空の続きはアフリカ
偏見と差別、何のために?

【2016.05.29 Sunday
17:48
考えてみれば、こと、“差別・偏見”という感情に関して、私はかなり幸運な出会い方をしていたのかもしれません。

「カズコちゃんはチョウセンジンなんだよ。何でカズコちゃんと遊ぶの?」

と、囁かれた私は当時小学5年生。

そこは東京の郊外の田舎町。転校した小学校に入学してほどなくしてこんなことを数人の女の子に伝えられたのです。

その時、私は、ただ、平気な顔をして、「ふ〜ん」と言ったはずです。

不思議なことなのですが、私にはこの頃よりももっと幼い頃から、どういう理由で備わったのかは確かではありませんが、「小さい声で囁かれる情報は変なものが多い」という、ぼんやりしてはいるものの、かなり確固とした“知恵”のようなものがありました。

でも、その時の自分の心臓の激しい動悸は記憶に鮮明です。

「これ、何かがおかしい。何かが変だ」

と、根拠ははっきりしないものの自分の中に怒りの感情が湧き上がってきました。

学校が終わって駆け足で家に帰り、母が仕事から戻るのを待ちました。帰宅した母にこのことを告げると、母は時間をおかず、静かにこう言いました。

「カズコちゃんはみいちゃんのお友達でしょう。これまでどおり、まったく普通にあそびなさいね」

母は、実直な性格で働き者でした。この頃の母は、何かを口で言い含めるようなことはあまりせず、黙々と自分の仕事をこなし、母の信条であった決めたことをきちんとする、ということを自分の身を持って教える人でした。

昼間は片道一時間以上かけて八王子の呉服屋さんで働きながら、当時移り住んだ土地の閉鎖的なしきたりとも戦っていたようでした。

母は、昭和一桁の東京生まれで、第二次世界大戦を東京で経験した人でした。もちろん、日本がこれまでしてきた韓国・朝鮮籍の方々への差別をたくさん見てきたはずです。が、新しい土地に移り住むことで、いわれのない偏見や誤解とも自分たち夫婦が戦っていたこともあって、子どもたちの噂話からさえも分かるカズコちゃん一家への偏見は、非常に好ましくないもの、と判断したのでしょう。

思い返してみれば、父も母も、韓国・朝鮮籍の人たちのことを悪く言ったり、差別したり、ということを家庭に一切持ち込みませんでした。よって、私も妹たちもそういった感情に触れたことも向き合ったこともなかったのです。

「どうして、トモコちゃんたちはそんなことを言うの?」

という私の質問に、母はこう言いました。

「トモコちゃんたちも可哀想だね。周りの大人にそんなことを言う人がいるのかな。大人はいろいろあるからね。でも、子どもはそんなこと関係ないでしょう。子どもは大人とは違うんだよ」

私はこの母の言葉に安心し、納得し、次の日もその次の日も、カズコちゃんとどんどん仲良くなっていきました。カズコちゃんのお母さんの作ってくれるおやつや食事が大好きだった私は、放課後、本当によく彼女のお家に遊びに行きました。

ただ、早熟な本の虫だった私は、島崎藤村などの文学から、カズコちゃんやカズコちゃんの家族が国籍の違いが原因で差別され、就職や結婚などでも大変理不尽なことを強いられていることをそれから時を経ずに学んでいきました。

文学の中で繰り広げられる惨酷な人種差別の実態を知れば知るほど、私は憤りに振るえました。そして、自分は決してこういうことを広めない大人になろう、と真剣に思いました。

ただ、カズコちゃんとの仲は、別にこういった“義憤”によって成り立っていた、という訳ではなく、ただただお互いに気があった、ということが大きかったのです。

私が冒頭で、「“差別・偏見”という感情に関して、私はかなり幸運な出会い方をしていたのかもしれません」と書いたのは、10歳前後の私の心に、このカズコちゃん事件は、国籍が違うだけで、人を卑下したり、差別したりすることが、いかに下賤で下品で知性のかけらもない行動であるか、ということを明確に指し示してくれたからです。

その後の私の人生に大きく影響を与える人種差別の愚かさを学んだのです。

私の耳にそんなことをささやいた数人の女の子たちがその後どんな人生を送ったかは知りませんが、カズコちゃんと私は大人になり、社会人になり、結婚し、母親になり、といった人生の節目節目に関わり続けています。

カズコちゃんはいまは帰化して日本人になっていますが、在日韓国人として、日本に生まれ育ちました。ご両親、特にお母様が韓国の伝統的な価値観を大切にされる方で、一族の絆をそれはそれは大切にされていました。

カズコちゃんは昔から、そのおっとりとした性格がそのまま顔に出ているような人で、結婚前の一時期、白無垢の花嫁さんのモデルをしていたこともあります。

写真を通してもそのまま伝わってくるような彼女の素直で優しい性格は、正に一昔前の従順で無垢な花嫁さんでした。

彼女の家族よりもやや近代的な価値観で育てられた私には、彼女が高校を卒業して家の飲食店のお手伝いをさせられて、お小遣い程度の“給料”をもらっていることなどにも違和感を覚えたことを覚えています。

若い小娘だった私がその時想像さえできなかったのは、家族を守るためには、時間をかけて、幾世代もかけて自分たちの地位を確立させていく、という考え方だったのかもしれません。差別がひしめく日本社会で娘を働かせて、必要のない差別を受けることから守ることだって親だったら当然考えていたことでしょう。

その伝統的な家族観にしっかり守られていたからこそ、彼女の鷹揚とした性格がそのまま生き延びたとも言えるでしょう。

そして、次世代の親となったカズコちゃんの子育てを見ればあの時のお母さんの選択が正解だったことがよくわかります。

同じ韓国籍の男性と結婚し、三人のお子さんにも恵まれましたが、残念ながらお連れ合いは病気で早逝されました。カズコちゃんの三人の子どもたちは、家業を継ぐわけでもなく、自分の選択したそれぞれの道を歩き始めようとしています。

昨年の暮れ、彼女の家族と何十年かぶりで再会しお食事を楽しむ機会がありました。カズコちゃんとは何回も会っているのですが、お姉さんご一家とはそれこそ、50年近く時を経た再会でした。

そしてその時、私の文章を前から読んでいてくれていると言う、カズコちゃんの姪の20代の娘さんから、大変意外なことを教えてもらったのです。

「峰子さんのこと、聞いていました。昭和40年代の差別がたくさんあった時代に、何の偏見もなく付き合ってくれたんだと。お母さんも一緒に一切の差別なくお付き合いしてくれたって」

不意を突かれて、泣いてしまいそうでした。

差別する、偏見を持つ側が一方的に悪いのに、こんな思いで私と私の母を見てくれていたんだ、という思いに胸が詰まりました。

50年前のあの土地の思い出が目の前に戻ってきました。

現在、南アフリカで、仕事にも恵まれ、友人にも恵まれ、二人の子どもたちもそれぞれが自分の道を歩き始めて、幸せに暮らす私の芯を支えるのは、こういった人とのつながりなんだと、つくづく思いました。

しかし、出自、出身国、または肌の色などで、人を差別し、迫害を加える人たちが世界には、そして日本にも大勢います。

私は日本に生まれ、日本、米国、欧州で教育を受け、大人になってからは人生の大半をアフリカで過ごしています。

もちろん、アフリカにも、特に南アフリカにはまだまだ人種差別は存在します。私がその差別の被害者になることもあります。
が、それがいかに何の意味もないものであるか、という事をどう伝えていけばいいのでしょう。人種、宗教に関係なく、気の合う人は気が合うし、合わない人は日本人同士だって合いません。

街頭で、

「朝鮮人は出ていけ」
「外国人は日本に住むな」

と人種差別を支持する人たちが叫ぶたびに、彼らが大事にしたいはずの“日本”のイメージが世界中に汚されて発信されます。

ヘイトスピーチの解消に向けた推進法が2016年5月24日、衆院本会議で可決、成立したのはたとえ現在罰則規定がなくても、大きな前進だと思います。

ただ、私は、ヘイトスピーチに賛同する人たち、その周辺の子どもたちに、推進法以前の問題として、出自、国籍って何なんだろう、人を攻撃してまで守りたいものというのは何なんだろう、と考えて欲しいのです。

私が常に思うのは、さて、500年後、私たちは何をしているのだろう、ということです。

国境はあるのかな?

パスポートは?

言葉は?

こう考えるとワクワクしてきませんか?

あと500年待たなくても、私たちは現在でもかなりいろいろな文化から刺激を受けて暮らしています。どうせなら、喧嘩するより、仲良く暮らせないのかな、と単純に思うわけです。

せっかく何かの縁があって出会った人たちとのつながりを大切にしてこそ、の毎日であり、人生です。

 
author : y-mineko
| 大切なこと | comments(4) | pookmark |

月額3000円の子ども手当で妊娠を望むって?

