿度の高さで、私たちは常に空調の利いている部屋で奨学金の査定をしたり、おしゃべりをしたり……。その時、一番親しくしていたデンマーク人のエバは二年前乳がんで亡くなった。

時折電話で近況を確かめ合うエバの夫・アンドリューはケニア人。もう確か80歳に近いはずなのに、この頃、新しいパートナーができたそうだ。

「ほお〜」と感心してしまった。エバも苦笑しているだろうなぁ。

エバと私はお互い米国人ではないのだが、「在リベリア・アメリカ女性の会」という組織に入って、いろいろ活動していた。私たちがこの組織に惹かれていたのは、リベリアの子どもたちに奨学金を与える、という目的がしっかりしていたから。

活動し始めて2年くらいして、私はこの組織の奨学金委員会の委員長にまでなってしまっていた。

リベリア中から届く奨学金申請の手紙。中には判読できないようなひどい殴り書きもあった。メンバーの中から、「こんなひどい体裁の手紙を書く子は、結局成績審査に残らないんだから、はじめから相手にしなくてもいいのでは」という意見が出た。

私たちは、一週間で大量に届く子どもたちの手紙に、一通、一通返事とともに申請書を送付していたのだ。

確かに、週一回、ボランティアが集って進める作業量は増えるばかり。手書きのひどいものをその場で淘汰していたら、かなり作業量はかなり減るのは確実だった。

大方のメンバーが同意しそうになったが、私はそのとき新参者ながら、「それは違う」と思った。

1980年代後半のリベリアは戦争前のリベリアで、まだまだのんびりしたところがあった。人々の暮らしは楽ではなかったが、それでも市民生活は存在していた。少なくても銃器の音に脅える必要はなかった。何よりも郵便が機能していたのだ。

私は思い切って、

「仕事量が減るのは嬉しいけれど、でも、私たちに手紙を送ってくる子どもたちって、大人たちから社会から一回も丁寧に対応してもらったことがない子もいると思う。そういう子どもたちに、私たちが、平等な立場で一人一人に“返信”する、というのは、この子たちにとって大きな意味があると思う。きっと、奨学金がもらえなくても、自分宛の手紙をもらうこと自体がものすごいことなんだと思う。きっと、自分を一人の人間として扱ってくれた、というような温かい思いをこの子たちは受け取るんだと思う。そのためなら、汚い字でもがんばって読もうよ。返事をもらう、ということがこの子たちに、何かのメッセージを送っているんだと思う」

というようなことを言ったのだ。

私は、リベリアの田舎街で、郵便局で自分宛の初めての封書を受取るリベリア人の子どもの姿が想像できたのだ。

そのとき、エバが、

「You are good.  I almost agreed not to respond to bad letter writing.  But you have a point. ―― あなた、いいわね。私もほとんどそういった手紙を無視することに賛成しそうだったけれど、あなたの言うことに一理あるわ」

といってくれた。私はそのときのエバの目を細めながら私の顔をじっと見つめながらそう言った口の動きさえ覚えている。

日本人の若い新参者(その頃まだ20代だった私!)が、大方のおばさまたち、特に米国大使館の外交官の奥様たちがほとんどの会で、“反対意見”を言うのだから、今思えばかなり大胆だったのかもしれない。

こんな四半世紀も前のことを思い出したのは、先週読み終えた、単調な小説の中のある一節にかなり激しく反応してしまったから。



Anita Diamant 2001

この本は30代後半と50代後半の女性が新しい人間関係を築く物語。年上の主人公の一人は乳がんの手術をしたり、その治療に悩んだりする。物語の展開はあくまでも二人の日常をたんたんと描きながら進むので、普段犯罪小説やミステリーを多く読む私にとってはちょっと物足りなかった。

が、その若い方の主人公がある場面で、ある女性にこう言われたシーンがあった。彼女は、PTAの会合で意気投合したこの女性に、「今度コーヒーでも飲みましょう」と誘ったのだ。

すると、この女性は、「ごめんなさい、私、いまいる友人たちだけで手いっぱい。新しい友人を作る余裕がないの」と答えたのだ。

これ、私には“ざっくり”ときた。

確かに、確かに、同じ場所にいて、同じ友人関係に囲まれていたら、“新しいトモダチ”って、面倒くさいのかもしれない。

でも、自分の意思とは関係なく、例えばパートナーの転勤、病気、親の介護、などなど、思いもかけない理由で、人生思わぬ理由で新しい土地に移り住まなくてはならない人はとっても多い。

そんな人たちにとって、「新しいトモダチはつくらないのよ」と、拒絶されるのって、本当にツライことなのだ。

差し出す手は握り返す、ってそんなに大変なことじゃない、と私は思う。私は差し出されたら、もったいなくて絶対に握り返してしまう。

本全体にはあまりココロは踊らなかったけれど、この一シーンはいつまでも私の中に残りそうな気配がする。

エバはもう亡くなってしまったけれど、私はエバと過ごしたあのリベリアでのこと、彼女たちを英国に訪ねたこと、また、彼らが日本に来てくれたことなどをたくさん思い出す。

エバのその発言で、その場にいた全員が、「その通りね」と頷き、どんなに汚い手紙でも、組織としてリベリアの子どもたちの手紙には必ず返事を書く、ということに皆が考え直してくれたことも忘れられない。

author : y-mineko
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吉村 峰子
writer
English & Japanese
language instructor
interpreter
(Japanese - English)