【2015.11.18 Wednesday
23:47

南アフリカの第三の都市ダーバンから約45分ほど車を走らせると、目の前に広がるのは、行けども行けども果てしなく続くサトウキビ畑です。

ここは、クワズールナタール州の田舎、Hibberdeneと呼ばれる地域で、ウグ郡のUmzumbe Municipality内にあり、自治区全体の人口は約16万人です。主たる産業は農業ですが、人口の大多数を占めるZuluの人たちはこの延々と続くサトウキビ畑の持ち主ではなく、必要な時期だけに雇われる農業従事者です。

ここで郵政省のボランティア貯金助成金JICA草の根技術協力事業JICAの小規模プロジェクトなどをつなぎながら地域の発展のため、40校に上る小中学校、高校に図書館を寄贈し、学校菜園のプロジェクトを2003年から続けている日本人女性がいます。

平林薫さんは、ANCAfrican National Congress)の東京事務所の最後のスタッフの一人でした。薫さんはANCの事務所で働きながら南アフリカに惹かれ、ついに1997年南アに移住してしまった女性です。

その薫さんの案内で、彼女たちが図書館を設置した小学校、高校を何校か訪問しました。

薫さんが現在南ア代表を務めるアジア・アフリカと共に歩む会(TAAA)は地道に活動を続けていて、図書館に回す予算がまったくなかった地域の学校に確実に図書館を設置してきています。

多くの経済的に恵まれない家庭の子どもたちが通う地域にある学校で、子どもたちが自由に本を借りられるのは素晴らしいことです。

今回はあいにく、実際の図書館の活動は見学することはできなかったのですが、ある小学校での校長先生との話に私は深く心を動かされました。

校長先生は、Mrs. Mbambo 。このBhekizizwe 小学校に赴任されてから10年が経ちました。私たちが訪問した日、彼女は盛んに明日のお天気を気にされていました。なぜかというと、次の日はこの小学校の一年の最も大切な行事が控えていたのです。


それは、子どもたちを電車とタクシーを利用させて、HibberdeneからDurbanまで遠足に行く日だったのです。

その費用は日本円にして約1800円。これを親たちが1年かけて貯金するのです。全校生徒200余名の中、71名が今年は参加、ということでした。

残された130名の子どもたちのことに話が及びました。

1800円というお金は、多くの家族によって、一年かけても貯めることができる金額ではないのです。残念ながら。行けない子どもたちはかわいそうだけど、これがこの地域の現実です」

たった一時間しか離れていないダーバン。でも、この地域の子どもたちにとって、そこは遠い大都会であり、そこまでたどり着くのは並大抵のことではないのです。

この話を聞いてから、段々と言葉が少なくなってきた私に、校長先生がさらにこんなことを言い始めました。

「私が何を残念に思うかというと、この小学校でいい成績を残した女の子たちに限って、高校に入って9年生までにほとんどが妊娠して高校を退学してしまう、ということなのです。元気で活発だった女の子がほとんど皆そうなってしまう」

この社会的背景が何か、想像できますか。

実は、南アフリカでは、子ども手当、という福祉制度があって、子ども一人につき、月額3000円程度のお金が政府から支給されるのです。

考えらえないことですが、こういった田舎に住む、他に何の収入のあてもない女性たちが、この微々たるお金を目当てに妊娠し出産にいたるのです。

「彼女たちの親たち、とにく母親はこういうことをどう考えているんですか」

という私の問いに、校長先生はこれまた非常に過酷な現実を述べ始めました。

「彼女たちの母親は、だいたいがアルコールに溺れていて、母親らしいことは何もしていないのですよ」

これがすべてだとは思いません。が、現在9年生というと年の頃は145歳です。とすると、母親たちは30歳前後なのです。十分な教育を受けていない、就職先が本当に限られている地域で、多くの人たちが、希望もなく、またどんなことをしたらいいか見当もつかないで、アルコールや麻薬に溺れている、という現実がそこにありました。

アフリカに暮らす、ということはこういう現実が自分の目の前に広がっていることを直視する、ということも含みます。

で、自分はこれをどう捉えるか、ということです。

私は教師として、大人として、子どもたちには、教育が、あるいはもっと大きい意味で、“学ぶこと”が広げる可能性を実感して欲しい、と願い続けています。

でも、さすがにこのたかだか3000円のお金欲しさに妊娠に走る女子高校生たちに、何をどう伝えればいいのか、と茫然としてしまいました。

が、茫然としている暇はないのです。

私は自分が何をできるかをとことん考えました。Hibberdeneから帰宅して、何日も眠れない夜を過ごし、いろいろ考えました。

もしも自分があの地域に住む子どもだったら、将来、何かになりたい、と夢想することがあったのだろうか、と想像してみました。

目の前に広がるのはただただ風に揺れるサトウキビです。家に目を向ければ、お酒に飲まれてしまっている母親。父親は多くの場合は同居していません(ズール族の習慣で多額な結納金が必要なため、両親が結婚関係にあることの方がめずらしい)。多くの子どもたちの経済環境は厳しく、毎日の食事にさえ事欠くこともあるのです。

結局、何かを選択しようにも、世の中にどんな選択肢があるのか、というそもそもの情報が圧倒的に欠落しているのです。

「それだったら、あの日本で大ベストセラーになった、『13歳のハローワーク』を南アフリカバージョンで作れないだろうか」

というアイディアがウワ〜ッと勢いよく浮かんできました。

13歳のハローワーク』とは、村上龍さんが作成した中学生向けの仕事ガイドです。この本が優れているのは、なんといっても、中学生が自分の得意な分野から将来の仕事を学ぶことができることです。

いかに情報が隅々まで行き届いているような日本の社会でも、実際、子どもたちが将来の仕事としてイメージをわかせやすいのは、身近にいる大人の職業からかもしれません。

昔のように、家業を継がなくてはいけない時代はとっくに過ぎたのに、多くの人が自分の親の職業に就くことを選択するのは、やはりその職業が幼い頃から身近にあったことが大きな原因になっているのでしょう。

でも、Hibberdeneに暮らす多くの子どもたちにとって、自分たちの周りにある“職業”は、片方の手で数えられるほど限られているのです。

学校の先生、警察官、農業の手伝い、酒場の店員、タクシードライバー……。これらの仕事は世の中には必ず必要です。が、これだけではいかんせん、子どもたちが想像力を掻き立て、憧れの職業に就くことを目標としてもらうことは難しいです。

13歳のハローワーク』のページを見ていくと、本当にいろいろな職業を学ぶことができます。また、その職業に就いたら、一か月平均でどのくらいの報酬が期待できるのか、ということも包み隠さず記述されているのがとても具体的でいいと思います。

この本では、子どもたちが得意な学校の科目から、これを発展させると、こんな職業に就くことができるよ、と職業を紹介していきます。

各職業には、「そこにたどり着くには、どんな勉強をして、どんな資格が必要なのか」という実務的な情報もどんどん登場します。

子どもたちにとって、例えば、

「私はみんなでしている菜園のプロジェクトが好き」

という発言に、こんな風なつぶやきをしてあげられます。

「そうなんだ、菜園が好きなら、野菜を研究する人とか、農業とか、いろいろできるね」

「外で働くことが好きなら、公園を管理することもできるよね」

実は、学校の科目も、あり方も、日本と南アではかなり違いがあるので、村上さんの本をそのまま翻訳しても、南アの実情に沿ったものにはなりません。南アには南ア向けにまったく新しい視点でこういった類の本を最初から作り上げる必要があるようです。

小学生たちには絵本仕立てにして、世界にはどんな職業があるかを楽しく紹介してあげたいと思います。

中学生たちには、本の内容を厳選して、南アの公用語に翻訳して彼らの興味を広げたいと思います。

そして、高校生たちには、それこそ、南アのどこの教育機関で、それぞれが目指す職業に就くための勉強ができるかを具体的に紹介してあげたいと思います。

まだまだクリアしなくてはいけないことは多々ありそうですが、前進あるのみ、で邁進していこうと鼻息を荒くしております。

 

 

 

 

 

author : y-mineko
| 大切なこと | comments(2) | pookmark |

政治を動かした南アフリカの学生たちのデモ

【2015.10.26 Monday
23:17
南アフリカの大学が大揺れに揺れています。



201510月、南アフリカのほとんどの公立大学で、学生たちが立ち上がりました。

最初はヨハネスブルグにあるWITS大学という、世界でも高い評価を受けている名門校で、来年の学費が約11%以上にも高騰する、ということに反対した学生たちのデモがきっかけでした。次に続いたのは、娘ショウコが通う、Cape Town 大学の学生たちでした。

Cape Town大学を始め、多くの公立大学が、いままさに始まろうとしていた学年末試験(南アの学校は、1月中旬、あるいは2月から11月まで)を中止して、学生たちとの交渉に当たっています。

23日は朝から首都プレトリアで、大統領Jacob Zuma氏に彼らの代表者たちが会って交渉するために、そのサポートをする数万人の学生が首都を目指して歩き始めたのです。

余談ですが、南アの非常に著名で実行力のあるNGOGift of Giversという団体が、大統領の執務室があるUnion Buildingまで歩いてくる学生たちに飲み物やスナックの提供をする、という報道が流れました。

これは、多くの南ア人の層が、学生たちを支援している表れ、と受け取られ、一気に学生たちへの支持が拡大しました。

英国ロンドンでは200名ほどの支援者が集まり、学生たちのデモの応援をしました。そういった様子はBBCや欧米のメディアでも大きく取り上げられ、南ア国内のメディアでは中東で起こったアラブの春と同じようなもの、と捉える記事もいくつか目にしました。

学生たちが立ち上がった背景は複雑です。

まず、この動きは、以前このコラムでも書かせていただいた、南アの大学のキャンパスで広がった、Rhodes Must Fall という白人至上主義の過去の遺物や考え方を排除せずに、南アに未来は来ない、という運動と無関係ではありません。

ソーシャルメディアでこの一連の動きは、上のRhodes Must Fallを受けて、#Fees Must Fallと名付けられました。

今年に入ってから、南ア全国の大学で、多くの学生たちがいまだに続く白人が牛耳る教授職や経営陣の体制に異論を唱え始めました。中でも、Cape Town大学は、いまだに経営陣は白人が圧倒的であり、授業料も他の大学に比べると高額なため、その不満のくすぶり方は、今回の授業料値上げが10%越えることをその激しい怒りに油を注いだような形になりました。

南アフリカで大学(短大を含む)に進学するのは、人口の2割程度です。しかし、学位を習得し卒業できるのは、入学時の45%に当たる学生です。55%もの学生が、学業の厳しさ、そして経済的な理由から脱落していきます。南アの大学は英国の大学に近いものがあり、一般教養的な科目はほとんどありません。息子は建築の修士課程、娘は舞台芸術の学士課程でそれぞれ勉強していますが、週の途中は授業と課題に終われ、アルバイトなどする暇もなければ、週末の数時間を除く以外遊ぶ時間もないほど忙しい学生生活を送っています。学位をとる課程は厳しく、教科をひとつでも落とせば即、留年です。

今回、学生たちが求めていたのは、来年の授業料の値上がりを0%にすること、将来的には、大学の学費を無料にすること、そして、大学内で働くスタッフの雇用条件を改善することでです。

教育省の大臣が、最初、上げ幅を政府の発表しているインフレ率6%という数字を提示しましたが、学生たちはそれを受け入れることなく、大規模なデモが連日続きました。そして、とうとう1023日、Zuma大統領から、少なくとも2016年の授業料の値上げはなし、という回答を引き出したのです。

ただ、大統領はまだどこを財源にこの提案を実現させるのか、ということを明言しておらず、不安はまだ続いています。タスクチームを立ち上げて、将来の大学無料化などを検討させる、ということまでは約束したのですが。

南アでは、私立の大学は数が限られていて、学生はほとんどが公立大学を目指します。年間の授業料は大学ごとに差はあるものの、約40万円から70万円ほど。生活費は寮に入ったとしても食費を含め、年間60万円はかかります。そうすると、大学生の学費、生活費は最低でも年間100万円はかかってしまうのです。

これは日本の感覚では安い、と思われるかもしれません。が、南ア全体で、国民の9割近くが所得税を払う義務から免除されているくらい少ない所得しかないのです。実に、人口のたったの13%しか所得税を納めていないのです。所得税は月額6.5万円から発生します。つまり、国民の9割近くが月収6万円以下の収入しかないのです。年額100万円を月単位で考えると優に8万円を超えてしまいます。月額6万円の収入ではいかんせんこれを負担するのは不可能です。

故に、多くの学生は奨学金や教育ローンを組んで、やっと金銭的な工面をします。よく聞く話が、卒業に必要な単位はすべて履修しているのにも関わらず、卒業するためには、大学への授業料の支払いが滞っていて、卒業証書をもらうのに数年かかってしまった、という例です。

それだからこそ、今回の学生たちのデモは、多くの人々の支援を得ました。一部ではタイヤを焼いたり、バリケードを張ったり、という暴力に走った学生もいたようですが、多くはかなり平和的にデモをしていました。



その正反対だったのは、警察の対応です。学催涙弾やゴム弾を撃ったり、スタン手りゅう弾と言われる“武器”を使って学生たちを鎮圧しようとしました。これは、いま、やりすぎであった、と様々な人々が意見を述べています。

さて、学生側は当初の要求の一つであった、授業料凍結を勝ち得ました。が、デモはまだまだ続いていて、20151026日現在、多くの大学の授業はまだ再開されていません。

どうしてかというと、学生側のもう一つの要求が、まったく解決の糸口さえ見えてきていないからです。

大学で働く多くのスタッフは、派遣労働者です。学生側はこれこそ、昔からあった人種に階級性がある制度の名残であり、大学では労働者を直接雇用し、彼らの待遇を改善しろ、という要求を強くしているのです。

この闘争、解決策が打ちさされるには、難題がまだまだ山積みです。

二人の大学生を持つ私としては、彼らの気持ちは痛いほど分かるとしても、学年末の試験が受けられないとすると、結果的に彼らの今年の努力とか、授業料は、どうなるのかな?と不安も募ります。


デモの最中にソーシャルメディアを活用する学生たち

写真のクレジットはすべて、 Shoko Yoshimura。
author : y-mineko
| 大切なこと | comments(0) | pookmark |

「もういいよ」と言われるまで

【2015.10.03 Saturday
03:49
「お母さん、私もKoreansって大嫌いだよ!」

と、学校へ迎えに行った私に、顔を真っ赤にして鼻をぶんぶん震わせて、当時8歳だった娘が言いました。

これは、今から13年くらい前の2002年頃のことでしょうか。家族で赴任していた南部アフリカの小さな国、マラウィの首都リロングウェで英国系のインターナショナルスクールに通う娘ショウコが経験したことです。

幼い頃から真っ直ぐで、どんな環境にも笑顔で飛び込んで行くショウコのこの言葉。何があったのかを聞くと、こんな出来事を話してくれました。

「今日ね、リセス(休み時間)の時ね、Junsuが皆の前でね、“I don’t  like Shoko because she is Japanese(ショウコ嫌い、日本人だから!).  Japanese people kill many Koreans!(日本人たくさんの韓国人・朝鮮人を殺すんだ) って言うんだよ。ショウコはね、頭に来たから、”That’s not true!(そんなこと本当じゃない!)  We don’t kill Koreans! (韓国・朝鮮の人のこと殺したりしていない!)  You are a liar!”(嘘つき!) って言ってやったの  !」

これを聞いて、茫然としてしまいました。

私とこのJunsuのお母さん、マーサは、私たちがマラウィに着任したばかりの頃、リロングウェの町のことを親切に教えてくれた恩人。その頃も、一緒にいろいろな活動をすることが多い間柄で、家族で食事を呼んだり呼ばれたり、ということもしている仲だったのです。

とにかく、ショウコには遅ればせながら、日本がした戦争のこと、日本の軍隊が韓国や中国でした残虐な行為、戦争というものが、どんな時代であろうとも、何処の国が関係していようと、どんなに非人間的な行為であること、などを静かにゆっくり言い聞かせました。

マラウィという土地で、自分の幼い娘にこんなことを必要に迫られて説明するとは想像もしていなかった私も甘かったのです。

次の日、彼女の通う学校の図書館に戦争関係の子ども向けの本を探しに行きましたが、なかなか思ったような本は見つかりませんでした。そこで、その時は、「木陰の家の小人たち」を読み聞かせました。ショウコも5歳上のカンジも静かに何晩かかけて展開されていく物語に聞き入っていました。

戦争は国と国とが争う、“ケンカ” だ、という事実にショウコも気がつきました。


            8歳の頃のショウコ

さて、この話をどうして今書いているかと言うと、安倍首相の70年談話を読めば読むほど気になることがあるからです。

安倍首相の戦後70年談話のこの部分を読んでください。

寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年 のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。


私は、いろいろな面でこの談話には納得しない部分があるのですが、特に、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という考え方にどうしても賛成できないのです。

確かに、親として、自分の子どもが冒頭の出来事のように、一方的に攻撃されるのを嬉しく思ったりはしません。

が、私はそれでも、私たちが日本人であることで何らかの恩恵を蒙っているのであれば、先の日本が引き起こした戦争への謝罪を繰り返しし続けていくのは必要なことではないか、と考えます。

すべての日本の子どもにこれをもちろん押し付けるつもりはありません。

しかし、日本政府機関の一部に従事する人間の家族として滞在していたマラウィでこういう経験をしたわが子には、やはり、歴史の厳粛な事実を教え、自分たちが憤りを持つ相手は、目の前で自分を非難する友人ではなく、戦争を起こした日本なのだ、という私の考えを伝えました。

そして、日本から遠く離れたアフリカのこんな場所で、小学生の子どもに、戦争で被ったであろうその傷をまだ忘れずに、“怒り”として、日本人の子どもを巻き込むその家族へも思いを馳せました。

きっと、私などが想像できる以上の経験を家族のどなたかがされたんだろう、と思います。それでも、私たちを家に呼んでくれたり、親切にしてくれたり、とお付き合いしてもらっていました。

表と裏とで違うことを言ったり、やったりしている、という意見もあるでしょう。でも、私は、家の中でリラックスしている状態で、自分が心に思っている本音を家族にポロリとこぼすことはとっても自然なことだと思うのです。

マラウィに来たばかりの日本人一家に親切にしながらも、つい本音では、戦争のことを話してしまった。それを子どもがそのまま学校でその日本人の子どもに伝えた、ということだと思うのです。

ショウコの反応はもちろんこうでした。

「変だよ!だって、私はJunsuに何もしていないよ!!ショウコは戦争だってしていないよ!」

8歳の子どもの反応として、これは当然のことだと思いました。

でも、ショウコには、例え自分が直接危害や攻撃をしなくても、同じように“加害者”となる場合があることを説明しました。

例えば、いじめ。

彼女には、いじめられている人がいて、それを見ながら何もしなかったら、自分もそのいじめをしているのと同じなんだよ、ということをよく話していたので、この“いじめ”ということをもう一回説明した時に、はっという顔になりました。

戦争をしていないショウコは全然悪くない、でも、ショウコは日本人で、Junsuは韓国人で、日本は韓国にいたたくさんの人に戦争中ひどいことをした。それをまだ許せない人がいる。ショウコはここまで理解しました。

8歳の子どもにはこれで十分だと思いました。

ただ、私はその時ショウコに、Junsuに日本人として、先の戦争で甚大なる被害を韓国・朝鮮の人にかけたことを謝らなくちゃいけない、とは言いませんでした。彼女には、二人の言い争いの“時制”が間違っていることを指摘し、今は日本と韓国では戦争もしていなければ、殺し合いもしていないことを伝えました。

私は、自分では、先の戦争で被害にあった方たちには、謝罪を続けるのは当然だと思っています。ただ、この時のショウコにはそれを求めたり、強制したりはしませんでした。

なぜならそれは、この “謝る” という行為は、彼女がもう少し大人になってから自分で決めることだと思ったからです。年代が上がるに連れ、彼女も自分の知識として、戦争のことを学び考える時期が訪れます。その時に、母である私の立場も理解するでしょう。

私が謝罪を続けるべきだ、と考えることと、彼女にその謝罪を強制するのはまた筋の違うことだと思ったのです。

村上春樹氏は、2015年4月17日東京新聞とのインタビュー【時代と歴史と物語】の中で、「相手国から『十分に謝ったのだからもういいよ』と言われるまで、謝り続けるしかないのではないか」と述べています。

私の信条はこれに一致します。

お詫びって、いくら自分たちの口からそのことについて謝罪を繰り返しても、相手に伝わらなかったら、何もなりません。それに、心から謝りたい、という気持ちのない謝りほど空々しいものはありません。

子どもたちに、“謝罪を続ける宿命”を負わせるのではなく、歴史を直視し、「自分たちは謝罪を相手から、「もういいですよ」と言われるまで続けるべきだろう」という強靭な精神が子どもたちに根付いたらいいな、と思うのです。

積極的に平和を求めるとは、このくらいの度量がなくては今世界で起きている様々な対立に立ち向かうことはできないのではないでしょうか。

私は歴史の事実に謙虚でいたい、と思います。これを自虐的、とは呼びませんし、呼ばれたくもありません。

南アフリカに住んで、多文化の人々の中で生活する私にとって、歴史に、文化に、そして人々の異なる感情に謙虚になることは、自分がこの地で心穏やかに生きていく上で、大切なことなのだと思っています。

author : y-mineko
| 大切なこと | comments(1) | pookmark |

ジンバブウェで殺されたライオンと南アで殺されるために繁殖させられているライオンたち

【2015.07.30 Thursday
05:32
2015年7月28日、ソーシャルメディアにこんなニュースが流れ始めました。

「ジンバブウェで愛されていたライオンが死ぬ」

二日後の7月30日、このライオンをボウガンで狙い撃ち、仕留めきれず傷を負わせ、40時間もこのライオンを追いかけた挙句、銃殺し、首を跳ね、皮をはぎ、頭以外の体を放置した人物の名前などが確認され、世界から彼への非難が怒涛のごとく巻き上がりました。

米国ミネソタの開業歯科医師、Dr. Walter Palmer は、“スポーツハンティング”の大愛好家で、これまでも多くの野生動物を殺し、その写真を得意げに発表している人物です。



FACEBOOKでは、時折、こういったTrophy Hunterと呼ばれる人たちの写真が回ってきて、そのたびに私は自分の血が逆上するのを抑えることができないでいました。

抵抗のできない動物たちを銃や弓で襲う、という人間の行動をどうやって理解したらいいのでしょう。

このTrophy Huntingとは食料を得るためでも、多過ぎる個体数を職業的に減少させるわけでもない、ただただ、動物たちの命を“スポーツ”として奪うことを目的としているのです。

この Cecil The Lion の事件が公になる数日前、Blood Lions というドキュメンタリーを見ました。これは、こういったTrophy Huntingを支えるために、ライオンを人工的に繁殖させ、野生の環境とはほど遠い劣悪な環境で育てている現実のレポートでした。

このドキュメンタリーによると、2015年7月現在、南アでは約220以上のこういったPredator Farmが存在し、最低でも7000頭が、Trophy Hunterたちに至近距離から殺されるために、またその“骨”をアジアの国々に提供するためだけに存在しているのです。

現在、アフリカの野生に存在するライオンは2万5千頭しかいません。ここ数十年で半分以上がいなくなりました。だからこそ、人間が不自然に繁殖させている数がその三分の一に迫っている、という不自然さを非常に危険なもの、と思う人間は私だけではないでしょう。

このドキュメンタリーの中で、ライオンたちを繁殖している農家がこんな主張をしています。

「これは私たちのビジネスよ!何が悪いの?」

この主張に茫然としてしまいました。

確かに、私は菜食主義者ではないので、飼育されたポークやらチキンやらを食べます。顔も見たこともない他人にこれらの動物の命を奪ってもらい、家族の食卓に上ってもらうのです。

狭い、野生の環境とはけた違いの庭のような環境で飼育されたライオンたちは、こういった農家からTrophy Huntingをする別の農園に売られ、その農園の運営するホームページで値段をつけられて、自分が銃殺される日を待つのです。

ハンティングするためのそのお値段は一頭につき、200万円から700万円ほど。立派なオスであれば値段は跳ね上がります。前出のDr. Walter PalmerもCecilをボウガンで撃つために日本円にして700万円以上のお金を支払っていたそうです。

ただ、飼育されたライオンたちは、まったく“野生”の動物ではなくなっているのです。惨酷なことに、彼らが銃殺される日が近づくと、飼育者たちは、ライオンにあまり餌を与えず囲いのある地域に放します。

Trophy Hunterたちは、車に乗ってライオンに近づきます。人間の気配を察すると、人間によって餌を与え続けられた彼らは、自分たちに餌を与えに人間が来てくれた、と誤解して、その車に近寄ってくるのです。

Trophy Hunterたちはほとんどが狩猟のスキルもない素人の、ただただ彼らの殺戮が目的の個人ですので、こうやって近くに寄ってきたライオンをそこで歓喜しながら銃殺するのです。

これがどうしてスポーツと呼べるのでしょうか。

私はまだ自分が動物を殺して食することと、このTrophy Huntingとの違いを明確に文章にできません。まだまだ答えを見出していません。

ただ、今、世界的にTrophy Huntingへの反対のうねりが大きくなっている時期に、ここに文章にしておくことで、一人でも多くの人にこういう現実があることを知ってもらえるのではないか、と考えたのです。

このTrophy Huntingには、いま、別の疑惑が浮き上がっています。ドキュメンタリーの中でも触れていますが、こういった農家が、“環境保護”のため、と偽り、先進国の大学生などを呼び込み、ライオンの赤ちゃんの世話をさせたり、一緒に遊んだりさせて、多額の費用をむさぼっているのです。

月額にして彼らが払うのは約30万円です。この金額は南アの公立学校の教師の三か月分のお給料です。どれだけこの金額が大きいか理解していただけるでしょうか。

環境保護とライオン人工的繁殖はまったく別のものです。どうぞ、日本の皆さんも騙されませんように。

このドキュメンタリーの中で、非常に興味深いコメントがありました。

「残念ながら、こういったライオン繁殖農場を経営しているのは、南アの白人農家です。アパルトヘイトで、白人以外には人権さえ与えなくても当然と思っていた人たちなのです。人間にさえ最低限の権利を与えることを考えなかった人たちが、動物に権利がある、などと考えること自体難しいのかもしれないのです。これはもしかしたら、南アのアパルトヘイトのもう一つの負の遺産かもしれない」

私が見た、このBlood Lionsの上映会はダーバン国際映画祭の上映映画の一つのだったのですが、幸いにもこのFilmの作成に携わっていたプロデューサーなどもその場にいて質問に答えてくれました。

忘れられないやり取りがありました。

「Trophy Huntingに反対する側は金銭的な恩恵がゼロなんです。そして、Trophy Huntingに賛成する側は大儲けをしているのです」

Cecilを助けられなかった私たち。でも、いま、世界中の動物を愛する人たちがソーシャルメディアなどを介して、Dr. Walter Palmerに対する非難を強めています。彼の経営する歯科クリニックはすでに閉まったようですし、ジンバブウェ政府も彼が雇ったローカルガイドを拘束しました。いくつかのニュースによると、ジンバブウェ政府はDr. Walter Palmerの逮捕も目指しているようです。

この動きが本格化して、Trophy Huntingが何らかの形で世界中から禁止されることを願ってやみません。

author : y-mineko
| 大切なこと | comments(4) | pookmark |

子どもは殺されないよね?

【2015.07.22 Wednesday
17:02
「先生、……でも、戦争でも、子どもは殺されないよね?」

小学2年生の無邪気な質問に、私はこう答えました。

「あのね、戦争っていうのは、一人でも多くの敵を殺すことがいいことなの。戦争の時は大人も子どもも関係なくて、あなたが“敵”だったら、その敵の大人はあなたを殺すことをいいこと、と思って殺すんだ」

この会話は私が日本のいろいろな小学校で、人権や平和といった概念を元に英語の授業をしていた時、“難民”というテーマで授業を行った時に出てきたものでした。

日本の子どもたちのナイーブさに驚くとともに、彼らがいかに“戦争”からかけ離れた生活を送っていることに感謝しました。が、同時に、遠く離れたリベリアやガザでは、戦争状態しか知らない子どもたちも大勢いること、ということに胸が締め付けられたことを記憶しています。

私は1991年から2004年まで、グローブ・インターナショナル・ティーチャーズ・サークル(GITC)という民間の英語教育研究団体を主宰し、教材を作り、先生方にセミナーなどを企画し、そして請われれば全国の小学校に赴いて初対面の子どもたちに英語の授業をしていたのです。一回限定の英語の先生として。

「小学校低学年に難民だの地雷だの、というテーマは重過ぎるのでは?」

といった反対意見も頻繁に聞きました。

が、私は子どもたちには真実を伝えよう、真実を伝えて、そこから何を受け取るか、またそれを超えていくのは子どもたちに任せよう、という姿勢でした。私には、どんなに幼い子どもでも、大人が真剣に訴えれば必ず耳を傾けてくれる、という自信がありました。

もちろん、小学校1年生に、どこでどのように今、戦争が起きているか、などという“事実”を伝えることが目的ではありませんでした。

私たちの教材は、世界で起きているさま様な出来事を子どもたちが理解できる日本語で伝え、その中に出てくる一つか二つの英語のフレーズを、そのテーマ事学んでもらおう、という手法で作成されていました。

例えば冒頭でご紹介した『難民』というテーマでは、リベリアの内戦で住む場所を追われたリベリア人の女の子マータが主人公の紙芝居をメインに授業を組立てました。ストーリーは全編日本語で子どもたちに読み聞かせます。

その紙芝居では、マータが大統領と敵対する言語を話す部族出身だったために、大好きな学校も家も犬もおいて、家族で安全な場所まで逃げる様子を描きました。これは私が実際に知っている少女を元にストーリをまとめたものでした。
ハイライトは紙芝居の筋に沿った替え歌で、子どもたちに、「おうちに帰りたい、はI want to go home. と言うんだよ」と紹介し、それをみんなで歌いました。

ただ、その時、私は、

「大好きな犬も、大好きなお友達も、大好きなおもちゃも、大好きな弟と一緒に遊んだマータのお家はね、焼かれて無くなっちゃったんだ。そのことを思いながら、マータになったつもりで、その無くなっちゃったお家に帰りたい、と言ってみよう」
と伝えました。

そうすると一人の女の子が、涙がこぼれそうな目をしながら、ゆっくり、言葉を選びながら、こういう質問をしたのです。

「……マータの“お家に帰りたい”と、私たちがお友達の家から自分の家に帰りたいときにいう“お家に帰りたい”って、同じなの?絶対同じじゃないよ。違う言い方があるんじゃないの」

不覚にもこれを聞いて私はポロリと涙を流してしまいました。

「そうか、そうだよね、同じじゃマータに悪いよねぇ。でもね、言葉はまったく同じなの。でも、それを言っている心はうんと違うよねぇ」

子どもたちにとって、難民という概念が難しくとも、少なくともこの授業をしている間、彼らの共感する心、Empathyは大きく膨らんで、自分には何の落ち度もないのに、ある日突然、“難民”とならざるを得なかった、リベリアの女の子、マータが身近になった瞬間でした。

“I want to go home.”

この英語の文章には、動詞があり、二つ目の動詞が不定詞の To でつながっています。でも、子どもたちにはこんな文法の説明はまったく必要ではありません。でも、このフレーズは彼らの心に、このマータの紙芝居と共に深く胸に届いていたと思うのです。

そして、そののち、彼らが中学に入ってから動詞を二つ並べる文法を学ぶとき、この“I want to go home.”が彼らの胸のどこかの引き出しから出てきて、彼らにそっと寄り添ってくれたら……。

これが私たちの目指す、日本の小学生への英語の授業だったのです。これが彼らの英語の幸せな導入になることを願ってやまなかったのです。(現在は元GITCの中心メンバー町田淳子氏がGITCの教材をさらに開発して活動を継続しています。ベルワークス またはESTEEM

こんなことを久しぶりに思い出したのは、インターネットで知ることになった、若い人たちのデモの様子です。

これまで見ることもなかった、あの世代の若者たちの政治に対する行動に目を見張りました。

もしかしたら、もしかしたら、年齢的に考えると、あの若い人たちの中には、ひょっとしたら、こんな私の授業を一回受けたことがある人がいるかもしれない、と僭越ながら思ってしまったのです。

そう考えたら、自然に出てきたのはただただ涙でした。

英語の授業を通しながら、戦争はダメだ、と延々と訴えていたにも関わらず、ついにこんな事態になるまで事態を楽観視していた自分が腹立たしく。

どう考えたって、今回の安保関連法案は、自公だけで強行採決された安倍政権の暴力です。

1970年代後半から日本を離れ、米国、欧州で学び、その後アフリカの各地で生活した後、2004年から積極的に南アフリカに永住することを選択している私にとって、これまで、「日本人だから」ということで受けてきた恩恵は数知れません。

日本がこれまでアフリカで実施してきた様々な援助は、確実に多くのアフリカの人々の知るところであり、感謝されることであり、また、私たち日本人を守ってきてくれた大きな要因でありました。

自分の安全がいま、たった一つの政権の暴力で壊滅的に脅かされた、とは思いません。アフリカの多くの人たちはそんな無礼な人たちではないからです。日本が戦争に参加するようになったからと言って、即座にこれまでの日本への感謝や尊敬の念をどこかに投げ出すような人たちではありません。

が、私と私の家族が、これまでの日本の不戦の姿勢に守れてきたのは紛れもない事実です。

それがあるのに、それが事実としてあるのに、こんな憲法解釈をある一つの政権が変えてしまったら、次の世代に私たちが享受してきた安心感や戦争を選択しない、という崇高な精神をバトンタッチできないではないですか。

戦争に参加する日本として、何を世界に残しますか。日本が世界の平和に貢献するためには、日本しかできない分野でさらに精進するのがもっともいいと確信しています。

アフリカで、日本人は本当に“特別扱い”を受けることがあるのです。

「あなたは日本人だから信用するよ」

どれだけ多くの人にこう言われてきたでしょう。そのたびに私は自分が日本人であることを誇りに思い、この信頼に答えるよう、がんばろう、と活動してきたのです。

私は、日本の子どもたちが、将来戦争に行くことを支持しません。また戦争があるのに何も知らないままでいることも支持しません。

日本の子どもたちだけでなく、世界の子どもたち、みんなが、戦争を体験せずに大きくなれるようにするのが大人の役目です。

そのための努力をいま、皆がする時なのでしょう。

 
author : y-mineko
| 大切なこと | comments(1) | pookmark |

ダーバンで起きたゼノフォビア(外国人恐怖症)襲撃

【2015.06.02 Tuesday
21:58
私の住む南アフリカのダーバンが日本のメディアに登場する頻度はあまり高くありません。が、2015年4月は外国人が襲撃されたことが大きく報道されました。

その襲撃のことを説明する前に、そもそも南アフリカとはどんな人種が住んでいるか、ということを説明させてください。

南アフリカのファーストフードのお店、Nandosは、グリルチキンがメインで、南ア人には絶大な人気があります。このお店、ファーストフードのチェーン店とはいえ、各店舗で丸ごとチキンをその場でグリルしているので、とっても美味しいのです。
私 がNandosを「結構やるな〜」と思っているのは本来の味だけではありません。このNandosのコマーシャルが面白いのです。でも、その中身、かなり 政治的な際どいもので、TVでの放送禁止は何回も受けています。大統領や政治家をおちょくるなんてお茶の子さいさい……。でも、毎年、これでもか、これで もか、と新しいものが出てくることを見ていると、Nandosの会社もコマーシャルの制作会社も一向にめげていないことがわかります。

ま あ、放送禁止になると、メディアやソーシャルメディアで話題沸騰になりますから、実際にTVで放映できなくても宣伝効果は絶大なのでしょう。でも、嬉しい ことに、南アのメディアと政治の関係は全うです。少なくとも政局の意にそぐわないからといって、どこかに呼ばれてお仕置きなどはされていない様子……。

さて、そのコマーシャルの中でも特に膝を打ったのは、数年前のもので、いま大変なことになっている外国人排斥主義のことを逆手に取ったものでした。

「南 アの問題はね、外国人が嫌いなことさ!」と言う男性の声、そして南アにいるいろいろな国籍の人を登場させて、「ジンバブウェ人!」“プシュ!”という効果 音と共にその人物が画面から消える、というもの。ここでは不法移民がどうか、など問題にしません。ジンバブウェ人の後に続くのは、ナイジェリア人や他のア フリカ人、パキスタン人、中国人、インド人、ヨーロッパ人、アフリカーナと呼ばれる南アの白人、それになんと、南アの黒人部族ズール族ややコサ族など、ほ ぼ全部の人種?が対象でした。で、最後に残ったのは、南アの元々の住人であるコイサン族の男性一人。

つまり現在の南アの社会を構成する私たちほとんどが祖先を遡れば、“外国人”ということなのです。

最後のオチは、「まあ、皆さん、いろいろな好みがあるので、また新しいメニューを二品追加しました!」というものです。

いつの段階で南アに来たか、で選別されることの滑稽さを笑えるのがNandosのコマーシャルなのです。

繰り返しますが、現在南アに住む人々は、圧倒的少数の原住民を除けばみんなが“移民”なのです。それゆえ、2008年に続いて再発した今回の外国人排斥運動が残念です。

発端は、南アの黒人最大民族のZULU族の王様Zulu King Goodwill Zwelithiniが地方で演説したときに行ったスピーチで触れた「外国人は国へ帰れ」とう発言、と多くの人が言及しています。

こ の南アの王様たち、政治的は何の権限も持ちません。が、南アにはなんと地域別に7王族もいて、その存在が国費で維持されているのです。ちなみに王様の年間 給料?は日本円にして1億円ほど。その他にいろいろな維持費もすべて税金から支払われます。ちなみに、年間にすると、70億円ほどの税金が彼らに使われて いるようです。(出典http://businesstech.co.za/news/government/88860/how-much-you- pay-for-south-africas-royal-families/)

さて、彼らの存在意義はさておき、私は、今回の襲撃事件 のすべての理由と責任をこのZulu King Goodwill Zwelithiniに押し付けるのも間違っていると思います。もちろん、こんなことを言う王様を擁護するつもりはないのですが、やはりこの暴動は、 1994年の故マンデラ氏が選挙に勝って、黒人政権になってからも相変わらず続く苦しい生活や、1994年以前からの白人が富を集中的に掌握している、と いう図式から一向に抜け出せない多くの黒人層の不満が爆発したからだと思うのです。

さて、ゼノフォビアの話題に戻ると、実は日本人の私と子どもたちは南アでは外国人。普段から危険な地域に立ち入ることは極力避けていますが、今回、“外国人”だから、と言って危害が及ぶような自体にはなっていません。

暴 力の対象になっているのは、残念なことに、アフリカ系の移民たちです。ダーバンで始まった今回の外国人排斥騒動は、ダーバンの市街地の二箇所に難民キャン プを設立しなくてはいけない自体にまで発展しました。2015年6月現在、自宅から避難した外国人は総計8000〜10,000人にも上り、現在もキャン プに留まっている人は400名になります。

ダーバンにある難民キャンプのひとつはチャッツワースというインド系南ア人が多く住む地域にあります。このキャンプには、私がボランティアに行っていた時には約2000人の難民が避難していました。

国籍はジンバブウェ、コンゴ、モーザンビーク、ナイジェリア、エチオピアなど、本国にまだまだ問題がある国々ばかりでした。

そして、外国人排斥運動をしている人たちは、ほとんどが貧しい黒人層です。彼らの言い分を聞くと、こういった声が拾えました。

「外国人たちが治安を悪くしている」
「外国人たちが安く仕事を請け負うから、地元の自分たちに仕事がこない」
「ドラッグとか悪いことは全部外国人が持ち込んでいる」
「外国人が無制限に南アに移り住んで南アの資源を使い果たしている」

残念ながら、これらの言い分の殆どが根拠のないものなのですが、「外国人たちが安く仕事を請け負うから、地元の自分たちに仕事がこない」という意見をもう少し掘り下げてみましょう。

こ れは、例えば、南アの家事労働に従事する人たちの最低賃金は時給約100円です。一日8時間、週6日、月26日労働で月給は約2万円というところです。南 アは決して物価が安いわけではないので、これで生活していくのは極めて難しい。が、これが政府が保証したい“最低賃金”なのです。

が、ちょっと前のことになりますが、ケープタウンの高級住宅地キャンプス・ベイでこんな広告が地元のフリーペーパーに掲載されて多くの人の怒りを買いました。

急募 通いの家政婦(子どもの世話を含む)、週5日勤務一日7時間労働、月給1万5千円(交通費込み)、南ア人か正規の移民のみ対象。

この住宅地は南アでも有数の富裕層が住む地域で、この人たちの年収は数千万円を下らないはずです。だた皮肉なことに、もともとこういう広告を出す人たちは、ドメスティックワーカーと呼ばれる人たちに“最低賃金”があることさえ知らないでしょう。

なぜか。それは、このような労働条件で人を雇おうとしている南アに住む富裕層は、彼らの人権とか生活に無頓着だからです。ここに南アが抱える人種間の問題の根っこがある、と言っても過言ではないのです。

で も、問題は、こんな待遇で働く人などいないだろう、と思いきや、仕事がない人たちはこんな待遇でも仕事にありつければ、という思いで仕事を受けてしまうの です。そして、この最低限の賃金を下回る仕事を受ける人たちは、圧倒的に南ア人ではなくて、ほかのアフリカの国から出稼ぎのために南アに来ている人たちな のです。

これは家政婦という職種に限らず、すべての特定の技能を必要としない職種に渡ります。

ダーバンにもタウンシップ と呼ばれる黒人が多く住む地域に、外国人が経営するお店がたくさんあります。これは、多くの途上国にある日用雑貨や食料品を大変小さい単位で販売して、細 かく細かく売り上げを重ねていくお店です。一日の利益が1000円に満たない、というお店もあるのです。

ただ、他に生きていく糧がないとしたら、祖国を追われて、何をしてでもその生活を立て直していかない状況に追われていたら、こういう条件の悪い仕事でさえ受け入れてしまうことを理解するのは難しくないです。

外国人を排斥する人を擁護する気持ちはありません。が、排斥する人たちの側の不満もよく理解できるのです。南アの失業率は、人種層によってかなり差がありますが、一説によると黒人系南ア人の失業率は2014年の統計で40%近くにも上るのです。
以下の表を見てください。これは、南ア政府の発表する雇用統計(2013年版)の数字をMomentum Asset Managementという会社が人種によって再構成したものです。


出典:http://www.momentuminv.co.za/AssetManagement_Home/UnemploymentRateClimbs.aspx

2008年〜2014年の人種間の失業率の差が一目瞭然にわかります。黒人系が2013年28.8%、白人系が7.2%ということは、人種間で4倍の開きがあるということになります。

自分の目の前で、人種によって、これほどの差が存在する事実を日々突きつけられたとしたらどうでしょう。そのうっぷんを晴らすために、さらに社会的弱者である外国人移民を排除するような行動に走る人がいたとしても、これもまた想像に難くない南アの現実の一つでしょう。

この事件は政府が警官を多数動員して鎮静化に努めました。いま、一応、その動きは鈍くなっています。が、上にあげた社会的要因が改善されない限り、またいつゼノフォビアの動きが再発するかは時間の問題でしょう。
 
私たちボランティアは寄付された品物を買い物バッグに入れたり、食事の分配を
手伝ったり。

ジンバブウェから来ている両親と一緒にキャンプに
いたジョセフ君。3歳です。


チャッツワースにある難民キャンプなので、食事も
もちろん、ブリヤニです。
author : y-mineko
| - | comments(0) | pookmark |

デモに参加し、そして引き下がる。失敗?いいえ!

【2015.04.08 Wednesday
20:12
2015年3月、南アの多くの大学で、学生たちの人種差別への抗議活動がかなりの広がりを見せました。

発端は、私の娘も通う、ケープタウン大学に設置されている、セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日)という、イギリスの政治家であり、その後南部アフリカで様々な事業を営み、ダイアモンドと金の採掘などにより巨額の富を得た人物の銅像を大学のキャンパスから撤去しろ、という要求からでした。

セシル・ローズは、“アフリカのナポレオン”と異名を取るほどの権力を有していました。彼の名を冠したローデシアという国もありました。現在、北ローデシアはザンビアに、南ローデシアはジンバブウェと独立し改名しています。ただ、現在も南アの著名大学の一つは、ローズ大学といい、彼の影響力の偉大さは推して知るべし、という感があります。

「神は世界地図が、より多くイギリス領に塗られる事を望んでおられる。できることなら私は、夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と自分の著書のなかで豪語したことも有名です。

国際的な知名度としては、アメリカの元大統領、ビル・クリントン氏もその奨学生であったローズ奨学金の創設者でもありました。これは、生涯独身だった彼がその莫大な遺産のほとんどを英国のオックスフォード大学に寄付し、英国領あるいは米国のように英国に関係の深い国々からの優秀な大学院生にオックスフォード大学の大学院で学ぶための奨学金を捻出し続けているのです。彼のビジネスの中には、日本人に馴染みのある、ダイアモンド会社、デビアスもその一つです。

で、その人物の銅像がなぜいまこんな嵐の中にいるのか。

それは、彼が類まれなる人種差別主義者であったため、彼の銅像を自分たちの学んでいる大学のキャンパスに置きたくない、ましてやその名前を大学の名前としているのは、彼に代表される黒人を家畜のように扱った、植民地主義をいまだに肯定している可能性を示唆するからだ、という主張です。

最初、この抗議活動を聞いた多くの南アフリカに住む大人たちは、「なんで今頃?」と思ったのです。が、活動が多くのソーシャルメディアや既存のメディアで詳細を伝えられ始まると、学生たちの抗議活動への評価は、きっぱりと二つに分かれていきました。

多くの黒人系南ア人は、

「そりゃあ、そうだよ。言の発端を考えれば学生たちの主張が正しい」

多くの非黒人系南ア人は、

「彼の銅像を引きおろすんだったら、彼の奨学金の恩恵を受けた人間はそれを全部返還するんだろうな」

娘のショウコは、ケープタウン大学の三年生で舞台芸術を専攻しています。学生の人種の割合は?などという質問には、かなり ”きっ”として、

「人種で友達のこと区分けしたことさえないよ。お母さん、それは不愉快な質問」

と言うほど、普段“人種”など意識しないで大学生活を送っている様子です。

が、前回の曾野綾子さんの記事を発端として、日本の新聞などにもインタビューされ、彼女の中にはやはり長い年月差別されてきた非白人系の友人に対する「申し訳ない」と言った気持ちが普段より強かったようなのです。

彼女からこんな電話がかかってきました。

「お母さん、私もRhodes Must Fall(ローズを引きづり落とせ)のデモに加わろうと思う。最初はあまり賛成できない、って思ったけど、やっぱり悪いことをして利益を儲けた人の銅像をそのままにしておくのは間違っている」

私は彼女にこうアドバイスしました。

「そうなんだ。でも、デモといっても暴力にだけは巻き込まれないように。学生の中の数人だとは思うけど、銅像に汚物を塗ったりしたって一般の人の賛同は勝ち得ない。自分の心が何を思うか、よおおおおく耳を澄ませながらデモに参加しておいでね。くれぐれも危険なことはしないように」

デモに参加するのはいいけれども、母として、娘が暴力の被害者になるのも、加害者になるのも避けて欲しいと思いました。

さて、こう送り出したとは言え、内心私は彼女のデモへの参加が本当に彼女の本心から出ているのかどうか、ある種の疑問を持っていました。どうしてかというと、彼女は幼い頃から、“Empathy”という「共感する心」が人並み外れて強く、周りにいる黒人学生の中のかなりラディカルな意見にひっぱられている可能性が高かったからです。

でも、若いうちに衝撃的なパワーの波に乗って、自分の意見をデモという形で表したり、議論をしたり、ということも絶対経験しておいた方がいいです。

同じケープタウン大学生で、将来法律家を目指す男子学生が、自分の将来に不利になるから、と言ってメディアに写真を撮られることを恐れて何日かキャンパスから遠ざかっていたそうです。これ、私からすると、「こじんまりしたヤツだ」と情けなくなります。過激なことを奨励するつもりはないのですが、若い頃から自分の不利有利ばかりを考えて送る生活って、結果はろくなことにならない気がします。

で、ショウコ、デモには二日間参加したようですが、その後、こんな電話がかかってきました。

「お母さん、デモに参加するのはやめた。みんな暴力的過ぎるし、他の意見を聞こうともしていない。これではいい結果はでない。たとえ銅像を撤去しても、幸せになる人なんてでてこないよ」

そうだよね、この電話は結構涙がらみで、彼女の中でこの結論に達するまでに、かなりの葛藤があったことがよく分かりました。

「ショウコ、いいんだよ。ショウコは自分の中で、最初は賛成してデモに参加した。でも、参加して、みんなと議論するうちに自分の中でみんなに賛成できない部分がよくわかって、それで参加するのをやめたんでしょう」

「うん、そうなの」

「でも、きっと、参加しているほかの人たちから非難されているんだよね」

「……そうなの。みんなショウコが何も分かっていないって言う」

「あのね、意見が対立するって、そういうことなのよ。でも、ショウコの心の奥にある“声”って、ショウコが今まで培ってきた経験とか、考え方とか、家族のあり方とか、いろいろなものの集大成だから、それにきちんと耳を傾ける、ってものすごく大切なこと。他の人の意見と違っても、自分が“これは違う”と思ったら、その声を大切にしないとね」

「うん、難しいけど、がんばる。私ね、いま、白いワンピースをずっと着ているんだよ」

「白いワンピース?」

「そう、白いワンピース。これはね、ショウコの願いなの。“PEACE”って意味なの」

ショウコさん、なかなかやります。が、仲間たちから見れば、彼女は“転向”したわけです。彼女がこれから先、どんなことに繋がるか、しっかりと見守っていきたいと思います。

ただ、私の意見も伝えておいた方がいいと思い、私の尊敬する、南アのフリーステート大学の副学長、ジョナサン・ジョンセン教授の書いた手紙を彼女に送りました。彼の手紙には私の考えていたことすべてが反映されていたからです。

ジョンセン教授は、これまでも人種差別の問題が起こるたびに、本当に理性的な判断を表明してくれていて、心が救われます。手紙の英語全文はここから。

手紙の大切な部分を抽出し要約します。

「セシル・ジョン・ローズの銅像を取り除いて、博物館にでも押し込んでおく、ということは、反教育的であり、反進歩的であるだけでなく、自分たちのことを否定すると同じことだ」

「真実は、私たちは全員がこの複雑で苦い過去に絡められている、ということだ。私も米国のレーガン大統領が進めた奨学金の恩恵者だ。レーガン大統領とアパルトヘイト政権の共産主義を打倒する、という目的のものだっただが、結果的には黒人弾圧にもつながっていた」

「これが歴史の持つ問題なんだ。皆がその一部なんだ。自分の祖先の中にさえ、特にメラニン色素が薄い祖先の中にはとんでもない人種差別主義者の汚らわしい人物がいる。そういった祖先のしたことに対して何らかのうっぷんを晴らしたいと思わないことはない、でも、それをするということは自分を否定することにもなる。そして、そいつらからの恩恵を受けていない祖先をも巻き込むことになる」

「そうだ。セシル・ジョン・ローズの銅像は、南アの主要な大学のキャンパスの目立つ場所にあるべきではないかもしれない。が、彼をこの国の歴史から排除すべきではない。彼の残した複雑で混乱した遺産を自分たちとの関係をも含めて、どう再認識していくか、という議論が必要だ」

「そして、この最認識の作業には、別の厄介な疑問に解決しなくてはいけない。それは、21世紀の現在を生きる私たちの価値観で、19世紀に生まれた人を判断することが、正しいかどうか、ということだ」

「100年前英雄たちの中には、女性や少数民族をまったく顧みなかったヒーローたちがいる。100年前はそんな時代だったのだ。アフリカの王の中には自らの手でいくつものコミュニティーを殺戮した王だっている。が、現在、その王は歴史的に輝かしい位置を享受している。おぞましい?その通り。でも、それだけで歴史の記憶から排除されるべきなのか?いや、それも違うんだ」

2015年4月現在、ケープタウン大学は、セシル・ジョン・ローズの銅像を現在の場所から移すことに合意しました。クワズール大学では、キャンパスにある、キングジョージの銅像に白いペンキがかけられ、放置されたままです。ローズ大学では大学名の変更が検討され始めました。

南アフリカはまだまだアパルトヘイトの傷跡を深く深くそのうちに抱える人々が暮し、学び、働き、そして生活している国なのです。

そのまっただ中で青春を送る日本人のショウコです。最初どんなに「これだ!」と思って、動いたとしても、途中でね、心の底の深くて、遠いところにある、「う〜ん、なんか変」という声に気がつくことってあるのです。で、それを聞いて、それをまた行動に反映されるって、勇気がいることです。もしかしたら、なかなかできることじゃないのかも知れません。でも、「一度決めたら絶対に変更しちゃいけない」って、ありえないです。人生って、そんなに単純であるわけがないのです。

デモに参加し、そして引き下がる。大丈夫、大丈夫。行動してからする反省の方が、何もしないで批判だけしている人より、ずっと、ずっといい、とラディカルな母親は思い、転びながらでも行動を起こす娘を応援するのです。


尊敬するジョナサン・ジョンセン教授。南ア人種関連機関の会長でもあります。
author : y-mineko
| あんなこと、こんなこと | comments(1) | pookmark |

南ア永住の日本人より曽野綾子さんへ

【2015.02.18 Wednesday
00:25
南ア永住の日本人から曾野綾子さんへ

曾野綾子さんが、アフリカのアパルトヘイトを見て、それからこういう考えを持つようになった、という記述があるので、日本に生まれ、その後、米国、欧州、アフリカ各地を生活した後、南アフリカを永住の地に選んでいる私からも、彼女のその意見がいかに現実を正しく“見ていない”かということを書いておくことにします。

**********************
曽野綾子さん、あなたの意見を要約すると、こうでしょうか。

*20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。

*南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃後、白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例を出し、人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい、と思うようになった。
(産経新聞 2015/02/11付 7面より)

他のアフリカに関係がある人たちもいろいろあなたの論点のずれているところを指摘していますが、南アフリカに永住し、ここの生活者である私が、指摘しておかなくてはいけない、と思ったのは、ここのところです。

【白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例】

確かに、いま私が住むダーバンのダウンタウン近くのかつては高級リゾートマンションであっただろう物件の中には、しばらくメインテナンスがされていないのが明白なものがいくつか目につきます。これは、所有者が共同でするビルの補修を何らかの理由で放棄し、その後に各国から来ている不法移民が入り込んでいる、というケースもあります。

ですが、あなたの言う、何十年も前に、白人専用だったマンションに黒人家族が入居し……、というくだりが私には胡散臭いのです。

何故かというと、アパルトヘイトが終焉を迎えた頃、白人専用の“高級”マンションに入居できるような裕福な黒人層はほとんど存在していなかったのです。職業の自由も住居の自由も黒人には許されていなかったアパルトヘイト政策下では当然のことです。が、万が一、そういう黒人がいたとしましょう。でも、そういう富裕層の黒人は、あえてマンションなど選ばず、一軒家の邸宅を選ぶはずなのです。

日本の国土の四倍の広さを持つ南アフリカです。都市部にたくさんマンションが必要になってきたのは最近のことだし、それに、そもそも、“高級マンション”という概念自体が日本のそれとはまったく違うことも指摘しておきます。日本で言えば、例えば都会の“億ション”と呼ばれる物件などがこの高級マンションになるのかもしれませんが、南アで高級マンションと言ったら、一フロアが一物件となるようなもので、こういうところであれば、家族が10数人いたとしても、何の問題もなく生活していけるでしょう。

でも、こんな簡単に話を終わらせる訳にもいきません。あえて、その白人専用の高級マンションに富裕層の黒人一家が移り住んだとしましょう。都会のマンションを選ぶような黒人は、かなり現代的で高等教育も終えているエリートでしょう。そういう黒人は日本や米国のようなエリートたちと同じで、ほとんどが都会では核家族で住んでいるのです。そして故郷には親兄弟のために立派な家を建てているはずです。

ですから、白人専用の高級マンションに大勢の黒人が入り込んでそのマンションの給水設備を破綻させた、というのはかなり特別な状況で、あなたが「人種は別に住んだほうがいい」という仰天するような論旨の根拠となるためにはかなり厳しいと思います。

もちろん、私がここにいて、人種間の軋轢を感じない日はありません。いまだに、まだ「アパルトヘイト時代が懐かしい」とまで言う人もいます。

曽野綾子さん、あなたは小説を書く人です。なので、あえて、私の想像も脹らませてみましょう。あなたがその20年〜30年前に南アを訪問されたとき、きっとあなたたちを案内した現地の人間(白人を想定しています)がいたでしょう。そして、きっと、こんなことをささやいたのではないでしょうか。

「黒人たちは大家族で住むんですよ。白人の家族などはせいぜい4人から多くたって6人ですよね。だから、簡単にご想像してもらえると思うんですが、彼らが私たちが住むマンションに引っ越してきたら、水だって、電気だってすぐ足りなくなりますよ」

残念ながら、南アフリカでは、アパルトヘイトが終わってから21年経つ現在においてでさえ、人種間の壁はまだまだ高く、お互いの文化をよく知ろうとしない人たちが人種を限らず存在します。まして、30年前のアパルトヘイトを「良い政策」と信じていた白人だったら、実際の迷惑を受けたか受けなかったか、などまったく関係なく、憶測でこういうことを言ったかもしれません。

が、あなたは本もたくさん書かれる“作家”ではありませんか。こんな実際にはかなり現実的でない状況を引いてきて、人種は別々に住む方がいい、などという発言をされているとしたら、これはあまりにも軽率な行為ではないですか?作家としてだけでなく年長者としてもです。

最後に、2015年現在、私の娘がケープタウンで大学生をしています。ここには、あなたが提唱するまったく逆の毎日が繰り広げられています。

彼女の住む共同住宅用としての一軒家は、一人一部屋は日本でいう8畳くらい、そのほかに7名の他の同居人と共有で使うラウンジ、キッチンがついています。その一軒家には、南アの黒人女性1名、白人女性1名、カラードの男性1名、ジンバブウェからの白人女性1名、ザンビアからの黒人女性1名、スリランカからの男性1名、韓国からの女性1名、そして日本人の私の娘が、何の不都合もなく、共同生活をしています。全員がケープタウン大学の学生やその関係者です。

これが現在のケープタウンのあるひとつの生活の風景です。

曽野綾子さん、あなたには、命をかけてこういう現実が来るよう戦ってきた故ネルソン・マンデラさんはじめ多くの南アの人々にどんな説明をするのでしょうか。

私は日本で生まれ日本で育った人間ですが、南アに永住しております。そして、“日本人”だからといって、ある一定の場所に住め、などと南アの政府にも南アの知識人にも一般人にも言われたことはありません。この国では未来永劫そんなことを言われないでしょう。

南アではあなたのような“知識人”でも、また一般の人間でも、人種差別につながる今回のあなたのような暴言を吐くことは、法律的に許されておりません。
 
author : y-mineko
| あんなこと、こんなこと | comments(59) | pookmark |

嬉しいなぁ

【2014.11.20 Thursday
05:33
偶然にも、先週は二人の子どもが私の友人にとっても親切にしてもらった週でした。

もう成人しているとはいえまだまだ独り立ちはしていない子どもたちが、私の友人たちに私抜きで会ったりしてもらうと心がほくほくします。

私は日本人として南アフリカに永住することを選択している人間ですが、生まれ育ったのは日本で、大人になりかけの時期に魂を吹きこまれたのは米国、社会人としても揉まれてきたのはアフリカの諸国です。

そんな私が子育てをする上でかなり大切にしてきたのが、いろいろな国に住む友人たちとのお付き合いでした。

実際に、何年かに一回は遠くに離れている友人たちを訪問し一緒に時間を過ごさせてもらいます。観光地を巡る旅行も素敵ですが、私が子どもを連れて訪れてきたのは、様々な国で、それぞれの家族と共に普通の暮らしをする友人たちの生活の場所でした。

私は子どもたちと一緒に、ホテルではなくて、友人たちのお宅に(迷惑になることは重々承知の上)、ずうずうしくも何日も泊めてもらって生活を何日か一緒にさせていただいて来ています。

日本人の友人の家であれば、アフリカに暮らす子どもたちに、普段母親の私、お互いの兄妹という役割が固定している人間関係の中のみだけでしか聞けない日本語をたっぷり聞き、使う機会にもなります。これがどれだけ大切かは、日本以外の場で暮らし、子どもたちに日本語を学ばせたいと考えている親の立場の人は理解していただけるはずです。

日本人以外の友人の家では、そこで話されている言語に始まり、毎日食べる食事、垣間見る習慣、宗教行事といった、書物やテレビあるいはインターネットからの情報からだけでは絶対得ることのできない日常の暮らしを体験させてもらえます。
こういったことを説明とか、教訓とかまったくなしで、子どもたちに体感させることで、彼らの心の芯に人と付き合っていくことの楽しさ、また難しさなどを知って欲しいと思いました。

そんなことも遠因でしょうか、カンジもショウコも、自分と異なる習慣や言語を持つ人たちにとても寛容な青年たちに育っているように思います。もっともカンジはもう25歳になりましたから、途上国の常識では子どもが数人いるオトウサンになっていたって不思議はない年頃。つくづくゆっくりと人生を歩いている人です。

20歳のショウコはいまケープタウンで大学生をしていますから、日本人との接触は激減しており、日本語もどんどん退化していっています。今回、どんな場所で会う、といった事前のやりとりはFacebookでのメッセージだったようで、日本語を読むこと書くこと自体に大層苦労したようです。それでも私に助けを求めてこなかったのはエラかった。

彼女の感想です。

「オカアサン、ショウコね、日本に行って日本語とか日本のこととかもっと勉強しなくちゃだめだと思ったよ。ショウコの日本語ほんとにダメだったよぉ。でもね、楽しかったの。本当に嬉しかったの」

ショウコの言葉には、大人に優しくしてもらうのが、どんなにか嬉しかったかが溢れていました。

この優しくしてくれた友人とは東京に住む友人のお連れ合いで、仕事で南アに写真撮影に来ていたのでした。久しぶりに会った彼女が、ボーイフレンドのディランまでちゃっかり連れて来たことを、「すっかり大きくなってBFまでいてちょっと複雑!だったけど相変わらずかわいかったよ。大学生活を本当にエンジョイしているのがよくわかった」と話してくれました。

私は子どもたちが、親とか親戚だけではなく、血のつながりが無くても、頻繁に会うことができなくても、世界に散らばる自分たちの応援団がいる、ということを肌で感じられることが本当にいいなぁ、と思っているので、涙腺が緩んでしまいました。
それに、この出会いがショウコの日本魂?に火をつけたようで、いましきりに大学が終わったら日本に行く!と興奮しています。



さて、カンジは2年間の厳しい日本での生活を終えて、今年の始めに帰国しました。日本での生活は彼の性格をかなり用心深いものにしたようです。が、これも彼の選択したことですし、こういったことを乗り越えて成長していって欲しいと思います。

カンジがお世話になったのは、ヨハネスブルグの友人宅で、彼は大学院に行くための面接に挑んでいたのでした。この家族は私達の南アのおばあちゃん、とも呼びたい、キャシーの義理の家族です。キャシーと私の出会いは、彼女が私のことが書かれていた新聞記事を読んで連絡を取ってきてくれたことに端を発します。

そのキャシーの義理の家族が、カンジが面接を受けに行った大学の教員や学生をしている関係で、今回彼を引き受けてくれたのです。

普通だったら、ホテルにでも滞在しながら準備するのでしょうが、私はこういった“縁”とでもいうつながりを大事にしたいのです。キャシーと出会っていなかったら知り合ってもいなかった彼女の家族。その家族構成がよく似ているせいもあって、私はこのキャシーの義理の娘さんととっても親しくさせてもらっています。

人にお世話になる、ということを煩わしく思う人も多いでしょう。でも、私は世の中が緩やかにつながっていくためには、一緒にご飯を食べたり、ゆっくりする時間を過ごしたり、ということが大切だと考えているので、あえて友人宅にお世話になることを選択したいのです。

もちろん、過去に誤解やら行き違いがなかったとは言えません。でも、ネガティブな経験にポジティブな未来を潰すことはさせません。

私の亡くなった両親は、私が米国に留学したことがきっかけで、結構頻繁に実家を訪問することになった外国人の若い人をあれやこれと面倒を見ていました。一人のデンマーク人の女の子は今でいうギャップイヤーを利用して、両親の家に一年間ほど滞在しました。

父は片言の英語を話せたもの、母に至ってはチンプンカンプン。それでも、なんとか身振り手振りを交えて彼、彼女たちに「オトウサン、オカアサン」と慕われていました。

彼らは何らかの私の関連で我が家にたどり着いているのわけです。さすがの私も、私の不在の両親の家に、何人もの友人の滞在したい、というリクエストを伝えるのはおずおず、という感もありました。

でも、毎回、しごく簡単、単純に、

「いいよ」

という気負うこともない、鷹揚とした答えが返ってきました。

今、自分でもこの頃の両親の年齢をはるかに超えるような年齢になって、両親が何をしていたのかがわかります。
母がよく言っていたのは、「ご縁を大切に」。そして「情けは人のためならず」でした。

どんな形のつながりであっても、お知り合いになった人たちとのお付き合いを大切にすること。自分の家も心も開放して、人を迎え入れることは、巡り巡ってかならずよいご縁となって世の中が平になる、ということ。

実際の世の中はそんなに単純なものではないのかもしれません。また、いろいろな事情があって、なかなか赤の他人を家に入れることを躊躇する場合だってあるでしょう。

でもね、豪華なおもてなしをしなくても、家がちょっと片付いていなくても、そんなことはあまり気にしなくてもいいと思います。

人と付き合う、ということの素敵さ、楽しさ。そして、自分の子どもたちが自分を超えてさらに彼らの人間関係の輪を広げていくのは本当に素晴らしい。

「ああ、南アには峰子さんがいたな、行ってみようかな、子どもを行かせようかな」

と、私は私の友人たちに考えてもらえたら、本当に嬉しいのです。私は仕事が超忙しいので、完璧なお世話はできないけれど、南アを知って欲しいし、こういった生活だって選択できるんだ、ということを私の友人やその子どもたちに知ってもらえたら心からシアワセなのです。

みんな、待っているからね!
 
author : y-mineko
| - | comments(5) | pookmark |


吉村 峰子
writer
English & Japanese
language instructor
interpreter
(Japanese - English)